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吐け口にされやすい自分のことをつらつらと

さいきん本格的に気づいたことがある。

それは、自分は、「人に当たられやすい」んだなあ、「吐け口にされやすいんだなあ」ということだ。

ずっと、そういうことには悩んできていたのだけれど。

さいきんは、飲食関係の仕事をずっと続けているのだけれど、それ以前から、同僚に、「mieさんって、なぜか○○さん(その職場にいちばん長くいる人だったり、上司だったり)から当たりが強いよねえ」などと何気なく言われて、それで、ああ、そういえば、そうかも、と気づく、というのを繰り返してきていた。

たしかになあ、と思いいたり、なんで自分だけそんなに当たられるのかなあと、ふと、思い悩んだら、そのことだけが頭のなかをぐるぐるしだして、

そういえばあのときも、自分がやったことではないのに、○○さんから勝手に自分のせいにされて濡れ衣着せられてたなあ、とか、

○○さんが思い通りにならずにイラッとしていることは、○○さん自身のマターなはずなのに、関係ない自分がなぜか八つ当たりをされ、罵詈雑言を浴びせられたり、暴力を振るわれたなあ…とか。

気づけば同僚たちは、うまく、自分のせいではないと、スルッと逃げて、要領よくふるまっているのだった。それに気づかず、まともにやばい人と向き合っちゃう自分、というパターン。

働く業界がマスメディア、福祉、それから現在の飲食と変わっても、いつも自分は、そんな立場になるのだなあと、もう何百回もそういうことが続いたら、本格的に、いやでもばかでもわかるようになってきた、というわけだ。

「いやでもわかるようになってきた」という、決定的なきっかけのひとつに、ことしの春頃、勤めていたパスタ屋に、もう行かないことにしたにいたった、ある経験がある。

そのお店は、ずっとピーク状態が続くような多忙なこともあってか、もともとモラルが崩壊しているということもあってなのか、当日欠勤やバックレや遅刻がとても多い、かなりルーズなお店だった。

そのたびにいつも店長が、欠員を埋めるために困っていて、それでわたしが名乗りを上げて急きょ出勤したところで、ほかのお店みたいに時給が加算されたり、平日よりもさらに忙しくなる土日祝の出勤手当が割り増しされるわけでもないのだけれど、ほかのバイトが店長からの要請をスルーするなか、それでも自分が、力になれればな、役に立ちたいという気持ちが、わたしにはあったんだろうな。

役立たずだと思われたくない、とか、認められたいとか、嫌われたくない、とか、誰に対してもいい顔したい、みたいなところが。

それで、自分が二馬力三馬力くらいがんばりさえすれば、欠員の2人、3人くらい、自分がなんとかホールもフロントも回せるなんて、思い上がってしまったんだろうな。

だけど、それが間違ってた。

もともと人望もマネジメント能力もない店長のもとで、お店はすでに崩壊していて、そんな事情におかまいなしに、シフトに入っているのだから働くのは当たり前だと思っていた義務感が強くて最後まで完璧にやり遂げたいと思っていたわたしは、とっくに店長のことを早々に見限るというスキルを持っていた、賢い学生さんや主婦さんたちへの恨みや不満も含めて、店長が八つ当たりする絶好のストレスの吐け口になってしまった。

13連勤で朝から夜中まで拘束みたいなブラック状態で、わたしのようなピュアにけなげにがんばろうとするような(ように映る)人間は、いろんな意味で、そういう荒んだ心の持ち主には、ボコボコにしがいのある、格好の標的になった。

土日祝は本来、キッチン以外に、ホールも3人、ホールフォロー1人、洗い場専属タイミーが最低必要ななかで、タイミーも見つからず、わたしひとりになった日。

どう回せというのかわからないのに、満席のうえ、列をなして、全部が崩壊した。せめてお客さんコントロールすればいいけど、全部オープンなお店だからそれもできなかった。

ついにわたしは、店長からお客さんから見えない場所で、暴言だけでなく、暴力までをも振るわれて、もう無理、となった。

もう無理、となってからは決断は早いのだけど、「もう無理」に気づくのが遅いのだ。

だけど、監視カメラが見えない位置で巧妙にやってきて、店長は自分を守りつつ、そうやって、これまでも別の誰かにやってきたように、慣れた手つきでわたしに暴力や暴言を振るう。

こんなことがあることにそなえて、証拠がない状態にならないように、わたしはつねに録音や録画をして働かなきゃけないのかよ、と絶望的な気持ちになった。

誰も暴力振るわれるために、働きにいってるわけじゃないのにね、と。

みんな、そんな決定的なことが起きる前に、なんとなくどうしようもないところというのを嗅ぎ分けて、早々に見切ったり、ぺろっと心の中で舌を出して、うまくやったりしている。

わたしには、それができないのだな、と思ったのだった。なんでできないのだろうかな、とも。

とにかく、当たられやすい、むかつかれやすい存在なんだな、どこでも吐け口にされてしまうのだな、と、これまでいやな思いをした共通点が、つながった気がした。

つながって、だからどう、それで楽に生きられるわけじゃないのだけれど。

それからすぐに、ハンバーガー屋に勤めた。

だけど、お客さんからみたらおしゃれな雰囲気とは裏腹に、ここもひどい職場だった。

新しく転職してきた社員の店長が、きもいからという理由で、古くからいたバイトたちが、仕事を教えることを放棄したり、追放するための運動をするから、mieさんも加担してなどと持ちかけられた。

わたしはそういうのは加担しないと言ったら、こんどは自分も嫌がらせを受け始めて、みたいな小学生みたいな展開。

きもくて物覚えが悪ければ、みんなでいじめてもいいとか、仕事を奪ったり教えなくてもいいとか(それはわたしじゃなくて、新店長のことだけど)、こいつならいじめてもいい、みたいなそのコミュニティでの暗黙の総意の対象に、わたしはまた、なってしまった。

いちばん古株で、いじめの中心人物の女性から言われたのは、「あなたは新店長からもなめられている」だの、「こんな男を甘やかす女がいるから、この会社は上がだめになる」だの言われて、思い出したことがある。

よく言われてきた。「なめられてるんだよ」と。

わたしは、なめられてるから、あいつにも、こいつにも、いじめられたり、当たられたりするんだよ、と、当たり前のように言われる。

いじめの中心人物の女性からは、良かれというかんじで「こういう態度をとればなめられないわよ」とアドバイスを受けた。

だけど、わたしは、「自分の特性や性格を変えてまで、なめられなくなりたくはないかなあ。それなら、なめられたってかまわない」と、中2かよ、とも思ったけれど、呼び出されて1対1になった、パティやバンズやポテトとか入ってる倉庫で言った。

くっだんねーな、なんなんだよ、ここ、と思いながら。

よく言われてきた「なめられてる」という言葉。なめられてるから、だから、なんなんだ、というのだ。

なめる、なめられるでしか価値が確認できなくて、仕事しにきてるのに、その中身じゃなくて、専門性でもなくて、なめられてるから、ってなんなんだ。中2かよ。

なめられてれば、いじめたり、八つ当たりしてもいいと思うのは、どうかと思う。

とまあ、ほかにもいろいろあるけど、民度が低くて、早々に見限って、そこももう行かなくなったのがさいきん。

だけど、大半の人は、こういういざこざがあっても、うまくとりいって、要領よくやって、わたしみたいにそういうことがあるたびに職場を失うということがないのだよなあ。

なんでなんだー、って自分を責めるわけよ。

で、いっそ、さいきんはタイミーをして、飲食店のホールをわたりあるいている。

くだらない人間関係に巻き込まれずに、給与未払いとかもなく(これまで飲食で何度かあったから、まじめに大事なこと)、即報酬が振り込まれる安心感だったり(本当に支払われるのか、勤務時間改ざんされたり減額されてないか給料日まではらはらしてしまう)、仕事だけしてればいいというのが、自分には、そういうギグワーカーっぽい働き方がいちばん合ってると思ってしまった。

あーこれだったんだな、自分に合う働き方、って。わかってたけど、ほんとだったんだなあ、なんてね。

だけど同時に、やっぱいる。

タイミーなら、八つ当たりしても、いじめてもいいだろうと思ってる人。

やっぱり必ず一人はいる。10件の飲食店をやると、2件はそれにあたる割合。

でも、さいきんわたしは、共通点を見出した。それは、それをやるのは、その職場で、いちばん余裕がなくて、仕事ができなくて、あっぷあっぷしている人だということ。

自分に余裕がないから、仕事ができないから、直接雇用されてる自分よりも、立場が弱いタイミーにだったら、八つ当たりしてもいいと、思っているふしがある人。

もちろん、組織全体のバックアップ体制とか、当然そういう問題もあるけれど、タイミーとうい外部者としてスタッフ全体を俯瞰して見たときに、自分より弱いものをいじめる人というのは、その組織(職場)のなかで、純粋にいちばん弱い立場にいる、かわいそうな立場なんだな、と思ったのだ。

その人なりに、タイミーという外部者からみたら、みっともないくらい、仕事できなくてあっぷあっぷしてて、自分のことで精一杯で周りが見えてなくて、なんならタイミーに対してではなくて、そんな自分に自分がキレているような、すごくこっけいで、かわいそうな人だな、と思う。

だから、「目障りだから視界に入ってこないで」「なにもやらないで」「もう帰って」とか、言われたらすごく傷つくし、わたしはずっと覚えているけど、その人はたぶん、いっぱいいいっぱいすぎて、そんなこと言ったことすら、覚えてないんだろうなあ、と。

だけどわたしは、すごく傷ついて、そのたびに人間不信になって、憎しみを募らせて、ときに疲れてしまうという、すごく不平等。記憶力も、映像再生が人一倍いいから、余計にね。いつでも生々しく再生されてしまってね。

だけど、吐け口って、そういうことなんだろうな、と。

吐け口だから、吐いたら、その人は気持ちよくなる。だけど、吐け口にされたら、性の吐け口もそうだけど、吐け口にしたほうは性欲満たされたり、気持ちよくなったりして、すっきりするけど、公衆便所みたいに利用されたほうは、後味が悪いし、ずっと覚えているし、その傷は、一生癒えることなんてないよね。

こういうことがあるたびに、寄り添ってくれた弁護士さんが、わたしにはいたのは、せめてもの救いだった。

その弁護士さんから、ふと雑談で、「こんなことばかりあったら、食べに行くのとかいやになったりしませんか」と聞かれた。

わたしは、ふと考えてしまった。

たしかに飲食店は、監視カメラの見えない位置で、たとえば食品偽装や賞味期限の改ざんとか、客はわからないだろう、なんて建前とはちがってばかにした態度で、いろんな欺きなんかを平気でやって、それを正当化したり、会社のため、売上のためなら嘘など平気でつける、ついてもいい、白を黒と言ってもゆるされる、そんなふうなモラルがぶっとんだ人がたくさんいる。

正直者がばかをみる世界がそこにあって、正直なより、お客さんやバイトなりを欺いていることに麻痺できるスキルのある人のほうが、要領のよさのほうが、ずっと大切な価値観なのかもしれない。

やさしかったり、まともな人はいなくなって、そういうことできる人が長く続けられていく世界のようにも思う。

たしかに、以前よりも、出されたものをなにもかも信じて食べたり、無邪気に写真をとったり、その居心地のよさや環境やホスピタリティが必ずしも善だと思わないような、飲食にたいする夢はだいぶ冷めてきたようにも思う。

流行ってる店がおいしいかまずいか誠実かとかそういう「事実」ではなくて、クチコミ含めた広告にどうお金を払っているかとか、そういうところで考えることとか。

だけど、だからといって、いまのところは、わたしと「食」とは切り離すことはできないし、もう考えなくてもいい、距離をとればそれですむ業界も多々あるなかで、ただただフラットに向き合えるものがまたひとつ増えたのかな、夢からまたひとつ冷められてよかったな、と思うだけだったりもする。人がよすぎるし。やさしすぎだし、いいところばかりみすぎてしまうし。

フラットで、むしろそれでいいと思う。

それよりも、別に、飲食業界へのうらみつらみとかはなくて、ただ、どの業界なり世界でも、誰かを吐け口にしようとする人間がいるということ、そして、自分はそういった人の標的にされやすいということ、そんな自分について、もっと向き合って、どうにかしたいなあと、深刻に思っている日々なのであります。

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