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2022年8月31日~9月13日 ここ二週間くらいのこと

今日は通院だった。用事のついでに福岡市美術館に立ち寄り、鳥獣戯画展を観覧する。鳥獣戯画以外にも、円山応挙や伊藤若冲、狩野探幽、本阿弥光悦、俵屋宗達など日本史の文化史の授業で名前を聞いたことがある人々の作品が展示してあり、見ごたえがあった。カエルやカワウソ、犬などの描かれ方が大変かわいらしく、見に行ってよかった。本展を見終えてまだ時間があったので、どうせならと常設展示も観覧する。ジョアン・ミロやダリから、コンテンポラリーな現代美術が展示してあり、こちらも見ごたえがあった。特に気になったのは宇佐美圭司の作品(タイトルは失念)だった。そういえば最近、メルカリで読み落としていたネオ・ハードボイルドの作家のシリーズをいくつかまとめ買いした。ミステリマガジンの古めのものも、巻数がバラバラではあるがまとめて買った。こういう時にはメルカリって便利だなぁ、と感じる。

最近はミステリに関するエッセイや評論を読む割合が増えた。法月綸太郎の評論集から、『本格ミステリの本流』、都筑道夫の読書エッセイなどなど。自分で言語化できていなかったことが言葉になっていたり、作品への新たな視点を与えられたりして読んでいて楽しい。特に感銘を受けたのは、都筑道夫の中編集『探偵は眠らない』に収録されているハードボイルド小説に関する論考エッセイ「彼らは殴りあうだけではない」。ハードボイルド小説はよく「美学」や「かっこよさ」、「アイテム」、「こだわり」、「やせ我慢」「ワイズクラック」などと言った言葉に収斂されがちだと感じるが、実はそれらはジャンルにとってある意味で表層的な部分であるのではないか。ここでエッセイの一部を引用してみよう。

ハードボイルド文学とは、近代社会の要求する人間の組織化に対して、圧迫された個性があげる絶望的な反抗の叫びなのであります。たがいに触れあうことのなくなった個性が、相手をもとめてあげる声なき叫びなのです。

都筑道夫 『探偵は眠らない』より「彼らは殴りあうだけではない」から

このエッセイが書かれたのは1950年代後半だから、その後、都筑のハードボイルド小説観も変わったかもしれないが、ハードボイルド小説が翻訳されるようになって間もない頃にこの視点を持てた都筑は先進的で鋭敏な感覚の持ち主だったとわかる。別に前述した単語に収斂させて憧れることは全然悪いことではないが、それらの単語から小説を読み解くとこぼれ落ちてしまうものに、たまには目を向けるのもいいのではないかと思う。ただ、しばしばハードボイルド小説は願望充足小説的側面が強いものになることがあるので(その点もありハーレクイン・ロマンスと対比されがちなのだと思う)、そのあたりは色々な本を読んでバランスを取らないとな、と感じる。

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