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藤原道長が日本史の「重要人物」な理由!【院政と藤原摂関家の成立(1)】

 歴史に関心のない方も「藤原道長」と言う名前を聞いたことはあると思います。小学校の教科書にも
「この世をば 我が世と思う 望月の 欠けたることの 無しを思えば」
なる彼の和歌が掲載されています。
 この世界を自分のものだと思った傲慢な権力者・・・そういうイメージを抱くことはできても、これだけだと「なんで藤原道長って、重要人物なの?」と言うことまでは、判らないかもしれません。と言うか、殆どの人には判らないでしょう。
 藤原道長は義務教育で習う人でありながら、「藤原鎌足と言えば、大化の改新!」「徳川家康と言えば、江戸幕府!」と言うような、判りやすい功績がありません。
 しかし、実は、日本の歴史は藤原道長以前と以後とで大きく変わっていたのです。
 今回は、基礎知識なしでも藤原道長が権力を握るようになった過程が判るように説明します。

天皇の妻は「皇后」一人だけ!

 平安時代中期以降の権力闘争は、複雑怪奇ですので、基礎の基礎から押さえていかないとさっぱり理解できません。なので、「なめとんか!」というぐらいの初歩的なことから説明します。
 まず、皇后は天皇の妻です。
「そんなこと、知っとるわ!」と言う皆さん、では、こう言うとどうですか?
 天皇の妻は、皇后だけです。皇后以外に天皇の妻は、いません。
「ふざけるな!古代は一夫多妻制だったやろ!」という方もいるのではないでしょうか?
 よく誤解されるのですが、古代の日本は一夫多妻制では、ありません。少なくとも、法的には一夫一妻制ですし、法的には婚前交渉は厳禁(発覚すると問答無用で強制離婚)でした。
 皇后は天皇の唯一の妻なので、色々特権を持っています。まず、位階がありません。
 朝廷の官僚や女官たちは「正一位」から「少初位下」までの30段階の位階で序列をつけられていますが、皇后は特別です。天皇同様、「存在だけでエライ」ので、位階で序列をつける必要は無いのです。
 言い換えると、正一位の重臣よりも皇后の方が上なのです。しかも、日本では正一位になった「人間」は殆どいません。古代から近代までの歴史において、生きている間に正一位になったのは6人だけ、その内1人はのちに剝奪され、また1人は叙位当日に亡くなっていますから、実質4人だけです。
 では、正一位になるのはどういう人かと言うと、神様レベルの凄い人が死んだ後に授けられるか、文字通り本当に神様に授けられるか、です。
 有名なところでは、楠木正成(湊川神社)、豊臣秀吉(豊国神社)、徳川家康(日光東照宮)と言った、神社で神様として祀られている人や、伏見稲荷大社の神様が該当します。お稲荷さんに「正一位」と書いてあるのを見たことがある人はいると思いますが、そのお稲荷さんは伏見稲荷大社の神様です。
 しかし、その位階を超越したところにいる皇后は、要するに「神様よりもエライ」存在です。無論、天皇も「神様よりもエライ」のです。少なくとも、古代からそういう建前で政治は運用されていたのです。
 一方、天皇には妻以外に、いわゆる妾がいました。『養老律令』では「妃」「夫人」と言った女性が、また平安時代以降は「女御」「更衣」と言った女性が、存在しています。
「ほら見ろ!どう見ても一夫多妻制やないか!」と言う皆さん、少し違います。
 この「妃」「夫人」「女御」「更衣」と言った人は「妻」ではなく「職員」です。
 実際、『養老律令』には「後宮職員令」に妃と夫人の規定があります。任務が他の女官とは違い「天皇の子供を産むこと」ではありますが、それは「仕事」で子供を産む「職員」なのであって、決して「妻」だから天皇に愛されて・・・では、ありません。
 妃や夫人、女御、更衣には官僚や女官と同様、位階が授けられます。つまり、あくまでも天皇の「臣下」であって「妻」ではありません。「神様以上」の扱いである「皇后」とは、全く扱いが違うのです。
 だからこそ平安時代の宮中では、貴族の娘たちが「一、臣下」である「女御」に留まるのか、それとも「神様以上」である「皇后」になるのか、を巡って様々な権謀術策が渦巻くことになるのです。

「皇后」「皇太后」「大皇太后」の関係

Point1
・天皇の妻は「皇后」だけ。
・皇后は神様よりもエライ!超重要なポスト。
・妃・夫人・女御・更衣は、単なる後宮の職員。

 天皇の妻が皇后であることを押さえたうえで、次の話に進みましょう。
 まず、皇后と同格のポストとして「皇太后」と「大皇太后」とがあります。この二つのポストも、「神様よりもエライ」ポストですから、とても重要です。
 皇太后とは、「かつて皇后であった天皇の母」です。
 大皇太后とは、「かつて皇后であった天皇の祖母」です。
 つまり、皇太后になるには「元皇后」と「天皇の母」という、2つの条件が必要と言うことです。大皇太后も同様です。
 妃や夫人、女御、更衣が天皇を産んでも、“本来ならば”皇太后や大皇太后には、なれません。「神様以上」の皇后と「後宮の職員」では、格が違うのです。
 ・・・とは言っても、現実に「元皇后」と「天皇の母」が食い違うと、中々原理原則を貫けないもの。
 「天皇の母ではない、元皇后」や「元皇后ではない、天皇の母」が「皇太后」になるという“特例”も、存在はしました。が、そうした“特例”は多くの場合、政治的な紛争の理由になるのです。

一条天皇「朕の母が皇太后だ!異論は認めない!」

Point2
・皇太后は「元皇后である天皇の母」のこと。皇后同様、神様よりもエライ。
・大皇太后は「元皇后である天皇の祖母」のこと。こちらも神様よりもエライ。
・皇太后と大皇太后については、なんやかんやで「特例」が頻発していた。

 さて、時は平安時代。円融天皇と言う天皇が、藤原遵子と言う女性を愛して、彼女を妻、つまり皇后にしました。
 が、愛情だけでは子供は産まれません。コウノトリは藤原遵子の処へは来ませんでした。
 代わりに、コウノトリは円融天皇の女御である藤原詮子の下に来ました。藤原詮子は円融天皇の子供を産み、彼が後に一条天皇として即位します。
 が、詮子は最後まで円融天皇に愛されませんでした。ここで宮中を巡る権力闘争の勃発です。
 寛和2年(西暦986年、皇暦1646年)、一条天皇が即位します。母親が大好きな一条天皇は、「皇后」である遵子ではなく「母」である詮子を「皇太后」にしました。
 すると、大変なことになりました。詮子を皇太后にすると、これまで皇后であった遵子はどうなるのでしょうか?
 まさか、「神様よりもエライ」存在であった皇后が、明日から「ただの人」になる、と言うことはあり得ません。政治家と皇后は一緒にはできません。
 そう、藤原遵子は引き続き「皇后」のままとなったのです。
「え?天皇ではなく、天皇の父親(上皇)の妻が皇后なのか?」
 そう疑問に思われた皆様、鋭いです。
 過去には「先代の皇后」であれば「天皇の母」ではなくとも「皇太后」にする形でこの問題を解決することもあったのですが、一条天皇が自分の母親を既に皇太后にしている以上、それはできません。
 かと言って、何の罪もない藤原遵子からその地位を剥奪して「皇后」から「ただの人」にするわけにもいかず、結局「皇后のまま」とするしか、手は無いわけです。
 こうして「皇后が天皇の妻ではない!」と言う事態を招きました。

「天皇の代理人」である摂政・関白

Point3
・円融天皇の皇后である藤原遵子には子供が産まれなかった。
・円融天皇の女御である藤原詮子の子供が一条天皇として即位し、詮子は皇太后に。
・藤原遵子は引き続き皇后に据え置かれ「皇后が天皇の妻ではない」状態に。

 さて、当時の政治を支配していたのは、摂政や関白でした。
 摂政と関白の違いを説明するとややこしいのですが、簡単に言うとどちらも「天皇の代理人」と考えて大きな間違いはありません。
 「神様よりもエライ」天皇の代理人ですから、流石に神様には勝てないものの、それに並ぶぐらいの権勢は誇ります。
 さて、いくら権力を握っていても「赤の他人」が「私は天皇の代理人であるぞ!」等とは言えません。「天皇の代理人」である以上、「天皇の身内」である必要があります。
 当時の朝廷を支配していた藤原氏の貴族たちは、挙って自分の娘を天皇の後宮に入れて「天皇の身内」の座を求めました。もしも自分の娘が天皇の子を産み、その子供が次の天皇となれば「天皇の代理人」として摂政や関白に就任しよう、という魂胆もありました。
 また、天皇の後宮に自分の娘を入れると言っても、すでに述べたように「皇后」と「女御」とでは、全然「格」が違います。
 自分の娘が皇后になると、「神様よりもエライ」存在の父親と言う立場をゲットできます。
 事実、円融天皇の皇后であった藤原遵子の父親である藤原頼忠は「皇后の父親」と言うことで「関白」に任命されました。藤原遵子自身には子供はいませんでしたが、やはり「神様よりもエライ」皇后の権威は、父親の権威をも上げる効果があったのです。
 そうすると、一条天皇の後宮に娘を入れていた貴族たちも、娘を「皇后」にしたい、と思うはずです。が、その「皇后」の座は引き続き藤原遵子が居座っているのです。
 こうして「皇后」の座が政治問題となりました。

藤原道隆「天皇の妻は皇后でなくてもええやろ!」

Point4
・摂政や関白は天皇の代理人。
・摂政や関白になるには「天皇の身内」である必要があり、「娘が皇后」なら有利。
・だけど藤原遵子が皇后なので一条天皇は皇后を立てられない・・・。

 当時、一条天皇の女御に藤原定子という女性がいました。父親は藤原道隆という有力貴族です。当時の藤原道隆は内大臣でした。
 関白の絶対条件が大臣であることであり、藤原道隆はその条件を満たしています。そして、関白になる最低限の条件を満たすと、道隆はそれ以上出世しようとはせず、後は娘を皇后にすることに全力を注ぎます。
 とは言え、藤原遵子が皇后なのですから、藤原定子が皇后になる余地はないはずでした。そこを、藤原道隆はゴリ押しします。
「法律上、皇后は天皇の妻であるはずだ!藤原遵子は『上皇の妻』であっても『天皇の妻』ではない!天皇の妻には私の娘が相応しい!ならば私の娘が皇后で良いだろ!」
 うん?それならば、藤原遵子が皇后で無くなるということ?
「いや、藤原遵子は引き続き『皇后』のままでよい。だが、私の娘も天皇の妻として『皇后』になる。同じ呼び方だと紛らわしい、って?じゃあ、呼び方は『皇后』ではなく『中宮』でもいい、とにかく、天皇の妻として娘を認めろ!」
 こうして、藤原定子は「天皇の妻(=法律上の「皇后」)」となりましたが、既に「皇后」の称号は藤原遵子が使っているので、称号は「皇后」ではなく「中宮」となりました。なお、「中宮」はこれまでも「皇后」の別名として使用されていました。
 要するに、次のようになったということです。

藤原遵子:上皇の妻、名称上の「皇后」(法的には「特例措置」)
藤原定子:天皇の妻、法律上の「皇后」、名称は「中宮

 かなりややこしい状態ですが、本質的な問題は「ややこしい」ことでは、ありません。
 時の権力者の言葉遊びによって「神様よりもエライ」存在である皇后の座を好き勝手にできる、という先例を作ってしまったことが、その後の日本史に大きな禍根を残します。
 とは言え、藤原道隆はそのことを知る前に亡くなってしまいました。

藤原道長「つまり名称を変えれば天皇の妻が2人でもえんやな?」

Point5
・藤原道隆が強引に娘の藤原定子を一条天皇の妻(皇后)にした。
・しかし皇后の称号は既に藤原遵子が使っている。
・そこで藤原定子の称号は「中宮」(皇后の別称)と言うことにした。

 娘を強引に中宮と言う名の皇后にした藤原道隆は、長徳元年(西暦995年、皇暦1655年)4月に酒の飲みすぎが原因で亡くなりました。そこで弟の藤原道兼が関白になりましたが、彼も翌月に亡くなりました。
 さて、藤原道隆の妹が、先述した皇太后にして一条天皇の母親である、藤原詮子です。
 この藤原詮子は、弟の藤原道長を可愛がっていました。
 中宮の藤原定子と藤原道長は仲が悪かったのですが、一条天皇は母親が大好きですので、結局、藤原道長は右大臣となり一気に政界の主役に躍り出ました。
 さて、藤原道長も自分の娘を皇后にしようと思いました。
 藤原詮子は皇太后でしたが、この頃、夫である円融上皇が崩御したことを受けて出家しました。
 尼さんは独身だから尼さんです。皇太后を名乗るわけにはいきません。しかし、「神様以上」の皇太后が「ただの尼さん」になるのも問題です。
 そこで、朝廷はこうしました。
「藤原詮子を上皇と同じ待遇とする!」
 上皇は天皇とほぼ同格で、皇太后同様「神様以上」の存在です。その上皇と同じ待遇ですから「神様以上」の権威は維持されます。
 当時、上皇は「○○院」と名乗るのが通例でした。藤原詮子も上皇待遇ですから、「○○院」という称号を名乗るようになります。藤原詮子に与えられた称号は「東三条院」でした。
 このように「上皇待遇」となった女性を「女院」と言い、藤原詮子が最初の女院です。
 なお、現在の歴史学では「上皇待遇」の男性を「准太上天皇」と呼び女性を「女院」と使い分ける慣例がありますが、「准太上天皇」も「女院」も通称であって法律上の名称ではありません。法的にはどちらも「上皇待遇」で同じなので、果たして性別が違うだけで区別の必要があるのか、という疑問はあります。私はどちらも「准上皇」を呼ぶことを提案したいです。
 さて、話を戻すと、藤原詮子が皇太后から女院(准上皇)になったことで、皇太后のポストが空きました。
 長保2年(西暦1000年、皇暦1660年)に、藤原遵子はようやく皇后から皇太后となりました。そして、やっと藤原定子が名実共に皇后になりました。
 が、そこへ藤原道長の娘である藤原彰子が新たに一条天皇の皇后となり、称号は「中宮」となります。
「既に皇后がいても、中宮と名乗れば天皇の妻になれるんですよね?先例ありましたよね?」
と言う感じで、藤原道長が彰子を中宮にすることをごり押ししたのです。
 こうして「天皇の妻が2人いる」という無茶苦茶な状態となりました。しかし「皇后」とは別に「中宮」がいても良い、という先例が既にありますから、結局認められてしまいます。

「関白」に“ならなかった”藤原道長が歴史を変える

Point6
・藤原詮子が史上初の女院(准上皇)になったので皇太后のポストが空いた。
・ようやく藤原遵子が皇太后に、そして藤原定子が皇后になった。
・そして何故か新しい中宮に藤原彰子(道長の娘)がなった。

 さて、藤原道長は自身が大臣で娘が中宮と言う名の皇后ですから、この時点で関白に就任する可能性もありました。が、道長は兄の道隆みたいに強引に関白になろうとはしません。
 長保5年(西暦1016年、皇暦1676年)に藤原彰子の息子である後一条天皇が即位しました。後一条天皇はまだ幼かったので、祖父である藤原道長が摂政になりました。
 が、翌年、藤原道長はその摂政の座も息子の藤原頼通にさっさと譲ってしまいます。
 そう、藤原道長は関白には就任せず、摂政も一年間しかしなかったのです。
 そこに、藤原道長の深慮遠謀がありました。ポイントは、息子に摂政を譲ったことです。
 既に述べたように、摂政や関白は「天皇の代理人」です。「天皇の代理人」になれるのは、原則として「天皇の身内」である必要があります。
 具体的には「皇后の父親」は当然「天皇の身内」ですね。藤原道隆も「皇后の父親」として「関白」になり、藤原道長も「皇后の父親」として「摂政」になりました。
 が、藤原頼通自身は後一条天皇の身内では、ありません。藤原頼通の娘は後一条天皇の皇后でも何でもないのです。
 藤原頼通は「皇后の父親」だから、ではなく、「藤原道長の息子」だから「摂政」になれたのです。
 どういうことか。
 藤原道長は、摂政・関白になる条件を「天皇の身内」から「藤原道長の子孫」へと、変更してしまったのです。
 これからは「藤原道長の子孫」が「天皇の代理人」として政治を行う――そう、これは「藤原道長による、日本乗っ取り」のようなものです。
 そして、その為には、藤原道長は息子を早く摂政にして既成事実を作る必要がありました。
 また、摂政や関白になると「天皇の代理人」ですので、行動に色々制約が生まれます。藤原道長は「天皇の代理人」という足枷を外して自由に権力を行使することにより、
「藤原道長の子孫が天皇の代理人として日本を支配する」
という体制を整えることにしたのです。そして、藤原道長はそれを実現させて、日本の歴史を大きく変えたのでした。(続く)


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