おれの人生__6_

自分の人生を振り返ってみた【第6回】

サワディーカップ。タイのバンコクからごきげんよう。

突然ではあるが、自分の人生を振り返ってみた。今回は「第6回」、大学時代の後半について。備忘録的な感じで自分が思っていることを素直に書き記してみた。

本文に入る前に、まずは簡単に自己紹介を。

高橋智喜(たかはしともき)
・1994年千葉県生まれ。
・タイのバンコク在住。
・明治大学法学部を卒業後、新卒でフリーターに。
・フリーター期間中は東京都内のベンチャー企業で働く。
・その後「海外で暮らしたい」という想いを捨てきれず、日系のタイ法人への就職が決まりバンコクに移住。今に至る。

自分で書いていて思ったが、レールを大幅に外れた人生を送ってきた自信は少なからずある。


構成は全6回でざっくり以下のような形。

・第1回:幼少期〜小学生時代
・第2回:中学校時代
・第3回:高校時代
・第4回:大学生時代前半
・第5回:激動の留学時代
・第6回:大学時代後半←今回の記事

自分がその当時、どんなことをして何を感じていたのかについて、赤裸々にまとめてみた。楽しんでもらえれば、これ幸いである。

前回の人生記録は、以下の記事を読んでいただきたい。

それでは、さっそく本題に入っていこう。


◇アメリカ留学から帰国。大学時代後半戦の始まり

アメリカ留学を終えて日本に帰国したおれは、それまでとは違った。

よくある話だが、留学から帰ってきた人の多くは「行動力オバケ」になる。理由は簡単だ。留学経験を通して、少なからず自分に自信がつくからである。おれも例外ではなく、まさにその1人だった。

帰国後すぐ、日本とアメリカの歴史を知りたいということで広島を訪れ、アメリカ以外の外国を知らないということで台湾に行き、留学中に知り合ったスウェーデン人留学生の考えに衝撃を受け、2週間ほど北欧へひとり旅をした。その後も、上海、香港、マカオ、ソウル、釜山などなど、休みを見つけては近隣諸国の有名な都市へと旅をした。海外のリアルな現状を自分の目で確かめるためだ。井の中の蛙が大海を知ってしまった瞬間だ。一言でまとめると、「留学帰りの日本人」から「海外旅行バカ」へと進化した。

このように、リミッターの外れた当時のおれは手当たり次第にアクションを起こし続けた。人間不思議なもので、自分のやりたいことに挑戦し続けると好循環が生まれてくる。負のスパイラルに陥っていた小中学校時代とは対照的である。

▼幼少期から小学校時代を知りたい人は以下の記事へ▼


◇バイト生活を再開

アメリカ留学から帰ってきたあとは、極度の金欠状態に陥っていたためバイトを再開することにした。帰国後に始めたバイトは「東京駅構内でのお菓子販売」である。聞こえはメルヘンチックで可愛らしいが、実際は東京のターミナル駅らしく毎日が戦場だった。さらにお盆や年末年始などはさらに人で溢れかえっていた。天空の城ラピュタに出てくるムスカもびっくりである。

どうでもいい話だが、この当時おれが売りさばいていたのが「切腹最中」である。お詫びの品として、和菓子マニアの間では名の知れた銘菓である。ついさっき「売りさばいていた」と書いたが、正直なところ、切腹最中それ自体のブランド力で勝手に売れていくのをおれが「さばいていた」にすぎない。それくらい影響力のある商品だった。

切腹最中について知りたい方は以下のリンクをクリックだ。


◇就活時代

大学3年の冬ごろだっただろうか。記憶はおぼろげだが肌寒い季節とともに就職活動が始まった。とは言っても合同説明会やインターンシップなど比較的ライトなイベントが行われる期間に突入した。

もちろんおれも周りの大学生と同じように就職活動に取り組んだ…と言いたいところだが、アメリカ留学と海外旅行に行きすぎて感覚が麻痺していたおれは、「就活」をそれほど重いものだと捉えていなかった。周りの友人が就活について熱心に近況を語っている中、おれは話半分にしか耳を傾けていなかった。

そんな就活への熱は冷めていたおれだったが、「合同説明会」に対しては特に悪いイメージを抱いていなかった。むしろ、結構好きな方だった。いや「合同説明会マニア」だった。数で言えば、10数回合同説明会に足を運び、計200社を超える会社のブースで熱心に説明を受けた記憶がある。

なぜおれが合同説明会マニアになってしまったかというと、ズバリ「人間観察」のできる環境が整っていたからである。合同説明会にいくことで熱心な就活戦士たちと各企業のリーマン戦士たちを間近で観察することができたのだ。これが当時のおれにとっては非常に勉強になった。特に、ブースに出展している企業側は客観的に見ると多種多様で、会社のカラーをイメージしやすかった。真面目そうに企業概要を説明しているところもあれば、パンチの効いたプレゼンを行い注目を集めているところもあった。どうやら企業も優秀な人材の獲得に必死なようであった。

話を元に戻そう。

めでたく合同説明会マニアとなったおれだったが、もちろん内定はゼロ。さすがにアクションを起こさなければマズいと感じ、とある外資系のIT企業を受けることにした。

そしてむかえた一次面接当日。リクルートスーツを身にまとい家を出るところまでは良かったものの、勢い余って面接会場に早く着きすぎた。2時間前には会場周辺に到着してしまい、時間を持て余しすぎて周辺をブラブラ散策したり、調子に乗って近くのオフィスビルに入っているタリーズでアイスコーヒーを飲んだりした記憶がある。

どうでもいい話だが、おれはスタバ派ではなくタリーズ派だ。

無益な情報をシェアしたところで、話を面接会場に戻そう。そうこうしているうちに面接時間となった。受付で面接予定である旨を伝え、ノベルティの水をもらい、面接室へと案内された。

数分待機したのち、社会人経験が豊富そうな小柄な女性の面接官が現れた。外資系のIT企業ということで、エンジニアのような理系っぽい男性が出てくると思っていたおれは、早くも出鼻をくじかれた。

そんなおれの焦りとは裏腹に、面接官から自己紹介をするよう促され、おれは現実に引き戻された。

「はい、高橋智喜と申します。明治大学の法学部に在籍しています。出身は千葉県で……(あかん、何も考えてなかった)……えーっと…その……(オワタ)」と、合コンの自己紹介よりも低レベルな出だしだった。

焦ると感情が表に出やすくなるというおれの顔面の性質上、面接官は瞬時に状況を察し、すぐさま対話形式で面接が進められることとなった。

こんなグダグダな面接デビューとは対照的に、後日、一次選考通過のメールが届いた。「一次選考だから、あんな状況でも通過したのだろう」と内心ホッとしたのと同時に、自己紹介もできなかった自分に情けなくなった。そして何より自分の将来について、真剣に考えていたようで、実は何も考えていないことに気づいた。少なくとも盲目的に就活に取り組んでいるだけでは自分の求めているものは手に入れられないような気がした。そう悟ったのち、気づいたら電話を片手に選考辞退の連絡を入れていた。

こうしておれは、短い就職活動に別れを告げた。


◇就活中断。そしてタイへのひとり旅

そんなこんなで就活を中断したおれは、新たなステージに向けて手当たり次第に行動を起こした。このままいけば、新卒フリーターまっしぐらである。

ちょうどこの頃だっただろうか。「ノマドワーカー」「フリーランス」という夢のような働き方に関心を持つようになったのは。ノマドワーカーやフリーランスとは、簡単にいうと「時間や場所にとらわれない自由な働き方」である。

アメリカをはじめとする外国での暮らしぶりや日本での働き方を疑問に感じる中で、このような考えを持つようになったのもある意味自然な流れだったのかもしれない。

そんなこんなで、「時間や場所にとらわれない自由な働き方」を実現するために、特定のスキルが必要だと考えたおれは、まずはじめに「プログラミング」に手を出した。

14万円くらいする「MacBook Pro」をなんのためらいもなく速攻でポチり、1ヶ月間プログラミングスクールに通うことにした。貯金が一気に吹き飛んだのは言うまでもない。それくらい必死だった。

自分でも意外だったが、生まれて初めてプログラミングを学んで感じたのは「案外いける」ということである。食わず嫌いをしていただけで、プログラミングの全体像や仕組みをつかめたことにより、予想以上に楽しみながら取り組めたと記憶している。プログラミングスクールに通っていた1ヶ月間は、大学やバイトをしながら、1日のうち4時間から6時間ほどはプログラミングに取り組んでいたと思う。それくらいのめり込んでいた。

しかし、ひねくれているおれの考えはそう簡単に変わるものではなかった。

知識のないド素人でも、時間とお金をかければ一定の水準に達することに気づいてしまったおれは、こんな風に考えるようになる。

「いざとなったら専門家に頼めばいいんじゃね?」

要は、必ずしも自分で手を動かす必要はないのではないか、と感じるようになった。一定水準までは誰でもいけるようになるが、長期的な視点で考えれば好きでプログラミングをやっている人には、到底かなわないと悟った。

もちろんプログラミングには将来性もあり、稼げる可能性も秘めていることはやりながら理解できた。が、熱しやすく冷めやすい極度のミーハー人間のおれにとっては、プログラミングを生業にすることはできないと本能的に感じたのだ。

こうしておれは、1ヶ月間のプログラミング生活に別れを告げた。


プログラミングの学習をやめたおれは、何を思ったか「海外に行きたい」と思うようになった。ノマドワーカーへの憧れが大きすぎて禁断症状が出てしまったようだ。当時大学4年だったこの時、普通であれば就職活動が全面的に解禁され、早い人だと企業から内定をもらっていてもおかしくない時期だった。そう、おれは世の中の大学生とは真逆の行動を取っていた。

そんな状況とは裏腹に、空気の読めないおれは、目的地をいくつか検討し、それまでに東南アジアに行ったことがない、という理由でタイのバンコクに行くことにした。そう、現在おれが暮らしているまさにその場所である。バンコクを選んだ大きな理由はないが、「東南アジアの大きい都市=バンコク」という短絡的なイメージしかなかったため、ほとんど迷うことなく決断した。

失礼な話だが、当時のおれはバンコクを完全になめきっていた。「発展途上国=貧しい」「旅行で行くくらいが丁度いいだろう」というイメージしか持っていなかった。結果としてバンコクを訪れたおれは、現地に着いて死ぬほど衝撃を受けた。高層ビルが建ち並び、お洒落なカフェも多く、電車や地下鉄も問題なく利用できる。おまけに、日本の働き方とは違ったライフスタイルがそこにはあった。屋台でマイペースにタイ料理を売りながら生計を立てているおばちゃんやトゥクトゥクで楽しそうに観光客と会話しているおっちゃんを見て、自分の価値観の狭さを改めて思い知った。どうやら1番貧しかったのはおれ自身の心だったようだ。


こうして、衝撃のタイ旅行から帰国したおれが次に目をつけたのが「ブログ」だった。コードの次はライティングである。

プログラミングを学んだことで、WEBサイトの構造をなんとなく理解したおれは、その勢いで自分のサイト、つまり「ブログ」を開設することにした。記事のネタは海外旅行や英会話のノウハウなど、当時の自分の経験から活かせるものをピックアップした。

当時開設したブログ
趣味ファインダー
ファーストアクション 

ノマドワーカーになるために良質な記事を書き続ければ、記事内にある広告料や外部からの執筆依頼で稼げるようになるのではないか、と淡い期待を抱いていた。が、そんな期待は見事に外れることとなる。

記事をいくら書いても、なかなかPV数が伸びないのだ。これが、ブロガーを待ち受けている試練なのかと、何度か歯を食いしばって記事を書き続けたが、思うような成果はあげられなかった。こうしておれのモチベーションはスプラッシュマウンテンのように急降下していった。超がつくほどのミーハー気質なおれにとって成果が出ないことは、やる気が出ないことと同義であった。

世の中にいる数多のトップブロガーの方々には、本気でリスペクトである。


◇救世主の出現。そして人生を変える出会い

プログラミングに見切りをつけ、ブロガーとしても心が折れそうになっていたおれのところに1人の救世主が現れた。ある日、大学の同じゼミに所属していた友人がおれに声をかけてきた。最初は露頭に迷っていたおれのことを心配して話しかけてくれただけだと思っていたが、話を聞いてみるとどうやら面白い社会人と意識の高い学生たちとが、面と向かって真剣に対談をするというイベントがあるとのことだった。

失礼な話だが、疑り深いおれは「高価な壺か何かを売りつけられるのではないか」と内心、心配していた。プログラミングのために購入した「MacBook Pro」や海外旅行の出費がかさみ、高価な壺を変えるだけのお金がなかったからだ。

冗談はさておき、友人に詳細を尋ねたり自分でも調べてみたところ、全然怪しいものではないことがわかり、おれもそのイベントに参加することにした。この時の社会人と学生たちとのやりとりが、後におれの人生に大きな影響を与える。

そのイベントでは、起業を目指したり、有名企業のインターンシップに参加している優秀な学生たちとベンチャー企業の社長さんや国家公務員として働いていた方、有名企業でバリバリのキャリアを積んでいる錚々たる大人たちと対談することができた。

1つ印象的だったのが、そのイベントに参加していた大人たちのほとんどが、当時のおれが想像していたいわゆる「成金社長」のような姿とは、大きくかけ離れていたことである。どちらかというと、見た目は質素で清潔感のある人ばかりだった。そんな大人たちと実際に話してみて、とてつもないエネルギーを感じたのを今でも覚えている。大きく価値観が変わった衝撃的な瞬間だった。将来のビジョンや夢を熱く語れる人間ほど、輝いている人はいないだろう。

このイベントに誘ってくれたゼミの友人、参加していた優秀な学生たち、真剣に話を聞いてくれた人生経験豊富な方々、思い返してみれば、感謝の言葉しか出てこない。


◇「切腹最中」との別れ。ジョンレノンとの出会い

そしてこの頃、それまで続けてきたお菓子販売のバイトを辞めることにした。「切腹最中」に別れを告げることは心苦しかったが、新たなステージへと進むべくおれは新たな一歩を踏み出した。大学4年の夏の出来事である。

当時、ブログを書いていたこともあり、WEB業界への関心が高まっていたおれは、ネット上でアルバイト求人を探しまくり、東京都内にあるWEB系のベンチャー企業で働けることとなった。

ちなみにこの時、オフィスから面接担当として、丸メガネをかけた「和製ジョンレノン」のような人物が出てて一瞬ビビったのを覚えている。後におれの上司となる人物だ。余談にはなるが、この上司は読書好きで文才がハンパじゃなかった。そしてこの文章のスタイルも、オマージュという形で彼の文章の形式をほぼ丸パクリしている。まとめると和製ジョンレノンは、おれがリスペクトしている数少ない人物の1人である。

ちなみに選考の最中にブログのURLを勝手に送ったのが、好感触だったと後日談としてジョンレノンは語ってくれた。思いがけぬ形で、それまで書き続けてきたブログが実を結んだことに驚きを隠せなかった。

こうしておれは、ベンチャー企業と大学とを往復する生活が始まった。学生生活終了まで残り半年の出来事であった。

もちろん、この時すでに就職先が決まっていた大学時代の知り合いや両親などから何度も心配された。

「将来どうするんだ」
「就活しなくていいのか」
「本当に大丈夫なのか」

こんな感じのフレーズは耳にタコができるくらい聞いた。が、もちろんおれ自身も不安はあったし、特に反論することもなかった。将来のことなんて、正直誰にもわからないし、結局のところ当事者自身が決めることだからだ。周りが何と言おうと、「そんなの関係ねぇ」というスタンスを貫き通した。小島よしおもびっくりだ。

自分を取り巻く状況を総合的に鑑みて、自分なりに試行錯誤を繰り返す。その結果が自分の将来に返って来る。至ってシンプルな構造だ。

頭の中に思い浮かんだことを書き殴ってみたら、なんだかビジネス書に載っていそうな文章が出来上がった。が、これらは全部後付けだ。当時のおれは、おれなりに必死に生きていた。

こうしておれは、大学卒業とともに「新卒フリーター」という称号を手に入れた。


【第7回】タイ移住編に続く。

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