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父とカメラの話

リコーのGRIIIを買った。実に2年半ぶりの新しいカメラ。
カメラを買う頻度としては、そのくらいが健全だとおもっている。そもそも1台あれば充分だし、仕事でもない限り、常に最新機種を使う必要もない。というくらいには、カメラにあまり愛着を持たないようにしてきた。

というのも、父が筋金入りのクラシックカメラ狂いだったからだ。

極論として、カメラはシャッターが切れて露出とピントが適切にとれていれば成り立つものだ。なおかつ、それは写真を撮るための道具にすぎない。にもかかわらず私の実家はかつて、父のカメラと専門誌で溢れかえっていた。

「知り合いから借りてきたんだ」というのが、父の決まり文句だった。
ニコンのFMからローライコード、ヤシカフレックス、ブロニカ、ペンタの67、ハッセルブラッド、果てにはミノックスやビテッサのような実用性を逸脱した変わり種まで、実家で暮らした二十数年間でゆうに100台は超えるクラカメに触れた。おかげでカメラに愛着を持たないわりに、大判を除いてはひと通りのフィルムカメラを使った経験がある。

フィルムがすっかり貴重となった今では、なんとも贅沢な話に聞こえるかもしれない。確かに初めこそは目新しく映ったものだ。しかし成長とともに物事がいろんな角度から見えるようになると、疑問も湧いてきた。

カメラはどこからやってくるんだ? すべてが借り物のはずがない。
なぜなら、当時のうちの本棚はクラカメの専門誌とカメラ誌で溢れかえり、収まらない分が山積みされるほどだったからだ。そのわりに、うちは普通よりもちょっと貧しい暮らしをしてたっけ。

つまり父は、写真を撮るためにカメラを集めているというより、カメラそのものに愛着を持つコレクターなのかもしれないと理解できるようになった頃には、新しいカメラをみせびらかされても興味が持てなくなった。
「触ってみろ」といわれても「俺はいいや」と断るようになった。いまおもうと、父は寂しかったかもしれない。

言うまでもなく父は私にとって、世界の誰よりも信頼できる人だ。

写真の仕事、それも深瀬さんのアーカイブを担うようになってからはその思いが強まる一方で、父なくしては成し得ないことが多々あった。
自分は人を頼ることができない性分だが、父にだけはつい甘えてしまう。そんな父は70を過ぎても、遠い日本で私の力になってくれる。感謝してもしきれない。
父のカメラ狂という性格も、それとは違うかたちで自分も受け継いでいることは、今じゃ自分でよく分かっている。

世間がデジタルに移行してからは、Canon派になった。
それも、大人になるまではカメラを途切れなく供給してくれた父の選択だったかな。二浪してようやく大学に入った頃、10Dを譲ってもらったのが、今からだいたい20年前。それから20D、30D、40Dと使ってきて、途中Kissシリーズにも目移りしながら、とても高くて買えなかった5Dシリーズを憧れの1台として思いながら、毎日ストリートスナップを撮るのを楽しんでいた。

自分でそれなりに高いカメラが買えるようになった頃には、当時務めていた雑誌編集の仕事が楽しかったり辛かったりと、とにかく一生懸命に毎日を過ごしていた。生活の大半を仕事が占めるようになって、写真を撮る時間はどんどん減っていた。

多少の貯金もできて、ついにCanon 5DsやLeica M10が買えるようになった頃にはせっかくのカメラも触る時間がなくて、もはやタンスの肥やし状態。
まあ仕事も言い訳のひとつだが、写真のことを考えたり、もっぱら作品と呼ばれる他人の写真を観る時間も増えていたんだろうな。
なにより、その頃の自分は、日々のスナップを撮らなくなっても気にならないくらい、どこか満たされていたのかもしれない。

ストリートスナップを撮る行為は、明確な意味や目的がないからこそ成立する部分がある。ひいてはそれが、どこか満たされない今の気持ちを、あたかも代弁してくれるかのような、言ってみれば心の浄化作用がある。

自分の身を振り返ってみても、自分ではどうにもうまくいかないフラストレーションがたまった時こそ、街に出てスナップを撮ったものだ。カメラを媒介にしながら、自分を世界にぶつけてみた反響として、写真はよく写る(映る)。そこに写真の魅力がひとつある。

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