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時折、すべては嘘なんじゃないかと思う|島本理生『夏の裁断』

時折、すべては嘘なんじゃないか、と思うことがある。嘘、というのが言い過ぎたのなら、本当は求めていない極めて薄っぺらい雲の上に、空想と妄想と願望が抱かせた國に、少しだけ生きたこと。

まともに生きる、という普遍が今の世の中になさそうなことには、私以外のひとも気がついているだろう。であれば「私のしあわせ」を探し定義してゆくしかないのだが、果たしてそれは薄氷に喜劇を積み重ねるようなものであっていいのだったっけ?

夏の裁断』を読んで、ふとそういった心持ちがじつは自分の奥底に、漠然としてだけれど沈殿していることを、もう一度自覚する。

過去は、口に出した途端フィクションだ。フィクション、というのが言い過ぎたのなら、誰かが誰かの視点でのみ語る、創作や摩耗の物語。未来は過去を変えられる、ということばは真実だと私は思う。語られ方を変えたり、時間軸の幅や空間への置き方により、その存在意義は自在に操られるだろうから。

眼の前のひとが本当に、本当のことを語っているかどうかなんて、果たしてどうやって図るのだろう? 「私が見たあなただけが真実」はある意味そうで、誰が何を言おうと「編集されたあなたと私」が、この地球にあるだけで。運命か偶然かなんて、決めるのは私。

嘘をつく、という行為が私はすごく苦手だ。ごまかす、という曖昧な行動もあまりとれない。からとらないことに決めている。嘘を音にして世の中に放ってしまうくらいなら、何も言わずに口を噤んでいる方がまだましだ。

ゆえに嘘をつかれる、という行為には非常に敏感になる。ごまかしている、と判断したら、決して深追いはしないけれど、「ごまかす人」としてのラベルを貼る。

対して「嘘をつく」というのが優しい行為になることもある。そういえば「決して嘘をつかない」わけじゃあ、私もない。「知らなくていいこと」は往々にして人生に登場する。「私にとっての真実が、あなたにとって優しいかどうかなんて、また別」だ。

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「磯和さん」は、実在したのだろうか? 彼女は実在すると彼に騙って、母はそんなひとは居なかった、とそのひとに告げる。

「悲しかった出来事」は、その夏の茂みに果たして本当にあった瞬間だろうか? 彼女は実在すると彼に騙ったし、では「磯和さん」の口から聞けば、また別の物語となるだろう。

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「おいしいごはん」の時間すら、私たちの世界では「切なさの塊」になるかもしれないし、「物語のはじまり」あるいは「おわり」となる可能性を秘めている。すべては捉え方だ。あるのは側面。だから何の側面を、信じるか。

けれど結局、私は叩けば響くような、すなおなひとを求めてしまっているだけなのだと思う。優しいというのは「私に対して」で、それは決して「裏切らないから」「味方だから」。

傷つくことを恐れなければ、私たちはもっと強くなれるのだろうか? その解は、後ろ向きな「期待しないこと」ではないと、私は知ってる。期待しなくてもいいから、信じて生きたい。

そうそう、私は「信じて」生きたいのだ。自分も、相手も、世界も、未来も。ねぇねえみんな、そうじゃないの?と思いながら、私は島本理生さんの『夏の裁断』を読んで、閉じる。夏の読書。

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