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山に登ることは意思決定の積み重ねだ

独りで雪山に登るという行為は判断の連続だ。

自然条件、装備、自分の力量と意欲を客観的に眺めてみて、進むのか、引き返すのか、右か左か。次の一歩の意思決定を積み重ねていく。

山に登る目的は人それぞれだと思うけれど、自分にとっては「達成感を得る」ことだと思っている。目標は「無事に還ってくること」。達成感は大きい方がよいが、自分の身の丈を越えてリスクテイクすると還ってくることが難しくなる。だから意思決定が必要だ。

昨夜20:00
就寝したのは18:00だったが、わずか2時間で目が覚めた。

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2021年12月29日。長野県南部に連なる八ヶ岳の山中、標高2,200m地点にある赤岳鉱泉という山小屋で私はテントを張っていた。翌日30日に、主峰の赤岳(2,889m)に登り、そこから横岳、硫黄岳を縦走する予定だ。テントの外はマイナス8℃、中はマイナス5℃。この時期の気温としては低いわけではない。シュラフに潜り込むと9℃あった。それでも眠れなかったのは、さらさらとテントを叩き続ける雪の音のせいだ。

テントを出て山小屋に入った。夕食はバーナーで湯を沸かして鍋をつくったが、小屋でも100円でお湯をもらえると聞いた。明日の朝のコーヒー用にお湯をもらっておこう。対応してくれたのは素朴な感じの笑顔が可愛らしいスタッフだった。明日の天気や稜線の状況を聞いてみた。

「よくはなさそうですね。悪すぎることはないでしょうけど。昨日と今日で小屋には100人くらい来られているので、中には縦走する人もいるとは思います。トレースもあるかもしれませんが今夜の雪次第でしょうね」

ヤマテンという山岳専門の天気予報がある。会員制のWEBサイトで全国の代表的な山岳の3時間毎の天気、気温、風速の予想を提供してくれる。専門・高層天気図も公開されていて、264時間先まで天気図や等圧線の変化も見ることができる。

明日の赤岳山頂の天気は、風雪ときどき霧。昼時点で気温マイナス14℃、風速18m/秒。冬の赤岳には過去5回登っているがこのレベルの天候は経験している。一昨年前は風速25mだった。でもいずれも晴天だった。今回は降雪の影響がどれだけあるか。視界不良、トレースや目印の消滅、滑落。

テントに戻り、シュラフにもぐりこんだ。山小屋のスタッフの言葉を思い返しながら、昼間に電波がつながる場所で見た天気図を思い起こした。等圧線の幅はそれほど詰まっているわけではなく、予報以上に風が強まるようには思えなかった。頭の中で3つの行動パターンを立てた。

① 赤岳から横岳・硫黄岳への縦走
② 赤岳のみ登頂
③ 赤岳の稜線で撤退

「還る」ことがゴールなので、「撤退」することもルートの一つだ。

22:00
アイマスクをつけてヘッドランプを消した。私はいつも寝るときはアイマスクをつける。少しの明かりでも気になって眠れないからだが、雪山のテント泊ではもう一つ理由がある。それは温かいからだ。目が温まると安心する。

さらさらさら・・・雪の音は続いている。風も鳴っている。

今朝5:40
雪は降り続いていた。本来なら既に出発している時間。昨夜より15cmは積もっただろうか。夜は何度も目が覚めた。シュラフの中で逡巡していると周囲のテントも明かりがついてごそごそと動いている気配がある。

情報収集のために山小屋に入った。私より年配の男性2人が登山靴のひもを締めていた。「どちらまで?」と声をかけてみると、「赤岳から硫黄岳まで縦走です。私は初心者で前回は途中で撤退したんですが、連れ合いが経験豊富なので今回は一緒に」。会話が耳に入って隣のベテラン男性も顔をあげた。「雪が気になりますね」とおだやかに笑った。緊張と期待の間にいる人の笑い方だと思った。

自分の気持ちも決まった。「お気をつけて。後からいきます」

7:09
必要な装備を身に着けてテントを出た。足元は厳冬期登山用のLOWAのブーツ、12本アイゼン、ひざ下までのゲイター。アウターはゴアテックスのハードシェル。インナーは保温・透湿性のシャツ3枚とフリース。グローブは薄いフリース生地と防風性能の高い生地の2枚重ね。顔はバラクラバとサングラス。ゴーグルはザックに入っている。頭はニット帽の上にヘルメット。ピッケルは身体に巻いたロープにカラビナでつなげている。GPSはスマートフォン。低温で電源が落ちないようにハクキンカイロと一緒に胸ポケットに入れている。

実は少し迷っていた。登りたくないなあという気持ち。でも男性の笑顔が後押ししてくれた。人は偶然出会うちょっとした言葉や表情で気持ちを変えることができる。昨夜決めた3つのパターンを頭に入れて新雪の中を進む。

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山に登ることは仕事に似ている。議論を重ねてリスクとリターンを比較しながら関係者のヒアリングを続けているといつまでも意思決定ができない時がある。前例がないテーマは特にそうだ。でも、それは意思決定と責任を誰かにゆだねるからではないだろうか。誰も主語にならない会議は生産的ではない。

リスクは勘案した。それを回避するためのエスケープルートも用意した。あとは出発するだけだ。朝の山小屋で男性の笑顔を見てそう思った。ちょっとした言葉や表情で主語が明確になる。

自分は山に登りたいのだ。

8:27
稜線に向かって文三郎尾根を進んでいる。標高は2,550m。サングラスの隙間から飛び込んでくる風雪が痛い。左目のコンタクトレンズがずれそうだ。ゴーグルを装着した。下山してくる人とすれ違った。稜線で風が強すぎて進めなくなったので撤退するという。

私は、どこまで大丈夫だろうか。

9:12
稜線の文三郎尾根分岐が見えた。先行者が3人。しばらく話し合っている様子だったが山頂に向けて歩み出した。視界は15mほど。風も雪も強くなった。吹き飛ばされるほどではない。ピッケルはしっかり雪をつかんでいる。ただし足の筋肉に疲労は感じる。乳酸が溜まってきているようだ。少し前にアミノ酸を飲んだので早く筋力が回復して欲しいと思う。

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9:25
キレット分岐にある赤岳山頂の方向を示す標識を過ぎた。私の歩みは遅くなり、先行者の影は見えなくなった。トレースは消えかかっている。何度か立ち止まりGPSを確認した。方向はわかっているが斜面は急で一歩一歩が重い。時折太ももまで新雪に埋まった。ピッケルが刺さりにくい個所はあったが鎖は出ていた。左手で鎖をつかみ、右手でピッケルを刺して進んだ。

9:45
山頂直下に来た。晴れていれば富士山が目の前に飛び込んでくるはずだが今は真っ白だ。岩陰で一息ついた。

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この後、岩場を越えて東に回り込んだら梯子があるはずだ。埋もれていなければ難なく山頂に着く。

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しかし梯子の直前は少しわかりにくくて逡巡した。大きな岩を左右どちらから回り込むか。

右手に回ると崖に出た。慎重にもどって左に回った。

梯子が見えた。手と足を掛けられるくらいには露出している。よかった。見上げると、先ほどの先行者がこちらを見下ろしている。下山するらしい。

9:47
赤岳山頂に到着。風雪は強く、視界は悪い。

今この文章を書きながら、写真の時刻を見て驚いた。岩場で一呼吸したのが9:45。山頂の写真は9:47。その間たったの2分。

自分には少なくとも10分は経過していると思われたので何度も写真を確認したが、やはり2分だった。風雪の強さやルートファインディングへの一瞬の不安、あと少しだという高揚感。さまざまな感情が頭の中でぐるぐる廻った2分間だった。

感情の量と経過する時間は比例しない。

赤岳山頂から、縦走するのか、下山するのかしばらく考えた。稜線の先に目をやった。20mほど先に一瞬人影が見えた。そして、すっと消えた。

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稜線の状況を確認したくて少し先を進んだ。先ほど見えた人影が閉鎖中の小屋の陰で休憩していた。一組は3人のパーティー。北側の地蔵尾根から赤岳鉱泉に下山するとのこと。もう一人は単独の男性だった。昨日天気がよい時間帯に稜線に上がって営業中の山小屋に泊まり、今から文三郎尾根経由で下山するつもりとのこと。

これから横岳、硫黄岳を縦走して森林限界に下るにはコースタイムで2時間半だ。天気予報はあたっている。好転することはなさそうだ。この先の横岳のトラバースは毎回少し緊張する場所だ。新雪が積もったばかりで、かつ視界不良の風雪の中を通るのは嫌だなと思った。滑落の危険があるかもしれない。

来た道を戻ろう。

10:11
赤岳山頂に戻ると先ほどの男性が立ち止まっていた。私の気配に気づいて振り向き、「どこから降りるか分かりますか」と尋ねてきた。下に目を向けると確かにトレースが見えにくくなっている。5m下にあるだろう梯子に向けてどちらに一歩踏み出すか分かりづらくなっていた。聞くと、冬の赤岳は初めてだという。

私が前に出た。雪の状態からすると滑落の危険はないはずだ。右手に数歩進むと下の方向に梯子が見えた。露出している岩角に右手をかけて、左手のピッケルを斜面に刺してクライムダウンで数m下った。男性もついてきた。

キレット分岐の標識まではところどころ鎖が露出していて迷いはなかった。雪の吹き溜まりになっていて、時折太ももまで埋もれながら下った。

10:24
キレット分岐の標識に到着。次のマイルストーンは文三郎尾根分岐だ。しかしこのエリアは風で雪が飛ばされており、トレースも消えている。GPSを取り出して方向を探る。ここから右斜め前の方向に緩やかな斜面を下るようだ。

「こちらですね」声を張り上げて指を差した。彼もGPSを見ていたが少し方向が違うと感じたようだ。首をかしげている。

今は2人だ。即席のパーティーでも合意形成は必要だ。時間の余裕もある。もう一度GPSを見た。別の登山地図も取り出してもう一度確認した。指差した方向に間違いはなさそうだ。

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「右斜め前に少し下ってみましょう。それで再度確認しましょう」彼はうなづいた。数分後、トレースを見つけた。そして前方に文三郎尾根分岐の標識の影が薄っすら見えてきた。

もう迷うことはない。鎖は見えている。

10:53
2,550m付近まで下ってきた。相変わらずの視界不良だが、森林限界まで下ってきたので下方に木の影も見えてきた。

「もう大丈夫ですね」声を掛けた。
「ありがとうございます。一人なら不安だったと思います」
「どちらから来られたんですか?」
「宮城です」

東北地方ならいくらでも雪山がありそうだが、雪山登山の整備がされているエリアは少ないらしい。営業している山小屋が少なく登山情報がないのかもしれない。

「うらやましい。東北の夏山はあこがれです。一度登ってみたいです」
「ぜひ、いらしてください」大声で返してくれた。

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山頂に向かう登山者とも数人すれ違った。山では登り優先。都度立ち止まって道を譲った。山頂の様子を聞かれると状況を伝えた。

11:30
無事に赤岳鉱泉の自分のテントに戻った。

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13:28
赤岳鉱泉を後にし、登山口である美濃戸口に向かって歩き続けている。背中のザックは昨日の出発時点では19.4kgだった。今は昨夜消費した食料分は軽くなっている。足取りは軽い。

独りで冬の雪山に登るという行為はしびれるような判断の連続だ。

自然条件、装備、自分の力量と意欲を客観的に眺めてみて、次の一歩の意思決定を積み重ねていく。

赤岳には登頂した。
縦走は断念した。
でも、安全に還ってくることができた。

その過程で色々なことが頭を駆け巡った。家族のこと、仕事のこと。これからの目標と、自分の現在地。次の一歩のこと。

そして今、自分は家族のもとに還ろうとしている。達成感で一杯だ。

登山口まではあと2時間。温泉とビールが待っている。

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<参考>:今回の登山ルート

地図

赤岳 2,889m、歩行距離 19.8km、累積標高1,546m


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