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ショートショート 「きんもくせい」

 夕の言葉はいつも正しいから私はいつも疲れていた。秋は意外なところにいつも訪れ、帰り道に路地を間違えてしまいキンモクセイに出会った私は、匂いをかいだり、スマホで写真を撮っていたら帰りが思いがけず遅くなってしまった。
「カオはさぁ、疲れてるときに疲れたって言えないから植物が好きなんだよきっと」
 気にする風でもなく夕は言った。それはそうなんだけど疲れているのはアナタのせいだなんて言えない私は、夕が作ったと豪語する冷凍食品ばかり並ぶ晩御飯をのんびり食べた。カーテンの向こうではきっと霧雨が窓を濡らしている。秋の匂い、秋の風、38回目の秋。いや、早生まれだからもう一つ数えていいのかな。ボンヤリ食べていたらまた夕が、
「このアパートって猫飼ってもよかったっけ?」
 と聞くから、
「良いはずだけど部屋を荒らすからやめとこうよ。」
 と答えてみると夕はの口はへの字だった。子供みたいで昔は可愛いと思っていたんだよなぁこういうところ、と私は食後のコーヒーを入れに下膳がてらキッチンへ向かう。洗い物をしている背中が泣いている時がある、夕がいつか言っていた。だから何?この関係のゴールって何?彼氏とも呼ばせてもらえなくって背の低い私を小ばかにしてばかりいるアンタといる私の気持ちが分かる?いろんなことを考えながら洗い物をしていたら泣けてきたから蛇口を大きくひねった。夕はベランダでタバコを吸っている。私は思考を深く練ることもなく決意した。
 出よう。この家。財布とスマホがあれば十分か、そうだ、一眼レフは大事だぞ。そう決めたら笑えてきて、たぶん私はすごい形相で身支度をしていて、窓を開けて入ってきた夕に、
「ごめん、タバコそんなにいや?」
「そういうんじゃない、ちょっとコンビニに行って来るだけだよ」
「一眼レフをもって?」
「・・・。」
 何も言えず私は小走りに玄関に向かいタバコ臭い部屋の扉を開ける。「家賃は今まで通り半分入れるから」そう言った私の背中は夕に何を語っただろう。嫌いじゃない。むしろ大好き。だから別れたいんだよ。そう言い放つ勇気のない意気地なしなところもきっと分かってるんだろうなぁ、そう考える私の鼻にはさっき写真を撮った方角からキンモクセイのにおいが湿った雨の匂いと一緒に迷い込んできた。その方角へ向かって私は歩き出した。そう、歩き出したんだ。きっと。今思えばあの時からようやく自分の人生を生きることができるようになったんだと思う。
 何か大きな決断をするときに私はいつもふと考えた、ふと思いついた、そういう直感に頼るあたり随分とまぁスピリチュアルな人間なのかもしれない。でも直感がNOといえば体はどうしてもついてきてくれなくなることを何となく分かっていた。
 小さいころ、ハムスターを飼っていたことがある。大好きだった近所の友達が引っ越すことになって引っ越しのどさくさに紛れて逃げ出したそのハムスターの居場所をその近所の子の家族と一緒に探していた。私は直感で庭の大きい家の裏の側溝にいる気がしたからフタを外すようにおじさんにお願いをしたら本当にいて、随分驚かれて、
「君の家にきっと迎えてほしいんだろうね。」
 そうおじさんは言いながらハムスターを手に持っていたケースに入れて、私のことをギュっと抱きしめてくれた。初めて知った知らない異性の匂いは今の彼と同じ銘柄のタバコの匂いだった。あの時、夜にこっそり泣いたんだっけ…?
「にゃー」
 しばらく私は終電間近の電車に乗るのをためらって近所をブラブラしていたら猫の声が聞こえ、足元から聞こえるから側溝の下にいる気がしてならなくなった。もう、夕のことをだいぶ忘れていた。なんでかなぁ、そんな急に別れることにしたら困ること多いじゃん、と段々笑えてきた。側溝のフタを外してみるとやっぱり仔猫がいた。茶色のトラ柄の猫だったからチャトラ~と私はよびながらおびえるその子に手を差し出し持ち上げてみる。あったかい。私の人差し指をぺろぺろと舐めている。可愛い。とろけそうな気持の私の視線の先に親猫らしいチャトラ猫がこちらに来るところだった。フラッシュをたいて一眼レフのシャッターを切る。驚いたその親のチャトラ猫は走ってきた乗用車にはねられた。多分、亡くなった。多分今日が私の人生で一番泣いた日になるだろうことがなんとなくわかった。ごめんなさい。私がシャッターなんか切るから、そう思うたびに涙はあふれ、私はおいおい泣いてしまった。
 私の背中を一部始終を見ていたらしい夕がかけつけてさすってくれた。人生って、辻褄が全然あわない。私は泣いていて、夕はなぐさめてくれて、おそらくこの仔猫は飼うことになって、私はでも今日が夕と別れを決意した日で、なんの歯車もかみ合っていないのに、会社に行けば会社の機能としてうまい立ち回りを期待される私たち。
 行き場のない感情のそばに、キンモクセイの匂いが、また迷い込んできていた。

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