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読書論雑感

 読書の方法はまさに人それぞれで、同じ人が読むにしてもどんな本をどんな目的で読むかによっても異なる。自分についていえば、小説を読む場合はストーリーを追うことと文章のリズム感が大事で、多少引っ掛かりがあっても読み進めるようにしている。研究所・学術書はじっくりと理解しながら読む(が、最近は学術書でもある程度のリズムが必要だと思いつつある)。体調や気分によっても左右されるだろう。自己啓発本やノウハウ本は読まない。

 日本の近代知識人はどんなふうに読書をしていたか。
 例えば法学者・末弘厳太郎『法窓漫筆』に「読書」という一編が収録されていて、末弘が恩師から学んだ修業のための読書術が説かれている。その要諦は以下の二点にある。
 1 濫りに新刊書を読むな。
 2 これと決めて読み始めた本は最後まで読み切れ。
 すなわち「手近な本の中から簡易に知識を得る」ことを戒める。読むべき本にじっくり向き合えというわけだ。

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280418
(国会図書館デジタルコレクション)

 もう一人、哲学者・西田幾多郎の事例を挙げてみる。西田の読み方は末弘とは対照的に、雑読である。書物は好きだが読むというより「覗いて見る」ものであり、丹念に読んで理解しようとしてこなかったと述べる。中でも若い時にわからなかったアリストテレスがわかるようになった経験を挙げて、自分がその思想に追いつかなければ、偉大な思想家の骨肉が理解できないと述べている。

 これらに共通するのは、価値のあるものを真摯に読み通すという態度であると思う。 
 若かりし頃の、青臭く、難しい本を理解もできないのに背伸びしてなぞる「ファッション読書」も今となっては微笑ましい。また、わからないものがわからないと思うための必要な経験であると痛感する。しかし重要なことは、そこにとどまらず、人生経験を積んだ何年後かにふと思い出して読み直してみることかもしれない。経験や知見の積み重ねによって真に理解できたり、新たな発見があったりする、そういう人間の成長をぶつけても力強く受け止めてくれるのが、古典や名著と呼ばれるものなのだろう。


【おまけ】
上記の二点、音読して遊んでます。


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