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新・読書論雑感(知り急ぐなかれ)

 空気を読む、先を読む、行間を読むと言われるように、世の中には書物以外に読むべきものはたくさんある。そんな中でも、読書人たるものは書物を読み、心から共感し、時には反発し、ああでもないこうでもないと考えている。書評や読書感想文がなくならないのは、一冊の書物に対するに、人それぞれ異なった着眼点や解釈の余地が存在するからだ。

 かつて、日本において経書は修養の基礎とされ、読書はもっぱら道徳教養を教えるものであった。現代に近づくにつれ、書物は教養のみならず、娯楽や生活の道具としても読まれるようになった。岩波文庫といえば教養の代名詞として地位を確立しているが、開始当初は普及によって古典の価値が薄まるのではないかと懸念する向きもあった。実際に戦前の昭和、青年特に若い女性が電車で岩波文庫を読むという流行が見られたという。ある知識人はこれを「虚栄」と見なし、こうした「虚栄の浅い膚を通して、そこに真実の血肉を見るべき」とお節介を焼いていた(安部能成「読書に就いて」:昭和18年刊『巷塵抄』収録)。この岩波文庫の事例は、読書のファッション化の先駆けといえるのかもしれない。

 道具には決まった使い方があり、使い方を間違えてはいけない。違った読み方を許さないのは、ハウツー本のような世界で特に顕著だ。読み違えをしないように、簡便な言葉を使って伝えられる。わかりやすいものは受け入れられて、売れる。この傾向が教養の書物にも輸入されている。売れるものに人が集まり、書物の言葉は単純化する。
 人生はたいていの人にとって難しいので、ついつい簡単に「うまくいく方法」を探してしまう。もっともらしいやり方を、みんなが歓迎する。みんなが行かない秘密の小道を、みんなが見る道しるべを頼って行きたがる逆説に陥る。そのことを、何となくわかっていても知らないふりをして、渡っていこうとするのが、ハウツーの世界だ。そこでは人々は著者の思想とか精神とかを知らずして、著者の技術を譲り受けることができる。

 「思想」というときな臭い感じがあり、「精神」というと胡散臭いと思われる。ともに党派的に使い倒されて、臭みが抜けない言葉だ。思想は敬遠され、精神は鼻つまみものだ。他方、手垢に染まらず中性的な面持ちをもっている技術は、白皙の美少年のような安心感がある。脂ぎった赤ら顔の思想の言葉も、塩顔の美男子たるべく技術的に語られる。技術的に語っているうちに、思想=技術はマニュアルになる。生き方がマニュアル化される。マニュアル通りに動けば、うまくいく。これは機械の運行であり、論理的にも倫理的にも問題ないとしても、一人の人間としては気持ちの悪さを覚える。この気持ちの悪さは、思想が技術によって昇華(お好みなら止揚と言ってもよい)させられるのではなく、技術によって塗装されるに止まっていることに起因する。知らないことを知るのは、そんなに無味乾燥で、単純なことだったか。

 読書は自分が生涯に経験できないことを追体験する効果があるが、追体験の方法はあまり意識されない。読書とは、読者のほうから著者の思考の渦に入っていって、つかみ出して練り上げる、エネルギーのいる作業であって欲しい。そんな風に書物を読むと疲れる。しかも、すがすがしい疲れとは限らない。読書なんかにそれほど気合い入れてどうするのと、白皙の美少年は言うかもしれない。それでもなお、時には疲れる道を取って「脳筋」的に読書をすることも、あっていいと思いたい。読書に時間がかかるのは、それだけ真摯に書物と向き合っているからだ。簡便に物事を知り急いだら、疲れることはないが、教養の果実が実らない気がする。もっとも、これはただの貧乏根性かもしれない。

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