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読書論雑感(修養と余談)

 以前にいくつか読書論を書いてマガジンを作成し、その後も断片を書き散らしては放置していたけれども、久々に残してみようという気になった。そもそもこの読書論のテーマは、読書はなんのためにするのかという問いから出発しているが、そんなことは十人十色であって、別に決まった結論はないと考えている。それぞれの考え方で読めばよいというだけの話である。にもかかわらずこれを考えてしまうのは、単に読書という行為を通じて色々な人の考え方を知りたいという、ただの好奇心にすぎない。

 いきなり話は横道に逸れるが、本棚を見ればその人がわかるという言葉がある。確かに本棚を見ることは、その人の読書傾向を知ることであり、その人の嗜好ならびに思考を把握することでもありえよう。SNSを覗けば積極的に書棚の写真を公開して誇っている人も少なくないが、自分について言えば、本棚はあまり見られたくない気持ちだ。なぜならそれは嗜好ではあっても自分の思考とは必ずしも結び付かないように思えるからである。ある程度の数を所持していても、全て読み通して、かつ身に着いた本がどの程度あるのかというと怪しいもので、どうにも気恥ずかしさが抜けない。下手に他人に書棚を見せて、たまたまある本が琴線に触れてしまった場合に「あ、この本いいですよね」と共感でも呼ぼうものなら、自分の目はたちまち泳ぐだろう。実は読んでいないなどと言えば相手を幻滅させてしまい、目も当てられない事態になる。

 さて、特にこのシリーズでは、昔の人が読書をどう考えていたかということに焦点を当てている。なぜ昔の人かといえば、書いている人間が昔好きであり、かつ材料がインターネットで手に入りやすいからである。そんな昔の読書論を探し歩いていると、読書といえば修養と考えられる傾向が、過去に遡るほど強いことを感じる。
 修養のために読書すべきと考えた一典型をみてみよう。今井雷堂なる人物が大正期に書いた『因果と人生:修養夜話』に「読書と修養」という一節がある。

 同書において雷堂は、読書に良と不良の二種類あるとする。不良読書の典型とされるのは小説である。彼自身が若いころに、小説やおとぎ話をしきりに読んだ結果、「頭脳は朦朧として、小説的の人物になり終つてしまつた」。そうして感情が高ぶり文学思想にかぶれた結果、「世間は感情のみにて渡つてゆき得べくやうにも考へられた」という。その結果、彼の頭に残ったのは、男女の恋愛に関するいかがわしい挿絵だけであった。ここに至って軟文学が人生に有害であると悟り、青春七~八年が失われたように感じた。人生にとって小説は有害であるという見識は、戦前の著作者にしばしばみられるもので、特段珍しくない。男女の恋愛はいかがわしいものであり、修養の妨げになるという思考様式に表れているとおり、修養は節制・禁欲と結びついている。ここにいう有害な小説とは、恋愛というキーワードはあるものの、具体的にはどういう性質のものか、わかるようでわからない気がする。青年の成長物語に恋愛は欠かせないが、そういうものも排除されているのだろうか。読書論に絡めたこうした「小説有害論」の諸相は、突き詰めていけば文化史的に面白いような気がしているが、材料が充分に集まっていないし、途中で飽きるかもしれない。なお、この今井雷堂という人は、修養が趣味と言っていいほどに修養についての著作を残している。例えば『世渡り四十八手』という著作もあり、一見ふざけたような標題だが、この著作は至って真面目に、徳を積んでコツコツ生きることの重要性を記したものである。

 話は再び横道に逸れるが、読書の形態も時代とともに変わってくる。現在電子媒体で文章を読むということは当たり前の日常になっているし、何よりこのnote記事は電子でしか読めないわけである。個人的には、とにかく何でも電子化すればいいという風潮には否定的で、紙に書かれたものを大切にする文化に生きていたいと思っている。保存科学の世界では、人類有史以来において1000年以上残った実績のある紙が今のところ最も信用性のある媒体だとの説が有力であり、自分も現時点ではそれを信じている。しかし、国会図書館のデジタルコレクションでランダムに過去の書籍にアクセスする機会がなければ、この今井雷堂という著者と著作にはおそらく出会うことはなく、当時の生真面目な生き方のひとつを知ることができなかったことも、また事実である。技術の進展により、知として集約していくことと、思想として深めていくこと、あるいは物語や系譜として編んでいくことを、個人がそれぞれの流儀でできるようになっている。これは思考のありかたとして革命的であるともいえるし、衰退的でもあるといえる。

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