見出し画像

2月19日 今月のまとめ AIが登場して人類はどのように劣化していくのか。

 今月は一ヶ月にわたって「AI」と人間の「認知能力」の問題を話してきたが、そのまとめとこの先の未来についてのお話をしよう。内容を要約すると、AIが登場してきたことによって人類は劣化していく……という話だ。

 何度も繰り返すが、人間の認知能力は人間が思っているほど高くない。しかし人間は認知能力が低い……ということを自覚できない。なぜなら“目の前にある情報を自分は100%認知できている”と思い込んでいるからだ。実際には全情報の数%くらいしか認識できていない……ということに気付くことができない。人間は自分の知っている範囲だけで「自分はそれなりに頭が良い」と思い込む。これに気付くことができないから、ありとあらゆるあやまちを犯し続けてしまう。

 PIAACはOECD(経済協力開発機構)主催の国際協力で、16歳から65歳を対象に、読解力、数的思考力、ITを活用した問題解決能力の習熟度を測定する……というテストを実施した。24カ国、15万人を対象に実施されたテストだ。
 その内容はごく簡単で、図書館のホームページを見て、そのリストにある本と著者名を一致させることができるか……という問題だった。この問題に、日本人の27%が答えることができなかった。さらに難易度を上げて「設問と本の概要を比較する」という問題に解答できなかった人は76%にもなる。
 というここまでの話を聞いて、「最近の日本人はバカになっている!」――と早とちりの答えは出してはいけない。それでも日本人のスコアは24カ国中1位だった。他の国の人たちはもっと正解率が低かった。それどころか、パソコンの操作方法すらわからなかった……という人たちも結構いたのだ。
 日本人の3人に1人がまともに日本語を読むことができない。いや、読むことはできるが、その内容を理解することができない。そして理解できていないことに気付かない。こういう話を聞いて、「最近の若者が~」という話を始める人もいそうだが、そうではない。昔からそうだった。さっきも話をしたが、それでも日本人の読解力は世界1位。世界の先進国を見ると、2人に1人はまともに自国の言葉を読むことができない。世の中そういうもの……なのだ。

 こういう話を聞いて、驚く人と驚かない人がいる。私は驚かなかったほうの人間だ。「ああ、やっぱりそうでしょう」と。というのも学校の国語の授業で「ここからここまでを読んでみろ」というのがあるでしょ。そうすると漢字が全く読めない……という生徒はいつも教室に何人かいた。ひらがなだけを読んで終わり……という人はいつも必ずいた。先生の方から一方的に指名して読ませると、時々そういう生徒が出てくる。
 私は「そういう人いたなぁ」という記憶があったから、3人に1人は文章を理解できない……と聞いて「うん、そうでしょう」と思った。国語の時間で手を挙げず、なんとなくごまかしている生徒は実はわりといるんだろう。実は日本語をほとんど読むことができない、読むことができても意味を理解できない……そういう人はわりと世の中にいるんだろう。

 そう思うのはネットニュースやYouTubeのコメントなどを見ると「この人、理解できてないな」という書き込みをわりとよく見かけるからだ。明らかにニュース記事と関連がない、動画と関連のないことを挙げて、書き手を批判し、いかにも自分のほうが上だ……ということを強調するようなコメントをする。
 明らかに読解力が低い。記事内容、動画内容を理解できていない。しかしそういう人たちは自分の「読解力が低い」ということに気付かない。読解力が低いという自覚を持てないから、自分たちのコメントがおかしいことにも気付けない。

 でも私はそれを「良い」「悪い」というつもりはない。人間はそういうものなのだ。

 人間の能力には指向性があり、私はたまたま国語に異様に高いスキルを持っていた。それこそ、学校の授業などまともに受けなくても高いスコアを出せるというくらいには(テスト前勉強など一切せずに、いつもクラスで上位3番以内、学年で10位内だった)。
 その一方で私が昔からまったくダメだったのが音楽。楽譜をまったく読むことができない。読むことはできても理解ができない。音楽の良し悪しすらわからない。これは「日本語がまったく読めない」という感覚と一緒だ。逆に日本語はあまり読めないけど、楽譜ならスラスラ読める……そういう人だっていくらでもいる。
 だからといってどっちのほうが優れている……という話ではない。国語が全くダメでも、音楽を専門の職業に就いたら、楽譜を読む能力が高い方が有利に決まっている。どんな人間も両方の才能を同時に得られるわけではない。
(スティーブン・スピルバーグは本を読むのが苦手で、計算もほとんどできないんだとか……しかし映像制作に高い能力を発揮できている。天才ほど、そういう変な偏りができるものなのだ)
 人間は生まれたときに「スキルポイント」というものが付与されていて、私の場合、国語能力に極端に振られていた……それだけの話だ。人によっては「数学」に振られているだろうし、「音楽」に振られているという人もいるだろうし、「運動」だけに振られているという人もいる。そういう生まれついての得意・不得意というものは遺伝子でだいたい決まるとも言われている。人間はそういうものなのだ……とあらかじめ了解しておいたほうがよい。

 世界のIQ一覧を見ていると、欧米白人はだいたいIQ100前後で、アジア人は100~105。単純にIQ比較すると実は欧米白人よりアジア人のほうが頭がいいと言える。
(それどころか世界全体で見てもアジア人が一番頭が良い。欧米白人はもともとの人格が威圧的で相手にマウントをかける癖がある。小柄で協調性を重んじるアジア人は、欧米白人からいつも批評されてマウントをかけられているから、そこで萎縮しがちになってしまうが、IQはアジア人の方が上。欧米人相手にコンプレックスを感じる必要などはないのだ)
 残念ながらIQが低い国というのが黒人の国。「IQが低い」と書くと差別的なニュアンスを含む表現になってしまうが、そういう意図ではない。確かに「IQ」という側面ではアジア人が世界でもっとも優れているといえるが、「全てのスキルにおいて優れているか」……というとぜんぜんそうではない。例えば運動能力はアジア人は黒人にまったく勝つことができない。音楽のスキルも黒人にはまったく歯が立たない。ついでに「色を識別する能力」も実は黒人は非常に高く、白人もアジア人もまったく太刀打ちできないと言われている。IQだけが人間をはかる絶対的な物差しではないのだ。
 日本人のスキルの話をしても、日本人はIQは高いが、それで誰もが人前に出て演説できるか……というとそれはぜんぜんダメ。話し下手が多い。日本人の才能はやっぱり「職人」的気質に表れる。細々としたモノ作りに関しては世界最強のスキルを発揮する。それ以外のスキルははっきりいってさほどでもない……というのが日本人だ。
 アジア人と白人が殴り合いをやっても、だいたいにおいて白人が勝利する。単純にいって、体格差が大きい。するとアジア人の取り柄は「頭がいいこと」くらいしかない。アジア人の特徴はせいぜい「頭が良いこと」くらいで、それ以外の能力はまるでダメなポンコツだ……そういう言い方もできる。

 こんなふうに人間の能力には「指向性」があるのだ。人間の社会がどうしてこうもいろんなタイプの人間に溢れているのか……というとそういうバラツキがあったほうが問題解決に向かうときに効率がいいからだ。
 例えばもしもIQの高い人しかいない……というコミュニティがあったとして、力仕事が必要……という局面になった時、困るだろう。力仕事は力のある人に任せた方が絶対にいい。適材適所というやつだ。人には適正というものがあるのだから、その適正に合わせた仕事をさせるべきだ。

 しかもそういう得意・不得意は遺伝子的にだいたい決まっていると言われている。これまで話してきたように、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のビフ・タネンのような乱暴者がどうして存在していて、しかも社会的に重宝されてきたのか……というと人類は長く暴力の歴史の中にいたからだ。今はたまたま暴力から遠ざかった時代に入っているけれども、この先も永久不変に暴力とは無縁というわけではない。もしかしたら、ある日、突然戦争……ということだってあるかも知れない(実際起きたし……)。そういう事態のために、ビフ・タネンのようなIQが低いが暴力に長けた人間はやっぱり必要なのだ。

 人間は多様であることが正しい。しかし世の中は一つの物差しで優劣を付けさせようとする。そこでおかしなことになる。
 例えば私の場合、よくよく考えたら私のスキルは劣っているわけではない。ただ極端に偏っていただけだ。しかし学校という環境の中で私はずっと「落第生」扱いだった。学校がそういうふうにヒエラルキーを作り、順列を付けて、生徒達を闘争させる。そこで一生分のコンプレックスを植え付けさせられる。
 本来なら子供のスキルがわかってきたところでクラスを分けるべきなのだ。だいたい、日本語が読める生徒と読めない生徒を同じ教室に入れて授業を受けさせる……というのが間違っている。日本語の読めない生徒には読めるように指導する授業が必要なのだ。しかし「読めて当然」という授業をやり続けるから「落ちこぼれ」が生まれてくる。
 それに能力差が絶対的に生まれるなら、その能力差を称揚すべきだ。ところが「ゆとり教育」以降、「格差」の存在は「差別」に繋がるから隠そう……ということになった。格差の存在を否定しよう。ついでに優位性、つまり才能も否定。全員が均等……そんなありもしない理想で子供を育てるようになってしまった。
 私の場合、絵描きのスキルは完全にダメになった。なぜなら私は子供時代、絵を描いていて人から褒められた……という経験がまったくない。逆に親や教師からひたすらに批判・非難されてきた。それでどうなったか、というと私は絵を描くのが大嫌いになってしまった。今でも絵を描いていて楽しいとはまったく思わない。しかし私には間違いなく絵描きのスキルがある。そのスキルが自分で肯定できなくなってしまった。これははっきりと教育が悪い。
 学校教育は子供の目覚め始めた(国語数学理科英語社会といった教育世界のカテゴリの中にない)スキルを徹底的に否定し、非難し、コンプレックスを抱くように仕向けている。なぜそうするのか大人になってから理解したが、「義務教育」とは子供の能力を平均化することこそが最大の使命であって、突き抜けた能力を持っている子供がいたら、それをいかに削り取るのか……それが基本コンセプトだったからだ。日本から天才が生まれにくい理由があるとしたら、学校教育にこそ問題がある。そしてそれは「義務教育」という名前を掲げている限り、永久に見直されない。
(それに、学校教育はいまだに欧米コンプレックスから抜け出せない。「もっと欧米人のように人前に出て討論できるようになるべきだ」……この理想によって日本人が本来持っていて、美徳ですらあった職人的器用さはどんどん軽視され、喪われていこうとする。それにできないものを「できるようにすべきだ」とムリすべきではない。おかげで私は永久に人前に出て喋れないようになった。どうして学校教師はできないものに対して「どうしてやろうとしないんだ! やる気を出せ!」という訳のわからない指導方法しかできないのか。やる気を出せばなんでもできる……というわけじゃない)

 ちょっと脱線した。

 私が繰り返し話をしていることに、「人間の認知能力は思ったより低い」というものがある。ダンバー数によれば、人間が一度に認識でいる他人の数は150人前後。それ以上になると顔を覚えることができない。人間はその程度にしか認知能力を持っていない。しかもその認知能力が極端に低い……という人はいくらでもいる。
 前回も話をしたけれど、人の認知能力の限界がさほど高くないという前提であれば、100人以下の村を作って暮らせばいい。しかし本当に100人以下の村を作ると、プライバシーのない世界になっていく。他人の秘密を暴き共有したい……その欲求に逆らえなくなる。なぜならそれが人類の歴史の中でカタストロフを防ぐための方法だったからだ。
 他人の秘密を暴き、共有していくようになると、次にやってしまいがちなのは「イジメ」だ。村八分だ。これもやっぱりコミュニティ全体のカタストロフを防ぐため。「正義」に基づく行動なのだ。
 この正義の心がもっとも暴走しやすい。
 特に世の中の噂話に振り回されやすく、そのうえに正義感に強い人は、正義のために何をやってもいい……と思い始める。これが「○○警察」だ。
 2019年、新型コロナウィルスが発見されて世の中が大騒ぎになっていた頃、「マスク警察」が世にはびこった。その中でも極端な事例が、「マスクを付けろ」と自宅からスコップを持ってきて、殴りにかかった……という事件。事件にならないまでもマスク警察があちこちで暴走し、マスクを付けていない人を取り締まりまくった。
 どうしてこんな行動を取るかというと、噂話に振り回されやすく、しかも正義感が強すぎるから。本人は「世のため人のため」のつもりなのだ。世のために人のため……と思い込んだら倫理から外れても許される……そういう心理に陥りやすい。
 実際、こういった行動がどういう意識に根ざしているのかというと、私たちが100人以下の小さな村だった頃の感覚がいまだ残っているからだ。コミュニティの均衡を保つために、極端な行動を取ってしまう。ほんの些細な欠陥が許せない。
 私はこれは理性が低く、認知能力が低いことが原因だと考えている。理性でもって情報を精査する能力があれば、例えばコロナウィルスも本当はそこまで恐れるものではなかった……ということに気付くはず。というのもコロナウィルスが蔓延し始めた初期の頃でも、実は致死率はたいして高くなかった。お亡くなりになったのは持病を持っていた高齢者だけ。よくよく確認すると、インフルエンザでも同じくらい人がお亡くなりになっていた。しかもワクチンも広まって抗体がついてきたのだから、1年後や2年後はもう怯える必要もなかった。自動車事故や糖尿病のほうが圧倒的に死んだ人の数は多く、怯えるものの順序がそもそもおかしかった。

この辺りの話は半年ほど前に記事としてまとめたので、そちらを読んで頂きたい

 コロナウィルスがなぜあそこまで過剰に恐れられたのか……それはただ単に「新しい脅威」だったから、人の脳内で優先順位が最上位になったからだ。上の記事にも書いたように、コロナウィルスよりも交通事故や糖尿病で死ぬ人の方が圧倒的に多い。しかしこれらの病気は日常化してしまったから、「脅威の対象」として認識できなくなっている。こういうところも人間の認知能力の問題が絡んでくる。認識の外になってしまった脅威に対し、「怖い」という感覚を抱けなくなる。

 そこまで精査できれいれば、「なーんだ、コロナウィルスたいしたことないな」と判断できるはずだ。私はごく初期の段階でマスクを外して普通の生活するようになっていた(というか引きニートなんですが)。
 本能のままに噂話に振り回されて正義を振りかざすのではなく、一つ一つの情報を見て価値判断ができるかどうか。普段から世の中のニュースを見て「それ、私は関係ないですね」というスタンスであれば、さらっと判断できる。そういう理性が大事だ。

 認知能力の問題はどうにもならない。人間の「脳」の限界として一度に認知できる他人の数は250人ほどまで……それがたぶん最大値なのだろう。しかし私たちは数千万人が同居する「都市」で生活してしまっている。
 これがどんな問題をもたらすかというと、あらゆるものがどこか他人事になってしまう。小さなところでは道にゴミをポイ捨てしても、そこに住んでいる人に迷惑だとは考えなくなる。政治の世界へ行くと、官僚達に「国民」という意識はなく、自分たちの決めた制度がどういう影響をもたらすのか……ということは考えなくなる。「国民の暮らし」はさて置きとして、「制度を変えました」という勲章がほしいだけで行動するようになってしまう。それで時に、どうにもならないクソ制度が生まれる。最近話題のクソ制度といえば「インボイス制度」。
 どうしてこんなクソ制度が生まれるのかというと、官僚達の意識の中に「国民」が存在していないから。これはもはや仕方のない話だ。どんなに頭が良かろうが、認知できるのはせいぜい250人まで。自分たちの職場の人間とその周囲が限界。だからその中で出世して地位を確立させたい……そういうゲームに捕らわれて抜け出せなくなってしまう。

 官僚の世界は頭の良い人たちだから、認知能力限界250人というかなり幅の広いものの考え方ができる。でも庶民の世界は150人前後が限界で、中には100人以下でも難しい……という人も多くいる。
 2019年頃、『ケーキの切れない非行少年たち』という本が出版され、話題になった。私は読んでないのだけど。この本が出たとき、世の中的には驚いたという人が多かったのだけど、私は驚かなかった。「うん、そういうもんだよ」と。だいたい日本語が読めない生徒は小学校中学校時代にいたよね、論理的思考がまったく理解できずなにかと暴力に走っちゃうような子供っていたよね……とすぐに思い当たったからだ。
 認知能力が極端に低いタイプの人は世の中に確実にいる。そういう人たちは世の中に一杯隠れている。誰にも気づかれず、本人も自分の認知能力が周りから劣っているという自覚もない。
 そういう人があるとき、無自覚に大きな問題を引き起こす。それが件のスシロー迷惑動画の事件。あんなことをしたら普通に大問題が起きる……その自覚がなかった。「世の中」というものがどこか自分と乖離している。自分とは関係ない。世の中に自分たちしかいないような感覚すらある。――どうしてそういう感覚に陥るかというと、認知能力が低いから。

 そうそう、急に思い出した話で、流れからちょっとはみ出る話だけど、実はこんなことがあった。
 実は時々、SNSで困った人に絡まれる。どういうタイプかというと、ストレートに「あなたとセックスがしたい。会えませんか」と言ってくる人だ。
 正直なところ、かなり困る。ものすごく困る。私はどうにか理性的にお断りをして、「もし誘うにしてもそういう誘い方はよくありませんよ」と諭そうとするのだけど、相手は話を聞いてくれない。とにかく「セックスしませんか」とBOT状態。説得しようとするとキレ始めて罵倒で返ってくる。譲歩しているような雰囲気を出すと「じゃあ会ってセックスしましょう」と話が戻っていく。
 そんな誘い方をすれば相手が困るし、それ以前に警戒心を強めるだけだ……という意識がない。ただただ自分の一方的な欲求を向けてきて、受け入れてくれなかったらキレる。そういう誘い方をすれば相手に迷惑……という意識はない。
 SNSの向こうにいる“誰か”は「人間だ」という意識がない。知っているけれども理解していない。
 これも認知能力が劣っているから。
 でもこういう人、世の中的にはたぶん「普通の人」なのだ。ごく普通の人として暮らしていて、普通に仕事に就いていて友人もいて、社会生活を送っている。誰からもこの人は認知能力が低い」……などとは思われていない。普通の人なのだろう。世の中はそういうもの……なのだ。
 ちなみにこの人、ブロックしました。

 この先の未来について、人間はどうなっていくのだろうか。
 私の考えでは、確実に人間は劣化していくだろう……と考えている。まず「逆フリン現象」が起きている。人類全体のIQはIQテストが導入されてからずっと右肩上がりだった。ところが1990年代をピークに、2000年代を超えてゆるやかに下降を始めた。これが「逆フリン現象」と呼ばれている。
 そうはいっても実際のグラフを見ると、“劇的に落ちている”というわけではない。グラフはジクザクになって全体として見ると緩やかに落ちてている……という感じだ。
 最初にPIAACのテストで日本人の36.3%は文字が読めてもその文章を理解できない……という話を紹介した。それでもPIAACの調査では世界1位。なにしろ世界的に見ると48.8%は自国の国語が理解できていないわけだから。
 ところがOECD(経済協力開発機構)の別の調査によると、日本人の読解力は2015年調査7位から2018年には15位まで落ちている。
 低下した理由は憶測ばかりでよくわかってない。現代人の読書量が減ったと言われているし、Twitterなどの短文になれすぎている、つまり「情緒の言葉」だけのやり取りしかやらず、「論理性のある文章」を書いたり読んだり……という経験が少なくなっているから……と言われている。

(『26世紀青年』のような状態が起きているのではないか……とちらと考えたりもするが)

 そういう話が本当かどうかわからない。上に書かれているような話が事実だとすると、日本以外の国でも状況は同じであるはずで、日本だけが読解力が落ちていく理由にはならない。ただ実体として読解力が落ちている。読解力が落ちているから、信憑性の怪しい「噂話」に振り回されやすい。そこで陰謀論を信じやすくなっている。
 私が「さらに劣化するだろう」と考えている理由はAI。便利すぎるツールが出てきてしまう。AIがあればどんな問題も答えてくれる。悩みを解決してくれる。そんなツールが出てきてしまったときに、人は「考える」ということをするだろうか。人間の認知能力の限界値は250人までだが、AIはその人間の限界値を上げてくれるツールというわけではない。むしろその逆で、下げる可能性の高いツールだ。
 現状のAIはよくよく確かめるとヘンなところは一杯ある。文章構成がおかしかったり、情報も一つ一つ検証すると間違っている……ということも多い。AIはグーグルで関連する情報を集めて、整理して提供してくれるけど、その情報が「正しいかどうか」を審査する能力がない。結局のところ、人間が書いた方がいい……という結論になる。
 しかし、それは私が極端に文章能力に長けていた……というだけで現状のAIでもたいていの人の文章作成能力を超えてしまった。近いうちに私が書くこういう文章よりも読みやすく、情報の質の高いものを書いてしまうだろう。
 それにその情報が正しいかどうか……今なら「AIの書いた文章は正確性に欠ける」と指摘できる人も多いが、そのうち、AIの書くことなら無条件で信じる……という人たちが出てくるだろう。
 そんなとき、「なんで人間が苦労して時間掛けて文章なんぞ書かなくちゃいけないんだ」と考えるのは自然な現象だ。ついでに「なんで苦労してそんな文章を理解しなくちゃいけないんだ」と思う人も出てくるだろう。人間は自分の置かれた環境の中で“合理的”と思える判断を下す。「必要ないじゃん」と思ったらやらない。苦痛を避けることを正しいと考えるのなら、「頭を使って考える」という苦痛を避けるのは当然の判断だろう。なにしろ本を読むことはだいたいにおいて苦痛。そんな苦痛から遠ざかりたい、というのが人間の本能だ。そしてその能力も喪う……。
 もちろん、頭のいい人は「さらに考える」ということをするだろう。しかしそういう人は多数派ではない。AIに依存してしまう人はきっといるし、そちらのほうが多数だろう。「そっちのほうが簡単だ」と思ったら、人間はそうしてしまう。むしろそうするほうが「合理的」とすら考えるのが人間だ。

 AIが出てきてそれ以降、ほとんどの人はそのツールを使うことで自分がアップデートされた……という錯覚を持つだろう。しかしそれは「下駄を履かされただけ」に過ぎない。下駄を履かされているだけに気付かない。凄いのはその本人の実力ではなく、身につけている鎧兜のほうかも知れない……とは考えが至らない。おそらくそうなってしまう。
 ツールがあまりにも便利すぎて、その便利さに溺れてしまう。AIを使うことによってあたかもものすごく自分が優秀になったかのように思ってしまう。でも所詮は人類。人類には限界があって、いずれにしても認知能力の限界値は一度に250人までだ。
 限界値はその程度に過ぎないが、劣化はする。体力も落ちるし、指先の器用さもダメになっていくし、読解力や認知能力も落ちていく。

 アイヌの神話にこんなものがある。オキクルミという神がいて、人々のために地上へ降りてきて、様々な知恵と技術をもたらすが、それによって人々は怠け者になってしまった。その姿を見て、オキクルミカムイは人間に失望して地上を去って行ったという……。
 AIという名のオキクルミカムイは今まさに架空の世界から現実に下りてきた。神話に描かれたような堕落が現実に起きるだろう。それはもはや仕方のない話かも知れない。

 私はただそういう未来を、遠くから見ているだけだ。
 どーせ引きニートですから、社会から外されてますもんね。


とらつぐみのnoteはすべて無料で公開しています。 しかし活動を続けていくためには皆様の支援が必要です。どうか支援をお願いします。