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8月23日 俺が考えるコミューンという理想郷はきっとうまくいかない

 私は常々、ある程度年を取ったら、本当に仲良くなれた10人ほどと一緒に暮らす生活したいなぁ……と考えている。大きなお屋敷を建てて、シェアハウスに近い感じで共有スペースとプライベートスペースを分けて、建物の中心に大きな図書室を作る。
 前にも書いたが、この考え方の利点を挙げてみよう。

1950年代のコミューン。

① 誰かの助けを得られる
 例えば大きな荷物を運ぼうというとき、1人だと大変だ。そこで多人数で暮らしていたら、助けてもらえる。私が持ち得ない技術を持っている人がいたら頼れるし、私にしか持っていない技術があったら人を助けることもできる。
 10人ものそれぞれの能力を持った人たちが集まれば、チームとなって何かしらの創作物を発表していくことも可能だろう。老後はそうやって作品を作り続けるのも悪くないと考えている。
② 家電を無用に買う必要がなくなる
 現代の都市生活者は1人につき一つ炊飯器、電子レンジ、オーブントースター、冷蔵庫を所有する。それは無駄ではないか。数人が集まって暮らし、家電は共有すればよい。
③ 共有図書室を作る
 私はたくさんの本、ゲームソフト、音楽CD、映画DVDを持っている。それこそ狭い部屋の中、溢れんばかりに積み上がっている。しかしその多くは一度見てそれきりだ。だからといって売って手放すつもりはない。特に本は、手放した後、「あの資料が必要だった」と気付くことが多い。そこで共有図書室を作り、持っているコレクションを納品。共同生活者10人のうちの誰かに活用してもらう。女性であれば大きめのウォークインクローゼットを作り、服を共有してもいいだろう。
 そのうえで、私自身のプライベートスペースはとことんシンプルに、居心地の良さを追求する。
④ その家は最終的に老人ホームにする
 住人達が年を取ったら、その家はそのまま老人ホームとする。私は田舎で過ごしているのだが、街にお年寄りは非常に多い。しかしその多くは家から出ず、孤独に陥っている。すると老人達は社会から切り離された存在になる。そこで家を老人ホームにすれば、老人の孤独の問題が緩和される。また固まって住んでいれば、ヘルパーの人に来てもらえば一度に10人の面倒を見てもらえる。
 住人達がやがて老いで死んでいったら、多くの家具はそのまま、コレクションを処分して、次の若い世代に住んでもらう。作った家は廃墟にせず、次の世代、さらに次の世代に継承してもらう。

 というふうに、「終の棲家」という前提なので、シェアハウスのように人が入ったり出たり……ということもない。老人ホームにすること前提の、多人数が住んでいる家という感じだ。
 こういう一つのお屋敷に10人という家を5棟くらい連なって作ることができれば、50人ほどの村になるな……とかも考えている。一つの屋敷の中の10人とは別に、その他の40人とも緩やかな結びつきができると、それもいいだろう。

 ……ということを考えていた。一番の問題は、私にそもそも友人がいないということであるが。
 最近知ったことだが、こういう集まりを「コミューン」と言うそうだ。へえ、知らなかった。しかもすでにそういう暮らしをしている人々がいる……と。
 俺が考えるようなことは、世界中の誰かがすでに考えていて、しかも実践している……という話だ。

パリ・コミューン成立の瞬間

 コミューンという語について注釈を入れると、元はフランス語の「共通」「共同」「共有」「多数」「平凡」「庶民」を意味する言葉で、フランスとスウェーデンでは「自治体」を現す言葉である。日本語で翻訳するときは便宜上「パリ市」と表記するが、実際には市・町・村の呼び分けはなく、すべてコミューンと呼ぶ。

 そのコミューンとは違って、アメリカでは1970年代頃からヒッピー達が独自の集まりを作り、それをコミューンと称していた。私が指しているのは、このヒッピー達が作ったコミューンのほうである。
 ヒッピー達のコミューンは共産主義的な意味合いが強く、そこで得た財産は全員で共有する、子供が生まれてきたら全員の共有財産として全員で育てる。小規模血縁社会のような社会観を人工的に作り上げることを目論見としていた。
 1960年から70年代までアメリカではおよそ200近いコミューンが作られたが、そのうちの199のコミューンは当事者が在命中に消滅してしまった。
 コミューンの多くは人里離れた場所に建造される場合が多いから、刺激が少なく、孤独、退屈、人間関係のストレスといったものを抱え、1人、また1人と去って行き、最後にコミューン自体消滅するというパターンが多かった。他にも原因を挙げると資金的問題、実践的問題、社会的問題、性的問題……つまりセックスパートナーの有無に関する問題で、全員が公正にセックスパートナーが得られるかどうかという問題は大きく、そこで殴り合いの大喧嘩になってその日のうちに解散……ということも多いそうだ。「痴情のもつれ」は怖いって話だ。「食いもんの恨みは怖い」と並んで怖いのが「痴情のもつれ」と考えていてもいいくらいだ。
 それで結局、その後も残ったたった1つの例というのが「宗教的結束を持ったコミューン」だったという。

 日本にも実はコミューンというものがあって、1953年に設立された「幸福ヤマギシ会」である。アメリカで作られたヒッピー達のコミューンと同じく、農村を経営する共同体で、財産や子供はコミューン内で共有された。
 ヤマギシ会の実態がなんであるか、というとカルト教団である。やってきた人を洗脳し、無理矢理でも構成員にする。女性は共有物としてかわるがわる男性とセックスすることになり、子供が生まれて、ある程度育ったら閉じ込めて絶食のうえ洗脳。そういうわけでヤマギシ会の子供はみんな痩せ細っているという。
 このヤマギシ会の現在でも存続している。これもある意味「宗教的結びつきによるコミューン」の一つといえる。

 どうやら「宗教的結びつき」は強いようであるが、では宗教とはなんであるか、を考えていこう。「宗教」といっても成立や理念はそれぞれで、一つの考え方で定義していくことは非常に難しい。例えばピラミッド建設という巨大公共事業を思い立ったとして、どうやって労働者を働かせるか……そうだ宗教だ! という経緯ではない。人の死があって落ち込んでいる仲間を慰めるために作り出されたのが宗教……というわけでもない。宗教とはそういう目的によって生み出されたのではなく、目的外のところから副産物として生まれ、徐々に私たちの中心になっていったものであろうと考えられる。
 宗教の起源は、人類の「思考機能」にあるという考え方がある。人間の脳には、原因と主体と意図を推定する能力があり、これらは世代を経て磨かれていった。
 野生動物はあらかじめ備えられている能力で……例えば鋭い聴覚で獲物を察知したり、また電気を察知する能力を持った動物もいて、わずかな電気信号で天敵の接近を察知したりする。ところが人類はそういった能力は持っていない。肉体・能力的には自然界最弱の存在が人類である。人類に与えられていたのはこうした際だった能力ではなく、異常発達した「脳」とそれによる推論する能力だった。
 人間は推論能力と記憶の蓄積によって生き抜いてきたわけだが、しかし記憶力は不完全で、その蓄積は世代とともに別のものへと変質する傾向があった。たとえば「食べてはいけないもの」は「タブー・禁忌」である、というふうに。
 それに、人類の推論はたびたび間違えて継承される。例えば天体の動きは観察可能な範囲で理屈を説明しなければならないから、太陽は神々が日々戦車で駆け抜けている……という説明をする。その説明で矛盾がなければ信じられていく。
 とりわけ人間が手に負えない自然の仕組みや活動は、「神」にまつわるもの、とされることが多かった。
 もしも農耕で不作があったとき、その年は自分たちの中で何か間違いがあったのではないか、と考える。その考えられたもののなかの一つが、タブーになっていく。そのタブーを守って1年を過ごしたら、翌年豊作になった……ではこのタブーは正しいのだ、という感じに信じられ、継承されていく。こういったタブーが積み重なっていくうちに、その社会における「倫理観」が作られていく。

 ここで宗教の主たる役割について挙げてみよう。
①事象についての超自然的な説明
②儀式によって不安を解消する
③苦悩や死に対する恐怖心を癒やす
④制度化された組織
⑤政治的服従の説示
⑥同胞の他者への寛容
⑦異教徒に対する戦闘行為の正当化
 かつての時代では、自然界の「わからないもの」というものは裏で神々がいて動かしていると考えられていた。かつての世界では「神々」という説明で矛盾することもなかったので、信じられていた。
 宗教的儀式は人々の不安を解消し、精神を律する効能があった。昔の話だが、イタズラばかりしていた少年がお寺に連れて行かれて、僧侶に「喝」をもらったらその日のうちにイタズラをしなくなった……なんてお話がある。これも宗教が効果を発揮すると信じられている社会の中でのできごとである。
 宗教とは先人が何年も考えて正しいことを選び取ったものの集積である。かつての時代では小さな失敗が死に繋がることがあり、そういった行為はタブーとなっていった。そういうものが積み上がっていき、さらに世界の成り立ちに関する説明とも合体し、一つの世界観を構築し、「宗教」という形を取るようになっていった。宗教家とは「世界はどのように構築されているのか」を説明する人のことであった。
 ところがこれらの宗教の役割は現代においてはほとんど効果を発揮しなくなった。自然の仕組みは科学的に解明されているので、今の時代に「神々によるものである」なんて言っても誰も信じない。宗教の中でタブーとされるものの一つ一つは、現代の科学ではまったく無意味か、あるいは「科学的な危険性」というもっと説得力のある回答がなされている。宗教という曖昧なものを持ち出す必要はなくなった。他者に対する振る舞いや社会の中での振る舞いかたも宗教が律していたのだが、これも社会そのものが人間を教育していくようになったので、やはり宗教は必要がなくなっていった。
 宗教の名の下の戦争はヨーロッパ中世の時代には多くあって、実は今の時代でもまだ残されているが、今では多くの戦争は経済・産業上の問題によって発生する。あまり宗教が戦争の中における「正義」は保障されなくなっていった。

 ところが科学全盛となった今の時代であっても、人はあらゆるものに対して理性的に科学を信奉して生きていけるか……というとそうではなかった。
 例えば胃癌になったとしよう。それで医者から、
「あなたが胃癌になった原因はPX。R2遺伝子の配列の211番目に遺伝的な変異があったからです」
 と言われて、「わかった」という人はどれだけいるだろう。説明が正しくても、納得できるかどうかは別問題。
 納得できるか、という心情的問題は別問題だ。もしも科学的な説明をなされて理解できたとしても、納得できるかどうかも別問題。もしもなんでも理性的に物事を白黒付けられるというなら、受験生はわざわざ天満宮にいって手を合わせたりはしない。

 世の中には納得のいかないことだらけである。どうしようもない理不尽に遭うことは多い。「なんで私だけ……」みたいに思うことは多いだろう。
 そういう心情的な救いを、今の時代になっても宗教が与えている。今でも宗教的な教えは、それに従って行動していると生活がより良くなっていくような印象を与える。そういう人生を保障するのが宗教の役割であった。宗教は「規範」の源泉であった。

 が、日本においてはここが問題で、理不尽な目に遭った、解消されない悩みがある……という宗教的な救いが欲しいときに、神道はほとんど効果を発揮してくれない。そこで出てくるのが「カルト教団」ということになってしまう。
 ここが日本人の弱いところだ。普段から無宗教として生きているから、解決不能な困難にぶち当たってしまったとき、救いとして求めるのがカルト教団になってしまう。日本人は近くにいる隣人や友人が困難にぶつかっているときに、助けようとする人はほぼいない。それどころか「自己責任だ」といって切り捨てる傾向にある。「自己責任だ」……つまり関わりたくない、干渉したくない――事なかれ主義の日本人的性質を言葉として示したものが「自己責任」といえる。
 多くの日本人は困難を抱えたくない、楽に生きたい、だから面倒があったらみんな切り捨てていく。それでうまくいった……という人たちは社会の上辺へ進めるが、取り残されていった人たちの怨嗟で下はドロドロになっていく。そういうドロドロした怨嗟に蓋をして、平和に生きていきましょう……これが今時の日本人の建前だ。だがそんな建前の世界なんてうまくいくわけがない。
 こうして、困難に陥った人たちが怪しげなカルト教団に陥ってしまう隙を与えていく。人間の精神はそこまで強く作られていない。たまたま人生がうまくいったという人たちは、人間の弱さなど知らない。そうした問題に目をそらしつづける限り、日本におけるカルト教団の問題は消えてなくならないだろう。

 とずいぶん脱線を繰り広げてしまったが、宗教的結びつきは強い。科学的な説明は難解で正しくても理解できても納得できるかどうかは別問題。そういう心理的な納得感を与えるのは宗教のほうだ。宗教のほうが科学より私たちの社会に寄り添ってきたので、相応の実績はある。こうした宗教的結びつきを持ったコミュニティのほうが、世俗的結びつきのコミュニティのほうが圧倒的に強い。どんなに科学や理性が発達した未来であっても、世俗的結びつきが宗教的結びつきの強さを超えることはないのだろう。

 こんなふうにコミューンの難しさについて考えていくと、どうして人は血縁にこだわるのか。血縁の結びつきにこだわるのか。日本は国家社会だが、最小単位は家族を中心とする小規模血縁集団だ。この小規模血縁集団がいくつもいくつも集積したものが国家である。
 どうして血縁による結びつきの社会がここまで尊重されるのか……というと話は簡単で、それだけの「実績」があるからだ。人は原始の時代から血縁によるまとまりのコミュニティを作ってきた。現代、科学的理性が発達した現代であっても、相変わらず私たちは「血縁」があらゆるものの基本と考える。なぜなのか、というと繰り返すがそれだけの実績と信頼があるからだ。

 新たな家族を作るという場合、血縁と血縁との結びつきを作ろうというとき、現代人の私たちは結婚の前に「恋愛」をする。なぜ恋愛をするのか……というと結婚後の生活がうまく行くかどうかの確度を上げるためである。思想的に合うかどうか、生活観が合うかどうか、体質が合うかどうか……こういうもののチェックを恋愛の過程で行う。
 ところが結婚するとうまく行かない場合が多い。あれだけ長期間かけて恋愛をして確度をあげていったのにも関わらず、結婚した途端、破綻するカップルは昔から多い。
 その一方で、「見合い」というものがある。お互いの素性や思想などは知らず、「見合い」という場で会って、条件が合えば結婚。これがうまく行く場合もある。もちろん失敗する場合もある。先進的な意識の若者は見合いを忌避する傾向にあるが、うまくいく場合はうまくいく。
 結婚というのは理屈ではないのだ。合うときは合うし、合わないときは合わない。
 なんにしても結婚して子供が生まれたら、新しい小規模血縁集団の成立だ。

 どうして人は他人同士集まって暮らさないのだろうか……というとうまくいった例が歴史を通じてほとんどないからだ。なぜ血縁にそこまでこだわるのかというと、信頼と実績があるからだ。恋愛よりも血縁はさらに信頼ができる。
 そう考えると、私が考えたような「友情」で結びつくコミューンの構想は、理想はよくても実際問題うまくいくかどうかはわからない。というか、無理かも知れない。なにしろアメリカで実験的に作られて、200あるコミューンのうち残ったのはたったの1つしかないのだから。私はもう少し慎重に考えるべきだ。
 という以前に、私は友人が1人もいないので、考えたところでコミューンは実現しないのだけど。

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