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【ネーム原稿】ムーンクリエイター 前編【解説付き】

前回

まず、この記事を読むに当たって注意。

最初に漫画本編をダーッと読んだ方がいいです。
最初から解説も一緒に読むと眠くなります。

ここに掲載しているのは「ネーム原稿」です。

ネーム原稿を掲載しても、プロでない限りなにが書かれているのかわからないかと思うけど……。
もしもこの原稿を完成状態まで仕上げたいという奇特な人は声を掛けてください。「え……」とドン引きしますけど対応します。

 1ページ目……最初のページからいきなりゴチャゴチャさせるのはどうかと思うけど、どうしても最初の見開きページに「AIタブレットの商品説明」を入れなければならなかったのでこういう構成になった。キャラクター紹介よりも先に、時代とAIタブレットの紹介から始めている……というところでこの二つが重要ですよ……ということを示しておきたかった。
 その最初のカット。千里カノンちゃんが森の中にデッキチェアを置いて、優雅にイラストを描いている。
 背景になっている森は幹が細い。まだ若い森で、鬱蒼としていないから光が入りやすくなっている。ただ、書き終えてから気付いたけど、入射光と影の向きが逆。やっちまったなぁ。
 1コマ目の解説から始めよう。
 1コマ目、サイドテーブルにAIタブレットが置かれている。表面には黒のラインが一つ引かれているが、これは現代のスケッチブックに模してデザインされているから。パッと見も重さも現代のスケッチブックくらいとそう変わらない。サイズはB4。
 AIタブレットのお値段は120万円。これで一番安いやつ。高くない? そう、高いんだ。最初にわざわざお値段を書いている……ということにしばらく引っ掛かってほしい。この理由は後ほど。
 2ページ目に入って、作画風景に入っていく。絵を描いていると、タブレットの「外側」に画面が次々と現れるようになっている。
 未来の世界では“ディスプレイの内側”ではなく、“外側”に立体オブジェクトが現れるようになる。ウインドウを開いたとき、作業中の画面に被る……ということもない。フィルターを開いて効果を調節しているときもメイン画面に被さって見づらい……ということもない。作画作業に必要なパレットやナビゲーターもディスプレイの外側に出るようになっている。もちろん超音波で直感が生成されているので、「押しにくい」ということもない。
 これらの技術は「未来の超テクノロジー」ではなく、立体画像も超音波による触感生成も現代すでにあるもの。30年後にはこれくらい進歩しているでしょう……という見込みでこういうふうに描かれている。どうやってディスプレイの外側に立体画像を生成するのかわからんけど。
 で、描いているとAIが作業中の画面から「1手先の仕上がりイメージ」を想像してどんどん上段に生成していく。それをちょんちょんと摘まんで作業的な部分をどんどんスキップしていく。
 2ページ4コマ。「うーん、体の角度を変えちゃおうか」
 もちろん描いている絵は2次元のドローイング。AIが作業中の絵から立体構造を予測して、お手軽に体の向き、角度を変更できる。アオリにしたいな……と思ったらすぐに調節できるし、手や足の角度を調節することもできる。人物ではなくても、風景画や宇宙戦艦を描いていても、AIが立体構造を予測して、向きを自由自在に変更できる。
 2ページ5コマ。「今日はどうしようかな…」
 とこの段階に来てようやく「絵柄をどうしようか」と考えている。このカット、ウインドウをよーく見ると「様式」と描かれているようだけど、ちょっと変。実は中国語。書き間違えじゃないんだよ。中国語として描かれている。実はこのAIタブレット、中華製。この辺りの説明は後ほど入るので、今はちょっとした引っ掛かりとして感じておこう。
 2ページ6コマ。「お、この人のスタイルいいじゃん」
 絵が仕上がりに近付いたら「スタイル選択」で「絵柄」を一気に変更してしまう。これで少年漫画風、少女漫画風、劇画タッチ……この時代に故人になっている漫画家やイラストレーターの《画風》がアーカイブとして入っているので、そこから好きなように選べる。2050年代は「自分の絵柄」なんて持つ必要はなく、その時々の気分で、あるいは作品の傾向に合わせて、アーカイブされている画風から好きなように選ぶことができる。
 こんなふうに面倒な作業を一気にスキップして、10分ほどでしっかりしたイラストが1枚仕上がる。これが2050年代の絵の描き方。

 絵を書き終える頃、天使が朝食を運んでくる。足元の謎装置に手を伸ばすと……周りの風景が森から殺風景なベランダに変わった。天使はドローンに。
 この謎装置、「ハウスプロジェクター」というもの。ごく最近、1つの凸レンズで4方の壁、天井に映像を映す……というプロジェクターが出てきたが、あれの発展系。現代のプロジェクターは当たり前だけど「壁」がないと画像を照射することができない。凸型レンズプロジェクターは運用方法としては家具のない部屋に星空や砂漠の画像を映し出す……くらいのことしかできない。
 しかしこの時代はプロジェクターが進歩していて、特定空間に光を飛ばし、その光を留め置くことができる。これができるので空間上にテレビモニターを浮かび上がらせることができる。この技術があるので、タブレットの周囲に小画面を一杯浮かび上がらせることができる。
 1ページ目、2ページ目には広い森の風景が映し出されていたけど、あの風景は実は千里カノンの周囲1メートル範囲に照射しているだけの風景。
 どういう原理なのか不明だけど。そこは技術者が考えてね。
 一つ引っ掛かることは、この装置、屋外で使うと非常に危険。本来壁のあるところに奥行きが作れるし、穴があるところに壁を作れてしまう。屋外で使うのは危険だし、車道で使ったら事故は確実……。それを考えると、「家の外ではロックがかかる」みたいなセーフティが必要になるはず。
 4ページ目。タイトルは『ムーンクリエイター ー2050年の漫画学校ー』。
 元々考えていたタイトルは『サトリクリエイター』。また仏教が出てきてしまった。それに語呂も悪い。「仏教のお話し」と思われるのも違うな……ということで仏教色を薄めて『ムーンクリエイター』となった。お月様と仏陀は関連が深いですからね。これなら余程深読みする人でない限り「仏教に関係があるタイトル」とは気付かんでしょう。
 ではなぜ「悟り」をタイトルに掲げようとしたのか? 「悟り」は現代社会でもっとも意味を間違われて使われている言葉の一つ。例えば「諦める」ことを「悟り」とか言ったりする。「さとり世代」とかね。あれは間違えた使い方で、本来「悟り」とは、理解の段階が一つ上がること……という意味。「アウフヘーベン」に近い。仏教には理解の段階があって、その段階が最高まで到達することを「悟りを開く」という。
 この意味がこの作品のテーマに相応しいのだけど、仏教のお話しではないので、雰囲気重視のタイトル『ムーンクリエイター』とすることにした。

 5ページ目。カノンちゃんがAIグラスを装着して、アパートから外に出ている。
 場所はどこかというと、神戸市元町あたり。元町のちょっと古い景観が残る坂道にカノンちゃんが住んでいる……ということにした。
 なぜカノンちゃんがそんなところに住んでいるのか? 2050年の近未来らしくないのではないか? 確かにそうかも知れないけど、今から30年後の未来とはいえ、1人暮らしを始めたばかりの中流階級18歳の女の子が、いきなりタワーマンションに住んでいて、「空飛ぶ自動運転車」に乗っているとはとても思えなかったんだ。それに人間味ある下町の風情がこの時代にもまだ残っていることを示したかった。
 他にも「30年後の未来なのに現代とあまり景観が変わっていない」はっきりした理由があるのだけど……それは後ほど作品の中で示されるので、その時に。
 6ページ目からは「AIグラス」の商品説明シーンに入っていく。AIグラスにはリストバンドとリンクしていて、そこを操作するとAIグラスが起動する……という仕組みになっている。リストバンドがマウスパット、決定/キャンセルキーを兼ねている。
 そのAIグラス起動画面。変な文字が浮かび上がっているよね。これも中国語で「起動」。AIグラスも実は中華製。その理由はまた後でね。
 3コマ目にカノンちゃんが見ている風景が描かれている。この場面で《歩行アシスト》が起動されている。人物が太いフチ取り線で囲まれていて、矢印で進むべき方向をずっと示してくれている。もし近くにいる人にぶつかりそうになったら「カンカンカン」と警告音が鳴るんでしょうな。
 注意書きに「人物、背景がぼんやりしている」と指示書きがあるのは、カノンちゃんが周りの人物や背景をぼんやり見ているから。右端の動画画面のみくっきりしているのは、カノンちゃんの注意がそこに集中している……ということ。
 これがカノンちゃんが見ている風景。こんな状態でも事故が起きないのは、《歩行アシスト》が優秀だから。《歩行アシスト》があまりにも優秀なので、2050年代の人々は動画を見ながら歩く……ということが基本スタイルになっている。

 突然「停下」の文字。動画も一時停止になっている。これは中国語で「止まれ」。センサーが急速に接近している自転車を察知したので、警告が出てきた……ということ。これが《歩行アシスト》の機能なので、非常に安全。《歩行アシスト》が動いていれば事故ることはない……そういう安心感があるから、動画を見ながらでも安全に歩いていられる。
 7ページ下の場所は西元町メルカロード。現地取材に行けなかったので、グーグルストリートビューで仮想ロケハンをやって描いた。ここは雰囲気がとても良かったので、すぐに採用になった場面。
 8ページ目、花隈駅に入る。
 元町に住んでいるなら、元町駅に入るのでは……。と、地元民は思うだろう。うん、そうなんだ。でもストリートビューでいくら元町駅を探しても見つからなかったんだ。さんざん探しても見つからなかったので、「仕方ない、花隈駅にしよう」ということになった。でも花隈駅にすると大きな問題が……。目的地である三宮駅まで1駅なんだよね。1駅だったら歩くよね、普通……。この辺りの描写、余力があったら後で修正します。
 8ページ2コマ。改札口に手を近付けただけで「ピ」となっている。これはなんなのか? 実は手首の表側に「IDチップ」が入っている。このIDチップに「口座番号」も入っているので、電車に乗るときはここから電車賃が引き落とされる。2050年代の人は切符も買わないし、定期券も買わない。
 パスワード類も手首のIDチップが代わりをしてくれるので、2050年代の人は「あれ? パスワードなんだっけ?」となることもない。しかもパスワードは15分おきに変更されるので、よからぬ人がパスワードを解析して口座番号を盗もうとしても、15分後にはパスワードが変更になるので、何も盗むことができない。その代わりに、アカウントが必要なサイトにはそのつどパスワードが必要になるけど、リストバンドが手首のIDチップを読み込んでくれるので、パスワード入力画面をスキップしてあらゆるサイトに入れるようになっている。なので「その都度パスワードが必要」と言われてもそこにストレスを感じることはない。
 こういう状態になっているので、犯罪者がパスワードを盗もうと思ったら、手首を切り落として持ち去らねばならない。それも余程のことがないと起きない事件なので、2050年代はネット周りは非常に安全な世界になっている。
 カノンちゃんは移動中、ずっとAIグラスで動画を見ていて、ラジオ感覚で音声を聞いている。読ませる気のない小さい文字だよね。うん、これは読む必要のないところ。読みたい人だけ読みな……って場面。
 頑張って読んでみると、「昔の妖精は小さくもなかったし羽も生えてなかった……由来を知ることは大事」って語っている。これは何を意味しているのかというと、カノンちゃんはAIタブレットを使って絵を描いているけれど、「この人のスタイルいいね」ってその元の人を知らない。それに対して「由来を知ることは大事ですよ」とVTuberのモモちゃんは諭すように語っている。でもカノンちゃんはこの大事なメッセージを聞き流している……という場面。この辺りは気がつかなくてもいいディテール。

 9ページ目。電車に乗ります。三宮駅行きの電車だから、紫の阪急電鉄でしょうね。地元民しかわからん話してるけど。
 千里カノンがちらっと電車の様子を見る。すると電車に乗っている人たちみんなAIグラスで何かしらの動画を見ている。こちらから動画を探す必要はなく、AIがその人の好みに合わせた動画をエンドレスで流してくれる。《歩行アシスト》があるので道に迷ったり遅刻したりすることもないし、側で歩いている人にぶつかったりもしない。
「今の人に退屈な時間はない。AIがどんなときも私たちに安全に娯楽を途切れることなく供給してくれる」
 こういった状態が2050年代の進歩的な生活スタイル……とこの時代の人々は信じている。
 10ページ1コマ。阪急三宮で下りたところ。奥にセンタープラザが見えている。
 3コマ目、駅を出てすぐにところにあるアーケード。左手にはセンタープラザがある場所。場所はこちら↓


 11ページ、前ページからそのまま歩いてきて、センタープラザ前の横断歩道までやってくる。横断歩道手前には「通行禁止」の文字。ハウスプロジェクターのようなものがあるんだったら、道路上にもこういう交通標識が立体オブジェクトとして浮かび上がったりするんでしょう。この漫画でSFっぽいところってここだけだね。
 そうやって信号待ちをしていると、後ろの方で何やら騒がしい……。千里カノンが振り向く。男の娘・飾璃アヤナが不良たちに連れて行かれる様子が見える。
 でも信号待ちしている人たちは、少年が不良に連れて行かれるのに気付くこともない。なぜならみんなAIグラスで動画を見ているから。気付いていたとしても、「AIグラスで動画を見ていたから気付かなかった」という言い訳もできる。これが2050年代の人々の無関心。
 でもカノンちゃんだけが気付いて振り向いて、気持ちが引っ張られてしまう……。一度は「私には関係ない」とみんなと一緒に横断歩道を渡ろうとするが……。
 しかし立ち止まってしまう。
 ちなみに場所はこちら↓

 13ページ。
 男の娘アヤナ君が不良たちから暴力をふるわれています。嫌な場面ですよね。こういうシーン、描くのも嫌です。
 場所は三宮駅を下りてすぐにところにある路地。地元民だったらすぐに「ああ、あそこ」とピンと来る場所。あそこが景観として「理想的な路地」なんだ。
 でも実はあの場所、なかなか賑わった場所でもあって、通学時間くらいの朝だと閑散としているけど、昼頃になると飲食店でひしめく場所になる。今回、取材に行ったときはテラス席にズラーッとコタツが並べてあって、みんな鍋を食べていた。私も食べてみたかったけれど、お金もないし、1人で入るのもなぁ……という感じがあったので……。
 こちらがロケハン写真↓

 ところでアヤナ君はなんで不良たちに暴力をふるわれているのでしょうか? 台詞を見ると執拗に「お前は男か、女か」と詰問されている。これはどういう意味なのか? 未来世界のジェンダー問題はこれからジワジワと掘り下げていく予定なので、詳しい解説は後ほど。

 15ページ、カノンちゃんが助けに入ります。でもカノンちゃんは「千手観音」をモチーフにしているキャラクターだとはいえ、鉄壁の精神で誰も彼も救えるというわけではありません。普通の女の子です。不良たちは怖いです。ビビってます。でも、なけなしの勇気を振り絞って助けに入る……ここでカノンちゃん最初の「変化」が現されている。その最初の切っ掛けをアヤナ君のために使う……というところで2人の将来の関係性が示唆されている。主人公とヒロインとの関係が始まる切っ掛けとなるシーンだ。
 あ、主人公は千里カノンで、ヒロインは飾璃アヤナね。逆じゃないよ。ヒロインは飾璃アヤナです。

 すっかり服がボロボロになったアヤナ君。もとい、アヤナちゃんを連れて女子トイレに入っていく。なぜ女子トイレ……女子トイレの中だったら、不良たちも入ってこられないでしょ。女子トイレは女子にとっての安全地帯。
「まずいよ、ここ女子トイレ」
「大丈夫。誰もあんたの顔を見て男だって思わないわよ」
 というやり取りがある。
 法律的にはそうだけど、アヤナちゃんみたいな顔の子が男子トイレに入ったら、それはそれで一騒ぎありそう……。

 描いているのは自分だけど、「変なシーンだなぁ」という気がしてしまう。アヤナちゃんは見た目が男の子っぽくなく、描いているとますます「男だ」という意識が薄れていく。カノンちゃんと並んで立つと、カノンちゃんのほうが体格がいいし、そのカノンちゃんに「もうどっちなの、男らしく決めて」とか言われちゃうし……。
 変なシーン描いちゃったなぁ……。面白がってるけど。
 でも後のシーンを見てわかるように、アヤナちゃんはばっちり“男の子”なんだよ。その辺りは後のシーンで。

 21ページ。カノンちゃんとアヤナちゃんが通っている学校『マンガアカデミー』にやってくる。
 場所はセンタープラザ4階……あれ? そこは駐車場では?
 うん、そうなの。取材がてら、物語に使えそうなちょうどいい空きスペースないかな……と歩き回ったけど、当たり前だけどどこも店舗が入っていた。現実世界にお店が入っている場所を物語の舞台にしたら、後々なにかと問題が出る。クレームになることもあるので、現代では駐車場になっている場所が、2050年代には学校になっている……ということにした。もしかしたら建物所有者からクレームが来る可能性もあるけど……。
 本当はセンタープラザには『ヒューマンアカデミー神戸校』があるのだけど、そこから許可がもらえているわけではないので……。もしも許可がもらえたら、場所をそこに移すのだけど。
 もとい。
 まず『マンガアカデミー』の名前。「学園」を「アカデミー」とするなら、漫画も英語読みして「コミック」にすべきじゃないの? と、思われそうだけど、「漫画」の英語翻訳を「コミック」としているのは実は日本だけ。海外では「MANGA」と表記されている。「MANGA」と「COMIC」は別のジャンルとして認識されている。「カートゥーン」と「バンドデシネ」も別ジャンル。日本発の漫画、あるいは日本風に描かれた作品を「MANGA」というのが世界の常識。それに合わせて「マンガアカデミー」とした。
 カノンちゃんとアヤナちゃんがマンガアカデミーの中へと入っていく。入り口の手首のIDを通さないと入れない仕組みになっている。不審者が入ることはないし、「学生書(証明書)忘れた!」という心配もない。安全なシステムだ。
 4コマ。教室に入っていく。教室正面にはスクリーンが設置されている。これはPCとも繋がっていて、PC画面を映し出すこともできるし、さらにスクリーンに直に書き込みもできる。未来的な装置。
 5コマ。カノンちゃんの友達、樫月ナズナちゃん登場!
 なぜ広島弁? ナズナちゃんはキャラクターとしての第1の役割は「普遍的な主人公の友達キャラ」で、ただの「友達キャラ」でしかないから、やや印象が薄い感覚があった。それでキャラ立てとして広島弁を喋らせてみよう……ということになった。
 ナズナちゃんのもう一つの役割は「一般人の感覚を発言すること」。カノンちゃんの感性って、実はちょっと変わっているんだ。まず、男の娘が不良に絡まれても、2050年代の人は誰も助けないのが普通。みんなAIグラスに集中しているので、何が起きても見て見ぬフリをする。でも助けに入っちゃった……という時点でカノンちゃんは実は変わった存在。
 こんなカノンちゃんの視点でお話しが進むと、カノンちゃんの行動が当たり前だと読者は思ってしまう。そこでナズナちゃんはこの時代においてごく一般的なリアクションをする……という役割を持たせている。
 ナズナはアヤナちゃんに対して、嫌悪感たっぷりに「ゲッ 男女! なんでそがいなのと一緒におるんよ」「ねき(近く)に寄んないで!」とかなり厳しく言う。そう、男の娘は「疎まれる存在」なのだ。
 22ページ6コマ。
「アンタってゲイなの?」
 こう聞くのはNGだよね。でも大事なポイントだから台詞にしている。アヤナちゃんは「トランスジェンダー」でも「ゲイ」でもない。でも女の子の格好をしている。女の子の格好をする理由、「エクスキューズ」がない。現代のLGBTの思想を見ると「トランスジェンダーだったら女の子の格好をするのは仕方ないよね」「ゲイだったら仕方ないよね」という考え方だけど、アヤナちゃんはそうではない。「女の子の格好が好きだから、女の子の格好をしている」という価値意識で女装している。中身はばっちり男の子。
 2050年代だからLGBT思想は浸透していて、ゲイやレズに対する差別の感覚はほとんどないんだ。でも男の娘のアヤナちゃんはそこから外れる存在。この辺りのジェンダー問題は後ほど深掘りするので、またその時に。

 漫画学校の授業風景に入ります。生徒がステージの上に立ち、みんなで囲んで写生する……こういう学校ではよくあるデッサン授業。私も学生の頃にやりました。生徒がシーツのようなものを身につけているのも、実際のデッサン授業にあるもの。これで布の皺の形、影の形を読み取って描写する……というのがこういう授業の課題。
 こういう授業でも、ほとんどの生徒はAIタブレットを使用する。5コマ目、はっきりと中国語だとわかる文字で書かれている。「作画補助→リアルクロッキー」と書かれている。
 これを選択すると、AIグラスとリンクして補助線が浮かび上がる。この補助線は頭を動かしてもその位置に固定される。この補助線を見ながら、それぞれの枠線に絵を合わせて描く。こういう機能があるので、2050年代の画学生は鉛筆を立てて、モデルのサイズ感を図ったりする必要がない。
 私も画学生だった頃はこの方法で一杯模写したものです。ゴッホは補助線をひいたデカい道具を屋外に持ち出して、それを覗き込みながら絵を描いていたとか。
 で、AIの機能で作業的な部分がどんどんスキップできるので、たった10分ほどの間で写実的なデッサンが1枚描けてしまう。
 しかし……3コマ目。みんながAIグラスとAIタブレットで絵を描いているなか、アヤナちゃんだけが手書き。それを見て、「大変そう」という感想を持つカノンちゃん。ロークラス……つまり所得の低い人はAIタブレットを持っていない。というか、買うことができない。
 最初に「AIタブレット120万円」というところに引っ掛かって欲しかった理由がこれ。あんな高いもの、みんながみんな買えるわけないんだ。アヤナちゃんのようなロークラス/低所得者の子はAIタブレットを買えないまま、学校に来てしまう。
 ただ、よくよく考えたらアヤナちゃんがロークラス/低所得者……という説明を本編中にしたなかったよな。そもそも「ミドルクラス、ロークラスってなに?」という説明もしていなかった。このあたり、脚本が整理しきれてなかったところ。普通に読んでるだけだと、意味がわからん描写になっちまったな……。

 ここで教室が分かれます。アヤナちゃんは「少数教室」というところへ行く。カノンちゃんは「ロークラス教室」と思わず言ってしまって「しまった」という顔をする。解説が入っているけど、「ロークラス教室」は「貧乏人教室」という意味になるので、差別的なニュアンスとなる……ってこれ、解説を入れずに本編を読んでいるだけでわかるように書かなくちゃいけないところだったんだけど……こういうところで脚本が整理しきれていない。描いている最中に、「あ、これだと意味がわからんか」と気付いて解説を入れたのだけど……こういうやり方はスマートじゃない。
 ここの場面、カノンちゃんは「ロークラス教室」という言い方を差別的だと思っていなかった。普段そう言っているから、いつものノリで言ってしまった。で、本人に対して言ったとき、「気まずい」ということに気付いた。そこでやっと「本人に対して言うべきことじゃなかったな……」と気付いた場面。
 アヤナちゃんはカノンちゃんの表情に気付いて、気を遣って微笑んで返している。アヤナちゃんはそう言われるの、たいして気にしてないんだ。
 6コマ
「ロークラス教室よ、だっさ!」
「デッサンなんか無意味なのにね。AI使えっつーの」
 何気なく通り過ぎた生徒に罵倒される。こっちのほうがこの時代の人々による“普通”の感覚。デッサン云々はもはやAIが自動で生成してくれる、というのが当たり前なので、そんなもん訓練しても意味がないでしょ……と画学生は考えている。いまだにAIを使えない貧乏な生徒は劣等生、差別の対象となっている。
 アヤナちゃんはこういうのを言われると嫌な気持ちになる。
 26ページ。少数教室の中に入っていく。
 少数教室で「しずのちゃん」という女の子と会う。ナチュラルに接しているけど、これはしずのちゃんが別のクラスなので、アヤナちゃんが男の娘ということに気付いていないから。女の子だと思い込んで接している。
 少数教室にいるのは5人だけ。この5人だけがAIタブレットを買えないロークラス《低所得者》。2050年代の漫画学校はAIタブレットがあることを前提に授業をする。まずいって、AIタブレットも買えないような生徒は、入学資金も払えないはず……。でも中にはAIタブレットを入手することなく入学してくる猛者みたいな生徒がいるので、そういう生徒向けの授業というものをやっている。
 授業内容は「パースの取り方」……AI時代ではそんな技術、習得する必要も考える必要もない。完全にロストテクノロジーの技術。
 授業風景はどうなっているのかというと……。AIが使えない子なんて、業界的に不要な存在。本人たちもわかっているので、やる気のある生徒はほとんどいない。アヤナとしずの以外の生徒は、お喋りしたりゲームをやってたり……まったく授業と向き合っていない。
 そういう授業だから、先生も学校に入りたての若い先生が担当する習わしになっている。業界的にもプラスにならない人材を育てているわけだから、要するに「押しつけられている」という状態。少数教室を若い先生が担当するのは、絵描きの基礎を自分で再履修する……くらいの意味はあるけど。
 私も専門学校に行っていたからこういう空気を知っているのだけど、専門学校には実際に「遊びに来ている」人たちが結構いる。学校には来るけど、先生の話を聞かずお喋りしたり、ウンコの落書きをえんえん描いていたり……。専門学校の学費ってめっちゃ高いのに、信じられないけどそういう生徒は普遍的にいる。まだ働きたくないし、勉強して大学入試もやりたくないから、それで専門学校に来た……。そういう子って実は結構いるんだ。
 当然ながら、2050年代にもそういう子はいる。親の苦労を考えずに、ただモラトリアムな期間を作りたいがために専門学校に来る……そういう生徒は2050年代になってもいる。しかも勉強してもプロになる見込みのない少数教室なので、真面目に授業を受けている子も少ない……。今年はアヤナちゃんとしずのちゃんの2人がいるけど、年によっては全滅……ということもあるでしょう。
 ただロークラスの説明、順序逆にしちゃったなぁ……。解説を入れるタイミングもここじゃないでしょうに。脚本がきちんと整理しきれてないから、こういう変な構成になる。

 ついに道こずえ先生登場!
 特に解説することがないので、余談話。
 漫画学校の教室だけど、やけに女子が多い気がする……。実際は男子生徒もいるのだけど、ごく少数。ほとんど女子。
 これはどういうことかというと……実際、漫画やアニメーターの学校に女生徒の割合は増えているんだそうだ。「優秀な生徒」あるいは「真面目な生徒」となるとほとんど女子生徒ばっかり。男子生徒は「なにしに来ているんだろうか」……というタイプが多いんだそうだ。
 これも時代の変化。ネットでは「漫画やアニメなんてどーせ全部オッサンが作ってるんだろ」という言い方をする人は多いけど、最近のアニメのクレジットを見ると半分くらいが女性。少しずつ漫画やアニメが「女性職場」に変わりつつある。
(2050年頃も「アニメ評論家様」は「漫画やアニメなんてどーせ全部オッサンが作っているんだろう」と言っているんでしょうね、きっと)
 2050年代になると、もっと女子生徒率が高くなるんじゃない? ……そういう予想もあって、女性生徒率を高くしている。
 決して女の子が描きたかったから……じゃないのよ?
 では男性はどういうところにいるのか? というとだいたい一般職。この辺り、後ほど掘り下げると思うので、その時に話をしよう。

 道こずえ先生は「AIを使わない授業」を宣言する。
 しかし2050年代はAIで絵を描くのが当たり前の時代。「AIなしで絵を描けなんて信じられない!」「老害!」とまで言われる。アメリカだったら「虐待だ」とか言われるんでしょうね。今だったら「AIなしで絵を描け」で「虐待だ」とか言われる心配はないけど、2050年代になると「子供への虐待描写」になる恐れがあるので、物語の中でもこういう表現はダメになっているのかも知れない。こういう漫画が描けるのも、今のうち……。
 30ページ。道こずえ先生が何を配っているのかというと、「鉛筆」。この時代には鉛筆を持っていない生徒がほとんど。
「紙と鉛筆なんて原始人の道具」……風見ひなたちゃんはみんなが思っていても言えないことを代表して発言する……というキャラクターなのではっきり言っちゃうけど、実はみんなが思っていること。「紙と鉛筆で絵を描けなんてありえないわー。将来なんの役に立たん技術だわー」ってみんな思っている。これが2050年代の感覚。

 雄馬タケル君再登場。あーこいつ嫌い。こいつが登場する場面になると、画面から力が抜ける。
 なんでこういう登場の仕方をするのかというと……まずみんな憶えてないでしょ。数ページ前にアヤナちゃんを苛めていたジャイアン的な奴なんて、印象に残ってないでしょ。私も映画とか見ていて、こういうジャイアン的なやつは嫌いだから顔も覚えない。みんなも憶えてないでしょう……ということで、わざと目立つ登場のさせ方をした。
 そう、こいつも漫画学校の生徒なんだよ。専門学校に遊びに来ている奴……の典型的タイプ。
 でも実は、後々タケル君は重要な役割を持つキャラクターになっていく……という予定。だから今のうちに顔を覚えてもらおう、ということでこういう登場になっている。
 と言ったものの、タケル君のエピソードはどうやって展開させたものか……。
 そうそう、雄馬タケルは《ハイクラス》……つまり上流階級の出身。カノンちゃんやナズナちゃんよりもワンランク上の存在。
 この辺りから《社会信用度》という言葉が出てくる。《社会信用度》とは何なのか……という説明は後ほど。お話しが進んで行くと、解説がなくてもだんだんわかってくるはず。

 道こずえ先生と生徒達が対話を始める。
「先生の子供の頃って何で遊んでいたんですか? 遊ぶものがないから、やっぱり森とか?」
 ひでー認識だよね。2050年代の子供たちは生まれたときからAIがあるのが当たり前で、遊びの相棒がAIで、そのAIがない時代がどういう時代なのか知らないし、想像もできない。想像もできないから、どこかで見て知った、戦前の子供の遊びみたいなものしかイメージができない。
 「世代間ギャップ」という言葉があるけど、これは世代が一つ移り変わるごとに記憶や認識がどのように抜け落ちるのか……ということを現している。例えば平成後期の生まれの子は、「昭和の時代のテレビってまだ白黒だったんでしょ」とか言っちゃう。そういう子ばかりじゃないのは知っているけど、要するにそれくらいの知識が抜け落ちてしまう……ということ。私たち世代でも、一つ上の世代の感覚はもはやまったくわからなくなっている。2050年代の子供もそういう感覚だろうから、「AIがない時代の子供って森とか川とかで遊んでたの?」みたいな認識になってしまっている。
 もちろんそんなわけはない。道こずえ先生は見た目が若いけど、実は51歳。生年は2000年。2020年頃は20歳くらいなので、『鬼滅の刃』とか『チェンソーマン』とか絶対に観ているはず。そういう深夜アニメ全盛期の頃に思春期、青年期を過ごしてきた記憶があるから「あの頃は凄かったぞ」という話をしている。
 しかしその後は……アニメは次第にAIを採り入れるようになっていき、長らくあった労働問題は解消されるようになっていった。それと同時に、アニメは次第に没落していくようになっていく。なにしろAIがあれば誰でも高品質な絵が生成できてしまうので、アニメが日本のお家芸ではなくなっていく。アニメ表現は世界に分散していき、貧乏でも唯一無二の存在だったからこそ注目されていたけど、誰でも制作可能なものになると誰も注目しないものになっていった…。
「そんな昔からアニメなんてやってたんですか? やっぱり昔だからショボかった?」
 これが「生まれたときからAIがあるのが当たり前」の2050年代の感覚。2020年代の今は、AIが登場したばかりでそのAIを使用するかどうかで大騒ぎになっているけど、「生まれたときからAIが当たり前」の世代になると認識がガッと変わっちゃう。「AIを使うのが当たり前」「AIを使わない奴はダサい」という感覚に変わっていく。それどころか「AIなしで絵が描けるなんて信じられない」……という感覚がまず先にあるから、「AIのなかった頃のアニメってショボかったんだろうなぁ」みたいに考えてしまう。2050年代にはきっとこういう感覚になっていくんでしょう。
 CGがなかった頃の映画なんて信じられない……という今どきの若者もこう思っているわけだから、AI時代の子供は「AIがなかった頃の映画とか信じられない」って思うようになるでしょう。
 さて、道こずえ先生を50代にした理由は何なのか? 2020年代のAIが生まれる直前の感覚を知っていて、「AIが当たり前世代」と対話させたかったから。舞台が2050年で、先生が50代というのが設定的にギリギリじゃないか……ということでこの年代。2020年代の若者と2050年代の若者が対話するとこうなる……という様子を描くことがこのシーンの目的。

 ちょっと余談。
 「昔のアニメなんてショボいんだろうな」「そんなの見る気にもならない」……というのは若者が抱きがちの感覚なんだ。
 私は映像の仕事をしたい……と思っていたから勉強だと思って昔の作品を一杯見た。それこそまだ音が入っていない時代の映画も見たし、音が入ったばかりでサウンドトラックが1音しかない時代の映画も見た。
 でも、専門学校でそんなことをやっているのは私だけだった。同級生からは「なんでそんな古いもん見てるの? 意味ないじゃん」と変人扱いだった。みんな今世代の、その時代に流行っているアニメとか、可愛い女の子が一杯出てくるだけのアニメに夢中だった。感覚が動物的なんだよね。「勉強だ」と思って色んなものを見る、見るだけじゃなくて考える……そんなふうにやっている学生は私の周りにもいなくて、私だけだった。アニメーターの学校に来ているのに、本当にそんな感じだったんだよ。プロになるつもりの人でも、そんな感じだったんだ。
 不思議な感覚だけど、どういうわけか、古い作品になると「見下し」の意識が生まれるようになる。今の時代の方が優れている、昔のものはたいしたことがない……そういう意識の中で「優越感」のようなものを持つ。若い人ってそういうものを「プライド」にするみたいなんだ。昔の人々より、自分の時代の方が優れている……そういう自尊心を普遍的に持つものらしいんだ。
 でも、そんなことはない。昔の作品でも凄いものは凄い。改めて見ると「これどうやったんだ?」という凄い作品は一杯あるし、今となってはあまりにも危険すぎてできないような撮影をやっている作品もある。昔のアニメでも狂気じみた伝説的な作画は一杯ある。
 あるとき、私は「昔の特撮すげーぞ」と、ある映画を友人に見せたけど、「いや、ショボいだろ」と失笑してすぐに関心を喪ってしまった。その映画というのが『ベン・ハー』だったんだけど、『ベン・ハー』クラスの名作映画を見せても、2000年代の若者には「ショボすぎて見てられない」という感覚だった。カメラ技術が古い……という段階でもう「古いもの」と決めつけて、興味をなくしちゃうんだよね。そして自分世代のものが優れている、と「見下し」モードに入っていく。
 2050年代になると、2020年代のアニメなんて、「昔のアニメなんてどーせショボいんだろうから観る気にならない」……というのは普通に考えられる感覚。そうなっていくのは仕方ない感覚なんだ。

 授業の最後に、道こずえ先生は課題を一つ出す。
「家から学校へ来るまでの風景を1枚描くこと」
 果たしてこの課題にどんな意味があるのか……? その説明は後ほど。

 授業が終わって職員室。
 生徒が描いた絵を見ているのだけど……AIなしで描いた絵はとにかくもひどい。まともに絵が描ける生徒がほどんどいない。AIタブレットがあれば誰でもうまく描けるけど、それがなかったら何も描けない……。そんな子でも今は漫画家やアニメーターを目指そうと学校にやってくる。それは「チャンスの裾野が広がった」という肯定的な見方もできるけど、デッサンやパースといった基礎すら身についていない、身につける気のない生徒が大半になってしまった。
 メガネで髪ボサボサの先生が担任の継手はぐむ先生。継手先生は元漫画家だった人。AIを使っている漫画家と使ってない漫画家が混在していたころに現役だった。道こずえ先生と生徒たちのとの中間位置にいる先生として設定されている。
 そういう継手先生も現状に対しては複雑な気持ちでいる。AIに頼りすぎて、絵描きとしての基礎のない生徒達。かといってAIタブレットは複雑な道具。その使い方を指導するだけでまるまる1年かかってしまう。絵描きとしての基礎が大事だ……とは思っていても、そういうのはAIがフォローしてくるので必要なくなったし、生徒の間でも「なんでそんなものが必要なのかわからない」という認識になってしまった。「デッサンやパースみたいな役に立たないものよりも、AIタブレットの使い方を教えてくれよ」……というのがこの時代の生徒達、親たちの声。そして業界からの要請になっていた。そういう現状に対して、先生は複雑な気持ちでいる。

「さてあの放蕩息子は……」
 雄馬タケルの絵を見て、2人の先生はなにかに気付いた様子……。手書きだからこそ、“なにか”が絵の中に現れてしまった。それはなんなのか……という答え合わせはかなり先になる。

 38ページ
「まともに絵を描ける生徒はただ1人……か」
 結局のところ、クラスでまともな絵を描ける生徒は1人だけ。貧乏でAIタブレットが買えない飾璃アヤナだけだった。しかしAIを使ってないから、生徒達の意識では「飾璃アヤナは私たちより絵が下手」と思われている。それがAIを使わないと逆転する……。先生だけがアヤナちゃんの実力に気付くのだった。

 また余談。
 私たちはその時代に流行っているモノに対して、最先端にいるかどうかで上下関係が決まる……と思い込んでいる節がある。
 例えば骨川スネ夫はいつも最新の玩具を見せびらかして自慢する。あの描写は不思議なもので、別にその玩具をスネ夫が作ったわけでもなければ、スネ夫のお金で買ったものでもない。でも「最新の玩具」を持っていることが周りの子供たちに対して優位性になる。
 これが人類が抱えている勘違い。「身につけているモノ」で優位性が決まると思い込んでいる。部族社会では、族長になると権威を示すために宝貝や鳥の羽を一杯体に身につけたりする。そうすることで権威を示そうとする。
 現代人でも実は同じことをよくやる。“高級ブランド”とかいう服やバッグを身につけたりする。さらに情報も最新のものを常に手に入れようとする。最新の情報を得てないと気持ちが不安定になる……というくらいだ。最新のニュースを知っているかどうかで格差が生まれる……という錯覚しているから、そう行動してしまう。
 それが人間のある種の本能のようなもので、身につけているモノや情報こそが格差だと思い込む。でもそれは実際に「身についている実力」かどうかは別の話。
 この作品『ムーンクリエイター』は「身についている実力」があるかどうかのお話し。飾璃アヤナはAIタブレットも買えないカースト最下位だけど、実はもっとも高いポテンシャルを有している。でも身につけているモノや情報こそが格差だとほとんどの生徒は思っているから、誰もアヤナちゃんの秘められた実力に気付いていない……というのがこのお話しの基本的構図。
 先生だけは実力が身についているのは飾璃アヤナだけだと気付いているので、アヤナちゃんを集中的に育てよう……と決めるのだった。

 授業と授業の合間に、千里カノンと樫月ナズナの2人が外に出てきて、自“走”販売機でジュースを買う。
 自走販売機ってなに? みたいに思われるかも知れないが、2050年代にはどこの街にもある普通のサービス。
 自走販売機の使い方は、まずAIグラスでアプリを起動する。すると半径50メートル以内の自動販売機とリンクして、商品が目の前にズラリと並ぶ。4コマ目に千里カノンの前にジュース缶が一杯並んでいる描写があるけど、これは千里カノンにしか見えていない。映像はリストバンドから超音波で触覚が作られているので、触れることができる。
 このリストの中から「購入」を押すと、自動販売機の一部パーツが「自走販売機」として分離し、購入者のところにジュースを運んできてくれる。購入者の居所は手首のIDチップで把握しているので、どこにいても購入者を探知して追いかけてくれる。購入者が歩いていても追いかけてくれる。
(走ると追いかけるのに時間が掛かっちゃうので、やめてください)
 支払いはIDチップに紐付いた口座番号から引き落とされる。
 こういう仕組みなので、2050年代の人たちは「喉渇いたな……自動販売機がどこかにないかな……」とかいって探す必要はない。AIグラスでアプリを起動すると半径50メートル以内の商品リストが一覧で出てきて、自走販売機の方から来てくれる。三宮のような都市の中だと自動販売機なんてそこら中にあるので、欲しい商品はだいたいいつでも手に入れることができるはず。
 その自走販売機、音を出しながら移動してくる。これは高さが1メートルほどしかないので、人によっては視界の外になる場合がある。そういうときの注意を促すために、音を出しながら移動する。1メートルほどの高さになっているのは、自動販売機の中に格納されていなければならないし、子供の手でも届かなくてはならないから。
 自走販売機に顔がついているのは、「進行方向」をわかりやすくするため。あの形だとどっちに向かって走っているのかわからないので、歩行者とぶつかってしまう可能性がある。そこで顔が向いているほうに進みますよ……とわかりやすくするために顔を付けている。その顔にわざわざ表情がついているのは、企業側の遊び心。日本の企業なら、こういうお遊び、絶対にやるでしょう……ということで付けている。
 40ページ。2人はジュースを飲みながら、周りの様子に目を向ける。お店の看板を見て、「あれ読める」と。見上げると中国語看板がズラリ。
 でも書いてある内容はテキトー。手前から「心が闘争を求める」「とても綺麗」「指輪伝説」……思いついた言葉をテキトーに中国語変換して書き込んでいる。
 2050年代は中国企業がどんどん日本に進出してきて、企業買収が進み、土地も買収されている。
 どうしてこうなったか……というとネオリベラリズム(新自由主義)が2050年代も経済思想の中心だから。ネオリベラリズムのヤバさ……というのはそろそろ世界的に知られるようになってきたのだけど、日本の大学で経済を学ぼうとしたら、まだ入り口がネオリベラリズムということになる。そういうわけで高学歴エリートになったらみーんなまずネオリベラリズムの信奉者になる。反ネオリベやっている人ってみんなそういう高学歴から外れた人たちですもの。2050年代もこの状況は続くんでしょう……という仮定の下に書いている。
 ではネオリベのヤバさとは何なのか? 単純に言うと、儲かっている人だけがハッピー、それ以外の大半が貧乏になる……というのがネオリベ。「儲かっている人は実力があって行動したからだ」「貧乏な奴は能力がなく、行動しなかったからだ。自己責任だ」……というのがネオリベの基本思想。
 さらに国の土地や企業をどんどん海外に買収されてしまう問題がある。『サイバーパンク:エッジランナーズ』というアニメがあるのだけど、舞台はアメリカなのに、街を見渡すとどこも日本語看板だらけ。なぜああなるのかというと、アメリカはネオリベの国だから。日本企業に買収されまくって、ああいう風景になっている。公共サービスまで企業が買収しているので、貧乏人は怪我しても救急車で運んでくれなくなる。
「貧乏なんだから当たり前だ。それは自己責任だ」……という意見も出るだろうけど、貧富の差が大きくなりすぎると、ごく普通に学校に行って普通に仕事していてもまともな公共サービスも受けられなくなる。怪我しても救急車が来てくれない世界になる。
 これはヤバいから、最低でも公共サービスは国が運営すべきでしょう……とはネオリベは考えない。「公共サービスも一般企業が運営すべきだ。そうすれば競争が起きてサービスの質は良くなり、値段も下がるはずだ」……がネオリベの思想。でも現実は『サイバーパンク:エッジランナーズ』で描かれたように、貧困層どころか中流階層もまともな公共サービスが受けられない世界観になっていく。
 ネオリベやグローバリズムのヤバさはもう一つあって……「ネオリベがヤバい」という話をすると、高学歴エリートたちは「レイシストだ!」と必ず糾弾してくる。「世界の企業をどんどん受け入れるべきだ。海外の労働者をどんどん受け入れるべきだ。もっと国を開放すべきだ。それに反対する奴はレイシストだ!」……こういう考えに染まってしまう。ネオリベやグローバリズムが「正義」「正論」ということになっている。反対する奴は「悪」。実際、世界のエリート層・セレブ層ほどこういう考え方になっちゃっている。それがいま現在形のヤバい話。
 話を戻すと、こういう考え方を2050年代までずーっと推し進めた結果、日本は中国企業に買収されまくって経済植民地になってしまいました……というのが本作の世界観。
(だから海外企業の買収には規制をかけろ、と……)
 日本企業はまだ生き残りがいるのだけど、ほとんど「ハイクラス向け」……つまり大金持ちしか利用できず、中流階級のカノンやナズナは中華製を使わねばならない……という状況。なんで中華製のAIタブレットやAIグラスが出てくるのか、というと、これが理由。
 もし普通に大学へ行って就職しても、そこは中国下請け企業。ほとんどの日本人は、そういう中国下請け企業が作ったモノしか買えなくなっている。

 前回の続き。
 ではどうしてこういう状況になってしまったのか? それは「円」が安くなってしまったから。日本は2050年代でも海外から原料を買って、加工して輸出する……という経済体制を取っているのだけど、円が安くなっているので、海外から原料を“高く”購入し、海外に向けて“安く”輸出する。つまり実入りがほとんどないような経済構造になってしまっている。“日本の後進国化”が進んじゃっている。
(現実の世界では今まさに円が安くなっているところ。そこで世界に分散していた工場を日本に引き戻そう……という動きが出ている。なぜなら日本で作った方がもはや安いからだ。『ムーンクリエイター』では「もしもそうならなかったら……」という仮定の世界。円が安くなっているのに、円が高い状態の体勢をそのまま続けてしまったら……という世界観となっている)
 そのうえに消費税30%という地獄のような税制。物価は現代の4~5倍くらいになっているので、ジュース缶1本400円。
 これは日本人の「貴族意識感覚」があるんだ……と私は考えているんだ。日本の食糧自給率がやたらと低い……というのは知られている話だけど、こうなるのは日本人が「食べ物がないんだったらお菓子を食べればいいじゃない」感覚があるからじゃないかと。「別に自分のところで食料生産なんかやらなくていいよ。買えばいいでしょ」という感覚。国民レベルで危機意識がまったくないのは、そういうことでしょう。
(日本の食糧自給率の低さはどうやら「外圧」もあるらしい……という話も聞くけど)
 他にも、例えば材木も海外から買っている。日本は山林国なので、文字通りで木は山ほどある。でも日本人は自国の木を切らずに、わざわざ海外から買っているんだ。これに疑問を持たないのも「買えばいいよ」感覚があるからだよね。
 ついでに石炭も海外から買っている。実は日本でも石炭採掘って可能なんだ。どうして石炭採掘をやらなくなったのか……というと産業構造が変わったからで、調査すると閉鎖になっている炭鉱にも充分な石炭が埋蔵されていることはわかっているんだ。いま原子力発電所を止めて火力発電をメインに動かしている……という話だけど、それで石炭を海外から買っていて大変……ということになっている。だったら国内で石炭採掘やればいいのだけど、ここでも貴族感覚を発動して「買えばいいよ」と発想しちゃっている。
 いつまで「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の感覚でいるのやら……。
 話を戻すと2050年代でもこの貴族感覚が抜けず、自国で生産可能であってもわざわざ外国から買う……という感覚が抜けない。それで原料を高く買って、加工品を安く売る……という後進国的な経済構造になっている。
 これも、そういう社会を作っているのはハイクラス以上の人たちだから。ミドルクラス、ロークラスといった階級がどれだけ苦しんでいるかわからない。わからないし、「稼げないのは自己責任だ」と思い込んでいる。貴族感覚の人たちが国を作っていると、こういう社会になる。

「そうだね。私はちゃんと日本人に読んでもらいたい」
 と言う千里カノン。
 これは別に「ナショナリズム」的なものではなく、日本人がさほど漫画を読まなくなってしまったから。
 日本において漫画が娯楽の中心になっていた理由は、まず「安かったから」が一番大きい。安いから子供のお小遣いでも買える。かつ人口が1億人以上もいるから、薄利多売でもうまくやっていける。
 ところが2050年代は物価が現代の4~5倍になっている。ジャンプコミックスが2000円~2500円。気軽に買える値段じゃないし、子供のお小遣いではもう買えない。こういう状況になってしまうと、漫画文化が根深く定着しない。
(2050年代の所得水準はどうなっているのかというと、2020年代頃とほぼ変わっていない……という設定)
 2050年代は漫画のサブスクリプション化も進んでいるけど、サブスクの弱点は「流し読み」してしまうこと。1本1本としっかり向き合おう……という感覚が起きなくなる。一つ読んで、次、次、次……という感覚になっていく。紙の本の時代のように、一つの作品を向き合って、どういう作品だったか……みたいに考えなくなる。実際、映画が今こういう状況になっている。
 するとどうなるのか、というと長編ものを読む人がなくなってしまう。複雑なストーリーも理解できなくなる。ついでに子供時代に漫画を読んだ経験がないから、より複雑なストーリーやテーマを読み解くことができなくなっていく。「日本人の漫画離れ」が進行しちゃっているのがこの時代。
 それじゃ漫画単行本販売の主戦場はどこかというと、海外。特に中国。なぜなら海外からしてみれば日本の漫画はめちゃくちゃに安いから。日本人にとっては高くて買えないのに、海外の人から見ると「安い」という感覚になっていく。
 42ページ。それまで壁にもたれかかって話していたナズナが、壁から離れる。千里カノンがそれを目線で追う。すると路地の向こうから、ホームレスがやって来くることに気付く。そこでカノンは「あっちゃー買うの間違えた!」と言ってジュース缶を置いていく。
 一方、ナズナはホームレスの存在に最後まで気付かない。カノンは気付いてジュース缶を置いていく。ここで2人の感性の違いを表現しているのだけど……これ気付く人、どんだけいるんだろうね。

 一日の授業も終わり、センタープラザをエレベーターで下りていく。ここは「映えスポット」なので漫画の中でも大きなコマで描きたかった。私のラフな絵ではよくわからないので、写真を載せましょう。

 43ページの時計の針が午後2時頃を指している……。これはこの時は授業が終わるのはこのくらいの時間にしよう……と考えていたのだけど、設定変更。もしも全作業が終わって余力があったら、12時頃に変更しよう。

 「あそこの店に入ろう」
 カノン、ナズナは入れたのだけど、アヤナは《社会信用度》が低いために入れない。
 これはどういうことなのか?
 《社会信用度》とはなんなのか? 中国にはいま《胡麻信用》というものが導入されているのだけど、あれとほぼ同じもの。《胡麻信用》の日本版が《社会信用度》
 《社会信用度》の低い人は問題行動を起こす可能性が高い。問題行動がどんなものかというと、例えば調味料を鼻に突っ込んで動画を撮影し、SNSで流したりするようなこと。あれをやられるとお店側にとっても損害……だから自衛手段として《社会信用度》の低いお客さんはそもそもお店に入れない……という対処を取っている。もちろん飾璃アヤナはそういうことは決してしないのだけど、《社会信用度》低いと、「そういうことをしそう」と見なされるし、そこから進んで「そういうことをやったからお前はロークラスなんだろ」……と言われてしまう。
 これが2050年代における差別。

 46ページ、1コマ。
 店長が出てくるのだけど、注目は背景。厨房がガラス張りになっていて、その様子が見えるのだけど、ロボットアームが調理をやっている。料理を運ぶのはロボット。人間は働いてないんだ。
 これも「生産性向上」の一環なのだけど、実は2050年代になると、ほとんどの人は「人間が作った料理は不潔だから食べられない」……という感覚になっている。現代でも「誰が作ったのわからないおにぎりは食べられない」……という人はだいぶ多くなっている。これが2050年代まで進むと、「誰であっても人間が作った料理は不潔だから食べたくない」くらいまで進んでしまっている。そこでロボットアームが出てきて、厨房をガラス張りにしてロボットアームを見せることがこの時代の飲食店の「信頼」になっている。
 では店長は何をやっているのかというと、トラブルが起きたときの責任者。といってもトラブルなんて基本的には起きないから、一日中漫画読んでてもいい仕事になっている。
 もちろん2050年代にも「人間の料理人」は存在するのだけど、それは“一流の”料理人のみ。一流にならなければ、料理人は生存不可。なにしろロボットアームの方が並の料理人よりも実力が上になってしまったから。一流にならなければロボットを上回る料理を作ることができないし、お客さんにも信頼を得ることができない。
 漫画家も実は2050年代でも手書きの作家はいるんだ。ただしそれは“一流”でなければならない。2流、3流はAIに負けるから相手にもされない。一流以外生存不可……というのが2050年代の当たり前。

 飾璃アヤナがお店には入れない。このことに逆上したカノンは店から出て行ってしまう。
 でも変じゃないか? 雄馬タケルのように粗暴な子がハイクラスなのに、どうしてアヤナちゃんのような大人しくて素行の良さそうな子の《社会信用度》が低いんだ? ……と思われるかも知れない。
 まず《社会信用度》の基本として「所得」がベースになっている。親の所得が高ければ、本人がバカでもランクが高くなる。雄馬タケルはこっちのタイプ。「《社会信用度》は生まれながらにして平等」……ではなく生まれた時点で格差が生じるシステム。でもこれが2050年代の人たちにとっては「シックリくるシステム」。なぜなら親の所得が高いのは、その人間が努力した結果だから、《社会信用度》が高くなるのは当たり前……と考えるからだ。実はこれが差別だとは考えつかない。
 ではどうして飾璃アヤナはそんなに社会信用度が低いの? そこまで貧乏だから?
 そうではなく、女の子の服ばかり買っていたから。男なのに、女の服を買っている……この人は変質者の兆候、あるいは性犯罪予備軍かも知れない――AIはこのように判定する。
 《社会信用度》がどういったことでポイントがプラスになるか、マイナスになるか、実はよくわからない。運営側も完全に非公開としている。だからあるとき「私の信用度が低い? なんで?」ということがよく起き得る。きっとこの時代のネット情報には「こういうことらしい」という噂話が一杯溢れているんでしょうね。
 では、どうしてこういうお話になっているのか……という話をしよう。
 前にもブログに書いたけれども、AIによる顔面認証は白人男性は100%検知するけど、これが白人女性、黒人男性、黒人女性と少しずつパーセンテージが減っていき、黒人女性になるとほぼ検知不能になる。これはAI顔面認証を作っていたエンジニアがほぼ白人男性だけで構成され、テストも白人男性ばかり集めていたため、「黒人女性でも検知できるかどうか」というテストをまったくやらなかったため……と言われている。エンジニア自身もシステムを世に出すまでこの欠陥に気付かなかったという。
 ここからわかるように、「人間が無意識にやっている差別」はAIが引き継いでしまう……という恐ろしい問題が存在している。
 AIによる検知や認定はすでに世界中で採用され、そこで様々な問題が起きている。例えばイギリス、ロンドンは防犯カメラが町中至る所にあることで知られているが、このカメラで人間を撮影し、AIが指名手配犯と照合をやって警察に通報する……という仕組みが作られている。この話だけど聞くと「便利なシステム」のように思えるけど、実は正答率数パーセントのポンコツシステム。特に有色人種となると制度が極端に低くなるので、AIの通報があって警察が現場にやってくるとまったくの別人だった……こんなことを毎日やっているそうだ。
 社員の評価をAIに任せてみると、明らかに優秀なはずの社員の評価が低くなり、何もやっていないボンクラ社員の評価が高くなる……ということも起きている。AIの評価基準は完全なるブラックボックスなので、どうしてこういう状況になるのかよくわからない。
 Amazonでは一時、AIに履歴書のチェックをやらせていたが、女性の応募者は全員落としていたことに気付き、AIによるチェックをやめた……という話も出ている。
 AIによる評価認定は万能ではない。でもそのことに気付かない人は、AIの言うことを信じてしまう。これが怖いところ。2050年代はAIが存在することが当たり前の社会になっているから、「AIがそう評価しているのだから、正しいはずだ」と人々が信じる社会になっている。AIを疑わない世代が出現している世界だ。
 次の問題は、そういうシステムを作っているのは例外なくエリート層だ……ということ。
 世間的ないわゆる上流階級、インテリ&セレブ層は「自分たちは差別はしない」と信じている。「自分たちはそういう下層階級がしそうなことから解放された、進歩的な人なのだ」と自分たちを評価している。でも実際はそんなことはない。インテリ&セレブ層であっても差別意識は当然ある。特に上流階級による下層階級による差別意識は苛烈。
「お前たちはバカだから下層階級なんだろ」「お前らは醜いからモテないんだろう」
 ……上流階級にいる人々ほどこういう考えを持っていて、遠慮なく下層民に言ったりする。上流階級の人々はこういう意識を「差別」だとは考えない。「正論」だと考えている。正論だから下層階級をいくら揶揄しても良い……これがインテリ&セレブ層が普遍的に持っている差別意識。これを明らかにしたのがマイケル・サンデルというハーバード大学の先生。
 例えばインテリ&セレブ層は人種問題やLGBT問題を口にするけど、それに反することを言うと、全員で袋叩きにする。「それは内心の自由ではないか?」というものでも許さない。自分は進歩的だ、自分は差別なんかしない……そう思っている人ほど、そういった人々が「正論だ」と決めているものに反する考えや発言をした人に対し差別をする。「正論であるから差別ではない」……こういう考えに陥って、差別を正当化する。エリート層ほどこの転倒した価値観に気付かない。
 AIは世間で思われているほど、「公正な判断」をしてくれる万能の存在じゃない。背後には設計者がいて、その設計者が潜在的に持っている「差別意識」がAIに投影される。だから下層階級に対する差別がやたらと苛烈になっていく。
「あいつらはバカだからロークラスなんだろ」「問題行動を起こすからロークラスになったんだろ」
 ……というのが「正論」になってしまう。そんなロークラスに対する直接暴力は「正論に基づく行動」だから「正しい」ということになる。
 これが雄馬タケルが飾璃アヤナにあれだけ暴力を振るっても《社会信用度》が落ちない秘密。雄馬タケルは「男らしくない」飾璃アヤナを「正論に基づく指導」をした……とAIは判定する。
 どうしてそうなるか……というとこれもさっき話したLGBTの落とし穴。LGBTの基本思想は「トランスジェンダーなら仕方ないよね」「ゲイなら仕方ないよね」……だけど飾璃アヤナはそのどちらでもなく、ただの個人的な「価値観」で女の子の格好をしている。LGBTのカテゴリーから外れた存在。「紛らわしい!」という存在。AIからしてみれば、「女の子の格好をしている“理由”がないのに、女の子の格好をしている……変質者に違いない」と判定される。
 変質者の兆候のある男性を、雄馬タケルが「男なら男らしくしろ!」と指導している……AIから見るとやっぱり「正しい行動」ということになる。雄馬タケルは将来起こりうる性犯罪を防いだ、ということになるわけだから。
 ついでに、AIが「価値観」の規定まで始めると、だんだん雄馬タケルのように「男らしさ」「女らしさ」にこだわるような人間が生まれてくる可能性が高い。なぜなら「AIがそういう判定をするから、正しい価値観なんだ」という考え方になっていくから。その判定の中に「男らしさ」「女らしさ」という個人の価値基準に関わるものまで介入してくると、振る舞い方もAIが良しとする価値基準通りに振る舞わなくては、考えなくては……という意識になっていくはず。
 でもそういう価値基準とは別に、飾璃アヤナちゃんは女の子の格好が好きでやっている。なぜなら自分にはそれが似合っているから。
 AIには美意識は存在しない。なぜなら「目」がないし、エリート層は美意識の判定基準はAIに持たせなかった。女の子の格好をしている飾璃アヤナが「似合っているかどうか」なんて判定されない。

 突如センタープラザの一角をテロが襲う!
 2050年代の社会には《社会信用度》によるどうしようもない差別構造がある。上流階級は中流階級を差別するし、中流階級は下層階級を差別する。それぞれは「俺たちは正論を言っているんだから、お前らは黙っていろ」と相手を黙らせてしまう。
 そういう状況を2050年代の人々はまるっと引き受けているのか……というと、そんなわけはなく、その鬱憤はどこか歪な形で出てしまう。それが「ブラックアウト」。名前の由来は、襲撃した街の一角を文字通りブラックアウトさせるから。
 どうみても「テロ行為」にしか見えないのだけど、この時代では「危険な“遊び”」と認識されている。なぜなら社会的なメッセージがないから。いや、メッセージがない……と考えられているから。「メッセージがあっても読み取れない」というのが2050年代の人々にとっての大きな問題となっている。
 世界中のテロってメッセージ性があるものなんだ。テロ事件が起きると、それにどんなメッセージ性があるのか、社会のどこに歪みがあったのか……それを考える。
 でも2050年代に限らず、日本人はそういうメッセージを読み取るのが下手になっている。実際のテロ事件が起きても、正義の心で犯人を上から目線で叩いて終わり……という場合がほとんど。「自分とは関係ない」と思うことで安心して終わり……ということになっている。そのうえで、自分たちの言っていることは「正論だから正しい」――その正論の影に埋もれてしまう人々の鬱屈を読み取って言語化する……ということが言論人であってもできない状況になっている。
 正論は決して正しいわけではない。正論の影には落とし穴がある。正論に基づいて「お前らは努力しなかったから貧乏生活なんだろ」と言い続けて相手を黙らせていたら、いつかその鬱屈によって逆襲されるかも知れない。でも「正論だから正しい」という考え方になると、そういうことを考えつかなくなる。
 そういうわけで2050年代はテロ行為があってもそこからメッセージ性を読み取れず、「バカで粗暴な低所得者の遊び」としか考えなくなっていく。
 それはそれとして、49~50ページ、注釈だらけ。なんで注釈だらけにしたのかというと、書いている私自身、「こりゃ忘れるな」と思ったから。
 まず2コマ目のパノラマ風の画面だけど、右と左のページで少し時間が進行している。不良たちが花火(ダイナマイトじゃないよ、花火だよ)を投げつけたのだけど、左のページは花火が投げつけられた後の風景になっている。
 でもこれ、後で見返すと忘れちゃうだろうな……というわけで注釈が入っている。

「目が見えない」
 カノンもナズナも目が見えなくなってしまう……。なぜならAIグラスを付けているから、曇ってしまっている。外せばいいのだけど、とっさの時にその判断ができない。アヤナちゃんが頑張ってカノンとナズナを誘導しようとする。
 そこに現れたのは……意外! 雄馬タケルが助けに現れる。
 なんで?? タケル君はアヤナちゃんを嫌ってたんじゃないの???
 日本には昔から「嫌いも嫌いも好きのうち」という言葉がありましてね……。これに関する答え合わせはだいぶ後になるので、その時に。

 「テロ動画」はさっそく動画に挙げられている。不良グループはテロ動画をパッケージにして売っているんだよね。もちろん、YouTubeにテロ動画なんかあげたら10分もしないうちに削除されるんだけど、その間に集客して売って利益を上げられる。それくらいの需要がある。
 2050年代の人々はAIグラスを使っているので、テロ動画を主観視点で楽しむことができる。それで「まるで自分がやっているみたいだ」……その迫力を楽しみたい、という人は一定数いるんだ。
 もちろん、「そんな犯罪行為はダメだよ」と表向きにはみんな言っている。でも裏ではこっそりテロ動画を見て楽しむ。みんななにかに鬱屈している。こういうテロ動画を自分視点で見て、憂さ晴らしをしたい……。2050年はそういう歪な社会になっている。

「貧乏な人には娯楽がないし、儲けている人への恨みが凄くあるから…」
 実際に低所得者の人の意見。
 これはどういう意味なのか?
 まず「貧乏人に娯楽がない」という意味だけど、その通り、娯楽がない世界になっている。2050年代にはPS10かPS11が出ている頃だけど、ゲーム産業はもはや日本は相手にしていない(PS5の時点ですでに日本後回しだし……)。なぜなら日本は貧困国になっているから。ハイエンドゲーム機なんぞ出しても売れない。ローカライズもされない。円が安くなっているので、ハードの値段がすごく高い。米国で買うとさほどでもないのだけど、日本円で買うと10万円から15万円といったところ。世界で隆盛を誇る大ヒットゲームは日本では遊ぶことができず、日本人が遊べるのは数百円程度で買える安いゲームだけ。
 映画産業も似たような感じになっていて、もし日本で大ヒットが出てもドル換算したらたいしたお金にならないので、ハリウッド映画もよほど利益を見込める映画でない限り日本に輸出しないし、来ても日本語字幕すら付かない状態。映画産業も「日本外し」が進行している。
 クリエイターの世界で日本をリスペクトする作家も2050年頃には絶滅しているので、日本を物語の舞台にしよう……とも誰も思わなくなっていく。
 すでに書いたように漫画も主戦場は海外。本当に娯楽はない。
 「別に娯楽なんかなくてもいいでしょ。無意味なモノだし」……と言う人は多くいるだろうけど、「娯楽がない」ということは「文化」が持ち得ないと同じ意味。身近なエンタメがなくなると、それを「読む能力」も当然落ちていく……。2050年代の人たちは2020年代の人たちより考える力が弱くなっていく。
 と、こんな感じに何もかもが「お金持ち向け文化」になっていき、庶民の娯楽がなくなっている……。それが2050年代の状況。

 というわけで、カノンちゃんのお部屋に入っていく。
 ページ構成だけど、パッと見、ちょっとゴチャゴチャした印象になってしまっている。コマ数がやたらと多く、多いページで10コマもあったりする。すると描くのも大変で、こんなラフな絵でも1日1ページしか進まないことも……。
 ページがゴチャゴチャしちゃうのは、「ただの対話シーンで何ページもかけるのもね……」という意識からだけど、詰め込みすぎるのも印象として良くない。あと4ページほど延長すれば1ページ1ページの情報量は減るのだけど、絵面に変化のない対話シーンが何ページも続くことになってしまう……。さて、どっちを取るのが正解なのかはわからない。
 本編を見てみよう。
 カノンちゃんはナズナちゃんのことを「女の子みたいなもんでしょ」……と言ってはいるけど、見た目は確かに女の子だけど、中身はばっちり男の子……。どうやらちょっと緊張しちゃっているらしく……。
 56ページ4コマ。
「おおそうだ。親睦会だし、お互いの作品を見せ合うってのはどう?」
 ということで、お互いの作品を見せることになる。ここで改めてそれぞれのキャラクターを掘り下げるフェーズに入っていく。

 57ページ。
 まずは言い出しっぺカノンちゃんの漫画。カノンちゃんは「冒険モノ」を描いていたらしい。
 これはカノンちゃんが「変わりたい」という潜在意識があるから。今の自分から変わりたい。でもどう変わりたいか、のイメージが漠然としている。だから「物語の続きが思いつかない」で途中で終わってしまう。
 58ページ。
 次は樫月ナズナちゃんの漫画。ナズナちゃんは推理モノだけど、キャラクターが平凡。つまり「理性的だけど情緒がない」。ナズナは物事を理性的に、合理的に考えたり判断する知性を持っているけど、やや情緒に欠ける。その性格が漫画にも出てしまっている。

 お待ちかね、アヤナちゃんの漫画は……エロ漫画だった!
 実は「エロ漫画家志望」のアヤナちゃん。ではなぜアヤナちゃんがエロ漫画を描いているのか? それはこの時代において「女装子」は完全に否定される存在になっているから。《社会信用度》の仕組みが導入されてから、「男らしさ」「女らしさ」も評価対象になり、すると男らしくあること・女らしくあること、が厳しく言われるようになった。「フェミニンな男性」なんて絶対NOだし、恋愛の対象にされない。
 そんな時代だからこそ、アヤナちゃんは「異端の自分」を世の中に受け入れてもらいたいと思っている。誰かに魅力を感じて欲しいと思っている。もちろん、性的な意味でも。「欲望の対象」にされることで、自分自身の存在・肉体に価値を見出したい……というのがアヤナちゃんの考え方。
 アヤナちゃんがいつもミニスカートを穿いているのも、性的な意味での「可愛らしさ」をアピールしたから。作品の中だけではなく、自分自身でもテーマ性を体現したい。すでに表現者として明確なテーマを持っている。
 これがアヤナちゃんが絵がちゃんと描ける理由。アヤナちゃんは「自分が何を描きたいのか?」その目標を明確に持っている。絵は「アレもコレも上手く描けるようになりたい」ではなかなか上達しない。一つテーマを持った方が絶対にいい。アヤナちゃんの場合「可愛い女の子を描きたい」「その女の子とエッチするところを描きたい」――そういう目標を明確に持っているから、上達も早い。

「それでこの女の子は……私?」
 いつの間にかエロ漫画のヒロインにされてたカノンちゃん。
 それを見たカノンちゃんは……。
「んー別にいいかな。不思議と嫌な気持ちにならない」
 ……どうしてカノンちゃんはこう言ったのだろうか? いや、描いたのは私なんだけど。カノンちゃんは不思議なキャラクターで、何を考えているのか、描いた後で考えてみないとよくわからないキャラクターでもあるんだ。
 そういうわけで、考えてみよう。なぜカノンちゃんは「嫌な気持ちにならない」と言ったのか。
 まずカノンちゃんは、飾璃アヤナという人物に拒否感がないから。他の人が自分をヒロインにしてエロ漫画を描いていたら嫌悪するし拒絶する。でもアヤナちゃんだったらさほど嫌悪感もない。そもそもアヤナちゃんという存在を引き受けている……ということ。
 次に描かれ方。エロ漫画は描いてみるとわかるのだけど、「性欲」問題は半分くらいで、あとの半分は「性的自意識の回復」がテーマになるんだ(こういう話をするのは、私も別名義でエロ小説を書いているから)。わかりやすい作品だと、男性側が「オラオラ!」とか言いながらセックスしたりする(そういうの、そんなにないけど)。どうしてそう描くのかというと、男性的な強さをアピールしたいから。女を服従したい。自分は強い存在だ……という現実では満たされない欲望を描きたい。そういう男性目線が極端になっていくと、ヒロインの女の子が「モノ化」していく。「オラオラ」とか言いながらセックスする漫画はそこまで多くないけど、女の子を「モノ化」している作品は非常に多い。
 でもアヤナちゃんの書いているエロ漫画は、たぶん相手女性の描き方も丁寧で優しかったんじゃないかな。というのも、アヤナちゃんは「男性的な力強さを漫画のなかで表現したい」という願望を持っているわけじゃないから。「僕を受け入れて欲しい」というのがアヤナちゃんの抱いている願望の第一。そういう願望の持ち主だから、エロ漫画でも優しい描き方になるんじゃないか。
 それで「エロネタ」にされた当人が見ても、「さほど嫌悪感はない」という印象を持ったんじゃないだろうか。
 ……知らんけど。
(……もしもアヤナちゃんが他にもナズナちゃんやしずのちゃんをヒロインにしたエロ漫画を描いていると知ったら、カノンちゃんはさすがに嫌悪するだろうな……。読者もドン引きしそうだから、この辺りは漫画に描かないようにしよう)
 でも恥ずかしいは恥ずかしいから、「コッソリやってね」と……。別にそういうエロいものを積極的に見たいわけじゃないから。というのがカノンちゃん。

 ここからの展開が不思議で、なぜナズナさんは急に「資料になってやる」なんて言いだしたんだろうか? いや、描いたのは私なんだけどさ。自分で描いても「……なんでだろうか?」と答えが見いだせなかった。
 描いている私でもわからないんだから、読んでいる人はもっと不可解なはず。この辺りはシナリオが失敗しているところ。

 前ページでバイトに行ったアヤナちゃん。ページをめくるともうバイトを終えて、帰宅に就いている。
 場所は阪急三宮駅から北側に出たところ。実はここ、いやらしー“大人の店”が並ぶ場所。詳しい人はこの時点でアヤナちゃんのバイトがどんな内容か推測できてしまう。実際どんなバイトをやっているのかは、後ほど明らかになるので、その時に。
 66ページ、アヤナちゃんは電車に乗る。
 アヤナちゃんがあたりを見ると、電車の中の人たちはみんなAIグラスで何かしらの動画を見ている。その様子を確かめて、アヤナちゃんは電車の中や窓から見える風景を観察し始める。
 これはアヤナちゃんが習慣的にやっていること。いつも絵を描くつもりで周りの風景を見ている。だからいざ描こう……というときに頭に思い浮かべることができる。

 帰宅するアヤナちゃん。家は低所得者向けの狭いアパート。何気ない描写だけど、「電池式目覚まし時計」を使っている。私もそこまで考えて描写したわけじゃないけど。
 なぜ「電池式」の家具が変なのかというと、実はこの時代、「ワイヤレス給電」がかなり進んでいる。カノンちゃんの部屋の家具は、ほぼワイヤレス給電。よほど有線での電気供給が欠かせない……という家具以外はワイヤレスになっている。家電のワイヤレス化も相当進んでいるはずだけど……。まだ電池式を使っているあたりで、この時代から取り残された存在……ということがわかる描写になっている。
(……後付けで考えたことだけど。ワイヤレス給電については最初から設定にあって、たとえばベランダに置いているハウスプロジェクターがコンセントなしで動いているのはワイヤレス給電だから。AIグラスも基本ワイヤレス給電)
 ペン型タブレットを開くとメールが届いている。このペン型タブレット、よく見ると64ページにも登場している。どういう構造なのかというと、基本形はペン型だけど、片側にフィルムが格納されており、こうやってピロピロと展開することができる。このフィルムに電気を通すと画像が映し出される。バックライトや冷却装置も不要で、しかも発光していないので目に対する負担も少ない。安価で使い勝手がいいので、2050年代の人たちがよく使っているタブレットの形になっている。
 一見すると未来のハイテクノロジーに見えるが、実はこういう製品は数年前に実在していた。その後、見かけなくなったけど……廃れたのかな? 現代では廃れてしまった技術だけど、2050年には再発掘されて、ゲームができるくらいにリフレッシュレートが早くなり、タッチパネルにも対応、しかも明るい。2050年代にはこっちのほうが標準的な形になっている。
 さて、メールの中身は……どうやら“資料画像”を送ってもらえたらしく……。
 アヤナ君は見た目が可愛いけど、中身は男の子。6コマ目、アヤナ君が股間をおさえているけど……意味はわかるよね。
「一回だけ、一回だけだから」
 一回で済むのかな……?

 お風呂上がりのカノンちゃん。ハウスプロジェクターを消す。お部屋は「オシャレカフェ」風で、アルフォンス・ミュッシャの絵画なんか飾ってたけれど(画角が狭いのでいまいち見えづらいのが反省点)、実はぜんぶ映像。実際には何もない真っ白な部屋。
 浴室から出て右手に格納されていたベッドを引き出す。普段はプロジェクターを使っているので、部屋をデコボコさせないために、ベッドを格納している。この時代の子達がよくやっているお部屋のレイアウトだ。
 まず学校からの課題である「記憶だけで家から学校までの風景」を描こうとするけど……何も描けない。
 うーん、なんで描けないんだろう……。その理由がわからないカノンちゃん。
 そういえばアヤナちゃんはどうやって絵を描いているのだろう。私の写真なんか持ってないはずだよね。記憶だけで描いているのだろうか……うまく描けてたな……。
(ついでに自分のこと「可愛い」とか思っちゃったな……とか、そういえば漫画の中で私とアヤナちゃん、エッチしちゃってたな……とかも考えちゃって恥ずかしくなっている)
 とか思い出し、カノンちゃんも試しに記憶だけで絵を描こうとするが……アヤナちゃんってショートだっけボブだっけ? 髪になにか付いてたよね、あれは星だったかな?
 今日一日ずっと一緒にいたはずなのに、それすら憶えていない。普段から絵を描くつもりで身の回りのモノを見ていないからできない。
 一方、アヤナちゃんは習慣的に「見る」ということをやっている。この辺りの習慣の差で描ける/描けないの差が出てしまっている。カノンちゃんはその習慣の差が理解できず、壁にぶち当たる。

 ここからしばらく雄馬タケル君を主人公にお話が進行します。あー、やっぱりこいつ嫌い。嫌いなキャラクターなので絵が雑。
 場所はどこかの廃墟。2050年代の日本は貧困国に転落しているので、あちこちに廃墟ビルがあって、そこを勝手に根城にして、ラグやソファセットなんかを持ち込んで入り浸っている。
 描写を見てみよう。なにをしているのか……というと3人でエロビデオを見ている。ちょっと時間に余裕ができたから、新しく買ったエロビデオ見よーぜ……みたいなノリだったのでしょう。
 ここの描写で勘のいい人は「あ……そういうことか」と気付くんじゃないかな。一番重要なカットは雄馬タケルが股間をガッと開いて正面を向いて座っているカット。この描写で「あれ?」と思った人は勘がいい。あとの2人、ハリガネと大木は股間に手を当てている(これから人と会う約束があるので“モノ”は出さない)。でもタケル君は……股間が完全に無反応。
 今までの話をよくよく思い返せば、雄馬タケル君は登場時から「男らしさ」にやたらとこだわっていたよね。教室でも周りに聞こえるように「女とヤリまくりでさぁ」とか大声で話したりする。
 まだわからない……という人のために本編中に描かれていないヒントを挙げよう。実は雄馬タケル君、童貞なんだよ。女生とお付き合いしたことないのに「女とヤリまくってる」みたいに言っているんだよ。どうしてそこまでするのか、その理由は……。
 答え合わせはまだまだずっと先。

 それはさておき、仮面を付けた変な男が現れる。この男がこの辺りのギャングたちの総元締め的な存在。「でかい仕事」が入ったので、町中の不良グループやギャングたちを回って参加するかどうかを聞いて回っている……という場面。
「喜べ! ブラックアウトの依頼が来たぞ」
 恐ろしいことにブラックアウトって「案件依頼」があるんだ。「気に入らない奴を潰したい」とか「ライバル企業を潰したい」とか……。未来の社会は物騒ねぇ。どこに窓口があるのか、私も知らないんだけど。
 その報酬で出してきたのが金の延べ棒。
 なんで金塊が出てくるの? それはデカい金を動かすと、税務署に気付かれてしまうから。金の動きを隠すために、一回金塊にかえて、こういう取引に使っている。ただ金塊にはシリアルナンバーが入っているものらしく、それで出所がバレちゃうんだけど……。それくらいの対処はしているはずだから、この金の延べ棒にはナンバーは削り落とされているはず。
 未来世界なのだから「ビットコイン」という手もあったかも知れないけど、まず第一に私がビットコインがどういうものか知らない。第2にビジュアルとして示すことができず、ビジュアルとして示されないものは読者にも実感として伝わらない。
 それで古典的な表現だけど、金塊が妥当でしょう……ということになった。

 しかし雄馬タケル君、警戒して「信用できねーな」と言い始める。
 一方、ボスはボスで、ちゃんと裏を取っている。
 世界の裏社会のボスになれるやつ全員に言えることは一つ――頭が良いこと。裏社会でトップまで上がれる奴って、だいたい頭が良い奴なんだ。頭が良いのに、何かしらの事情で教育や社会に参加できなかったやつが、裏社会で大出世してしまう。そういう「才能あるのにあぶれてしまった人たち」を裏社会に転落させないために、「自己責任だ」と切り捨てずセーフティを作るのが社会に課せられた課題なのだけど……2050年代の日本は相変わらずその試みに失敗している(そもそもそういう課題に気付いていない可能性すらある)。
 そんな頭のいいボスが、依頼人の素性はわからないけど、すでに裏を取っていて、信用できる依頼人だと断言している。その根拠が漫画の中に示されない。それは「その説明で何ページも割くべきじゃない」と判断したから。書いた方が描写として説得力が出るのはわかるけど、説得力が出たところで面白くなるわけじゃない。ここはさっさとお話しを次に進めたほうが良い。
 参加しない……と言い出すタケル君に、ボスが煽り始める。ボスに煽られて、急に「やってやるよ!」と乗せられてしまうのだけど……台詞をよく見てみよう。一番重要な台詞は「お前ブラつけてオカマやったほうがいいんじゃねーか」の部分。この台詞の直後、雄馬君は顔を真っ赤にして立ち上がっている。さて、なぜかな? これも雄馬君の“本性”に絡んでいる。それは雄馬君にとって言われたくないこと。ボスは雄馬君の本性が○○だとすでに気付いているので、こういう煽り方をした。この煽り方をすると、雄馬君は絶対に逆上して乗ってくる……という確信があったから言ったんだよね。それくらい雄馬君は人に知られたくない秘密を抱えている。
 さて、雄馬君の本性とはなんなのか? どうやら道こずえ先生と継手はぐむ先生は雄馬君の絵を見てすぐにピンと来たらしい。でもその答え合わせはずっと後。

 ここから描くほうが大変なシーン。
 前回、ギャング団のボスに乗せられてブラックアウトに協力することになった雄馬タケル君。指定された場所へと向かいます。
 ここから空間描写が変な感じになる。いまいちイメージが固めきらないうちに描いているから、こんな描写になる。これは漫画ネームとして「ダメな例」。「悪いお手本」として見てもらいたい。
 とにかくも雄馬君たちグループは、指定された場所へ行き、廃ビルの中に隠されたバイクを発見する。廃ビルは2050年代の日本は貧困国になっているので、そこら中にある。その中に隠すのだから、わりと簡単。
 でも、まずバイク描写……ひどいね。作画担当の漫画家がブチ切れる描写。バイクには思い入れもないし、知識もないものだから、シルエットがふわっとしている。車輪とグリップしか描かれてない。馬だったら骨格から理解しているから、無茶なカメラワークでない限り資料なしでもポンと描けるのだけど、バイクは知識がないからこんなもん。
 あらかじめ言っとくけど、これは漫画ネームの中でも「ダメなお手本」。みんなは絶対にマネしないように!
 バイクで唯一描かれているディテールが、正面に取り付けられたダッサイ謎シールド。これはバイクで突撃する予定なので、この部分のみ強化されている……という描写。この程度の装甲で強化ガラスをぶち破れるとは思えんけど。
 このバイクはどこで手に入れたものなのか? バイク自体はお店で買ったものではなく、3Dプリンターでパーツから作り上げたもの。どうやって運び込んだのか、というと自動運転。なぜバイクを買わず、いちから作ったのか……というとバイクにしても車にしても、購入するためには「登録」しなくちゃいけない。そこで“アシ”が付いちゃう。犯罪に使うものとしては、アシが付いちゃうと不都合。それで依頼人は、3Dプリンターですべていちから作り上げた。3Dプリンターとはいえ、これだけのモノを作る技術力……という点で依頼人がただならぬ存在だということを察することができる。誰なのか私は知らないんだけど。
 雄馬たちの格好を見ると、ライダースーツにヘルメット着用。この格好をするのは防犯カメラで撮影されていたとしても身元を隠すため。実は指令を受けているギャングは他にいるのだけど、他のギャング同士でも誰が誰なのかわからなくするため。とにかくそれくらい徹底した秘密主義の計画だと理解して欲しい。

 神戸の街に「ドーン」と謎の地響き。雄馬たちの知り得ない「別働隊」がすでに動いていて、どこかで爆破テロをやっている。
 ……この辺りの流れの元ネタは『マトリックス・リローデッド』。要するにあの映画っぽく展開が進行している……と了解してくれ。

 停電に通信妨害。AIも動かなくなったところで雄馬たちがバイクで飛び出す!
 描写酷いね。バイクに対する愛着がまったくないから、描写がいい加減。これは本当に「ダメなお手本」。作画担当の作家さんがブチ切れるので、こういうクソみたいなネームは描いちゃダメだよ。

 ここで別働隊と合流している。突撃命令が出たのは雄馬君たちだけじゃないんだよね。
 どこかのビルに突撃! ……やっぱり描写が酷い。アクション下手クソだな……本当。アクションは別の人に委ねた方がいいんじゃないかな。「アクション作画」だけをメインにやっているネーム作家っているのかな?

 どこかのビルに突撃!
 この辺りの描写も酷い! 「ダメなネーム」のお手本のようなページ。
 具体的にどこがダメなのかというと、キャラクターの顔と動きポーズしか描かれていない。空間が想定できていないから、ひどく間抜けな画になっている。これだと絵を一つ一つ見て、何が起きているのかさっぱりわからない。全体の流れでなんとなくわかる……みたいな感じになっている。これは落選する漫画だわ……。
 この辺りは準備段階でも「どうしようかな……」みたいになっていて、ネームを描くときに「どうにかなるかな?」みたいに思ったけど、どうにもならなかった。やっぱり前準備でしっかり作り込んでおく、ということが大事だ……と反省したページ。

 プラスチック爆弾で爆破!
 その肝心の爆破シーンのコマが小さく、いまいち迫力不足の画になっている。ページ構成も悪いし、もっとしっかり練り込むべき場面だった。
 それはそれとして。
 ギャング団たちが目的を達成して入れ違いに一機のドローンが黒煙の中に入っていく……。

 ドローンが黒煙の中に入っていき、破壊された扉の向こう側へ行き、ローカル通信でハッキングする。
 89~90ページの境界線で変な区切りが入っているけど、これは「ワイプ」を表現している。ここで「現実空間」から「電脳空間」に入りましたよ……という瞬間を表現している。
 漫画の「コマとコマの間」というのは「フィルムのコマとコマの間」あるいは「カットとカットの間」と同じもので、本来意識をさせないもの。それをあえて意識させよう……というものが「ワイプ」。通常のコマ遷移とは違う何かが起きましたよ……というサインとして表現されている。
 電脳空間のほうは地面や壁に模様が描かれているが、これはプログラムとノードを現している。よくある描写だよね。

 ここで一気にトーンが変わる。
 電脳世界に突入して、そこに存在しないはずの人、謎のハッカー、アバター・モモが登場する。
 アバター・モモ……いったい誰なんだろうか? 謎だ。私は作者だけど彼女について把握してません。
 アバター・モモの掌に何やら魔法のオーラのようなものが現れる。これはなにかというと「コード」。コードを書いてシールドを貼っている……という描写。一見するとマジカルな描写に見えるけど、実はデジタル的な行動をやっている。
 アバター・モモについてよくわからないんだけど、とにかく描かれているものを見てみよう。アバター・モモの足先が描写されてないのは、ポリゴン数の節約まで。といっても髪の毛や指先までしっかり作られているので、ここだけ省略する意味がない。どうして足先が省略されているのかというと、「バーチャル世界ですよ」とわかりやすくするため。漫画で描写すると、「現実世界のキャラクター」「バーチャル世界のキャラクター」の区別がないから、こういうところで差異を作っておく。
 アバター・モモが顔を隠しているのは、これから悪いことをするから。ほら、強盗とか、顔を隠すでしょう? あれと一緒。でもアバター・モモは育ちがいいから、目出し帽ではなくレースの布を顔に当てて隠している。
 今回のお話しは実在の街をモデルにしていて、いまいち「遊びどころ」がなく、描いていてあまり楽しくなかったんだけど、こういうところこそ思いっきりファンタジーを入れて描写を楽しみたい。前準備でもこの場面が一番楽しかったところだね。
 さてアバター・モモの前に、セキュリティシステムが立ち塞がる!
 あれ? 停電中だから、セキュリティシステムも動かないのでは?
 データセンターというのは停電中であろうと、災害中であろうと、テロ襲撃を受けている最中でも、スタンドアローンで稼働可能なように作られている。例えば東北の震災の時、電話も繋がらないのにTwitter更新ができた……という話があった。あれは震災の最中でもデータセンターが稼働していたから。データセンターはそれくらいの災害やテロに対策をしているもの。
 といっても実際のデータセンターがどういう内部構造になっているのか、よくわからない。そもそもどこにあるのかすらわからない。調べても「セキュリティの都合上」詳しい情報は秘匿されている。
 ……ということは誰も知らないんだ。じゃあこの辺りは想像を楽しんで描くことにしよう……というわけでこんな描写になっている。
 本編に戻ろう。
 セキュリティシステムが激しい銃撃を始める。その銃撃音が「パパパパ」と間抜けな音。これはバーチャルな世界の話なので、「火薬で打ち出している」わけではないから。もっとゲームっぽい感じ。ファミコン音源みたいな音が出ているんだとイメージしてくれ。
 一方、着弾の方はかなり派手。こっちは描写を面白くするために、思いっきり派手にした。火薬で撃ちだしているわけじゃないんだったら、こっちもデジタルっぽくしても良かったかも知れないけど、「描写として面白い方」を取った。

 激しい銃撃。アバター・モモが貼ったシールドが次々とダメになるので、新しいシールドを貼り直しながら、太ももに巻いたベルトからナイフを引き抜いて……バーチャルな世界なんだから、どこからナイフを取り出してもいいようなものだけど、これも描写を楽しくするため。
 その後も電脳バトルシーンが続きます。

 突如銃撃がやむ。電撃攻撃だ。アバター・モモはとっさにウォーターシールドを貼る。
 実は電撃はアバターに対する攻撃ではなく、現実世界にいるドローンに向けたもの。ドローンを攻撃されたので、アバター・モモの姿が一瞬透けてしまう。
 電撃攻撃で髪が跳ねちゃってるのも描写を面白くするため。バーチャル世界なので、本当はそんな現象は起きるわけがない。

 電脳バトルはさらに続きます。セキュリティシステムもあとわずかだけど、シールドもナイフも尽きてしまった。そういう状態になりながら、どうにかセキュリティシステム撃破する。

 ゲートを開き、データの「コア」に到達する。そのコアに触れると……コアがキノコに汚染されてしまう!
 なぜキノコなのか?
 ほら、コンピューターウィルスの「ウィルス」って「菌」のことでしょ? 「菌」といえば「粘菌」で粘菌といえば「キノコ」でしょ。コアがキノコまみれになった……つまり「コンピューターウィルスに汚染された」ということを現している。
 これ、画期的な表現だと思うよ。だってこういうシーンの定石って、コンピューターウィルスに汚染された直後、画面が暗転する……だから。キノコでコンピューターウィルスを表現したのは私が世界で初めてのはず。
 ……まあ誰もやらねーよって表現だけど。
 それはそれとして、どうして触れただけでキノコが繁殖してしまったのか? 細菌って「空気感染」より「掌感染」のほうが確率が高いんだ。手って常にいろんなものに触れるから、実は非常に汚い。全身の中で掌が一番雑菌まみれ……とも言われている。だからこのシーンでも、アバター・モモの手に「菌」が付いていて、その菌をなすりつけられたことによってコンピューターウィルスが移ってしまった……という描写になっている。
 ということはアバター・モモの掌はヤバいくらいに雑菌まみれってことになるけど……ダメよ、モモちゃんはお嬢様なのに!
 ついに100ページ目。アバター・モモが指パッチン。ここからはバーチャル世界ではなく現実世界。ドローンがドカンを吹っ飛ぶ。サーバーが爆煙でなぎ倒されている。その最後のコマが……わかりにくいけど、爆発したドローンの細かなパーツが高温で溶けてしまっている。
 普通、市販のドローンだとこの程度の高温で溶ける……ということはまずない。3Dプリンターでわざわざ溶けてしまうようなものを作ったんだ。これも「証拠隠滅」のため。

 現実世界に戻ってくる。どこかの廃ビル。そこでノートパソコン1台でハッキングをやっていた謎の美少女……うーん、いったい誰なんだろう?
 コンピューターの電源を切り、5コマ目、ノートパソコンとAIグラスを酸で溶かしている。「もったいない!」と思われそうだけど、犯罪に使った端末は証拠まみれの物件。溶かして存在自体消してしまったほうがいい。
 これでデータセンターに潜入したドローンは誰からも目撃されてないし、そのドローンを操作し、ハッキングに使っていたパソコンもこの世から消えたので、この謎の少女がハッキングしたという証拠は完全に消えたはず……。これで捜査の手は及ばないはずだけど……。
 102ページ。中和剤を入れて酸を無効にしている。酸のまま持ち歩くと危険だし、酸のまま廃棄すると大惨事になるし……。酸で溶かしている間は有毒ガスを出すので、ガスマスクを付けている。この辺りは米ドラマ『ブレイキング・バッド』で仕入れた知識。『ブレイキング・バッド』で溶かしていたものって、アレなんだけど……。

 廃ビルの外に出る少女。実はデータセンタービルの向かい側だったんですね。すぐ側で状況を見て、不良たちが出て行くタイミングを見計らってドローンを飛ばしていたんですよね。
 少女が出たところで停電が復旧。照明の中に、黒煙を噴き出すビルが浮かび上がる。謎少女はその様子をしばらく眺める。その表情が見えない。
 少女は最後まで表情を見せずに去って行く……。

 ここまでで第1話前半6割くらいが完了。ここから後半戦に入っていく。ここまで描くのにちょうど1ヶ月。ちょうど100ページ。まだ半分なのか……。でもあと1ヶ月ほどで残り半分を描けるはずだから、もうちょっとで完了。頑張ろう。

 後編へ続く。


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