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9月10日 お猿はどうして雨や雪をしのぐ屋根を作らないのだろうか? そこから考える人類とお猿の違い

 とある動物ドキュメンタリーを見ていたら、お猿が雪の中、寒そうに凍えている場面が映し出されていた。お猿たちは雪が体に降り注ぐなか、それを避けようともせず、震えながら仲間達と身を寄せ合っていた。

 そんな場面を見ながら、ふと疑問に思う。どうしてお猿は雨や雪を避けるための「屋根」を作らないのだろうか。
 屋根といっても木を伐採して立派な屋根を作れ……という話ではない。その辺に落ちている木の棒にツタや葉を絡ませて、即席の屋根を作れば……という話だ。簡単な屋根を作ることができれば、あんなふうに雨を体に受けなくてもいいはずだ。お猿は私たち人類と同じく指が5本あってその指を器用に動かして道具を使う能力があり、しかもそこそこ大きな大脳を持っている。それだけの条件があれば、屋根を作る知能くらいありそうなのだが……。
 どうしてそのようにしないのだろう。しない理由はなんなのだろうか。

 「必要ないから」という理由ではないだろう。というのも真冬の雪のなか、身を寄せあう仲間とはぐれてしまうと、どんなお猿も凍死してしまう。お猿は縄張り意識が強く、よそ者がやってくると殴って噛みついて追い払おうとする。信頼できる仲間とはぐれてしまうと、お猿は一晩で凍え死んでしまう。お猿たちは寒さに耐えうるだけの体力がなく、仲間で群がって身を寄せ合ってどうにか生きている……という状況なのだ。あの雪の寒さをしのぐ方法があるなら、きっとその方法を採るだろう。
 間違いなく野生のお猿たちは、屋根を必要としている。必要に迫られているような状況だ。しかし屋根を作らず、相変わらず仲間同士で身を寄せ合って、震えて過ごしている。これはなぜなのか?

 人類とお猿の違いを考えてみよう。

 人類の頭脳の特性と考えられているのが「推論」と「記憶力」だ。
 人類が「屋根を作ろう」と考えたとき、もしも「屋根」というものを知らない場合でも、脳内に抽象概念として「雨や雪をしのぐオブジェクト」というイメージを思い浮かべる。次にそれを作るためにどんな道具が必要か考え、集め、それを作るための作業を始める。こんなふうに脳内にイメージを思い浮かべ、そのイメージに向かって実行できる能力が、人類特有のものだと考えられる。
 お猿たちにはこれができない。異変が起きても、いつもその場その場で対応する。お猿たちにもある程度の記憶力があるから、問題が起きたら学習するはずだ。学習して、過去に危険があった時の状況を憶えていて、それに近付かないようにする。でもその経験から、将来的にそれに対処するための何かを作るというところまで進まない。危険について学習するものの、ただそこに近付かないようになるだけ。危険があったことを学んでも、そこから進んで将来どうするか……というところまでは考えない。
 この「再び危険がやってくる将来に向けてどうするか」というところまで考えるのも、人類の特性だろう。これも「推論」と「記憶力」という2つの要素が絡み合って可能になった思考だ。

ネアンデルタール人復元図

 私たちホモ・サピエンスにはネアンデルタール人という強力なライバルがいた。ネアンデルタール人はホモ・サピエンスよりも体が大きく、しかも脳の容量が大きく、いちはやくアフリカを脱してヨーロッパに広まっていた。ホモ・サピエンスの上位種のような存在だった。
 しかし私たち御先祖はどうやらネアンデルタール人を打ち負かし、絶滅まで追いやったようだ。いったいどうやって……という気がするが、これも「推論」の力なんだそうだ。

 およそ10万年前の私たちの御先祖がなにを産みだしたのか……というと「神様」だそうだ。「宗教」、あるいは「物語」である。
 ホモ・サピエンスもネアンデルタール人も「認知能力の限界」というものがあって、一つのコミュニティの中で結束をもてる人間の限界というものがあった。「仲間意識」を持てる人たちの限界というものがあった。それが最近よく言われるダンバー数と言われている説で、私たちが同時に認知可能な他人の数は150人くらいだろう……という説だ。
(イギリスの数学者、ロビン・ダンバー先生が提唱。150限界説がよく言われるが、100から250までであろうといわれる)
 私たちのコミュニティの限界数というのは150人までで、150人までなら合議制でものごとを決めてコミュニティ全体を運営していける。ところが150人を超えると、どうやってもまとまらない。それどころかコミュニティの中にいる人の顔を覚えることができず、結束は緩くなり、喧嘩をし始めてしまう。
 そんな状況で私たちはどうやって150人を超える人間との結びつきを作るのか。それが 「宗教」だ。ホモ・サピエンスはどこかの段階で「宗教」を生み出し、「その神を信じている我ら」という帰属意識を作ることで結束を生み出していった。私たちはどのように生まれて、どんな神のもとに結束しているのか……という「物語」を生み出していった。
 宗教を生み出したことによって、ホモ・サピエンスはついにネアンデルタール人に対して優位に立つことができた。ネアンデルタール人はホモ・サピエンスの上位種であったが、しかし宗教を持ち得なかったために「宗教的結束」を作ることができず、「数の結束」という面で圧倒的不利に立たされ、形勢は逆転し、最後には滅ぼされるまでに至った。

 これもホモ・サピエンス特有の「推論」の力だという。「推論」の力は将来の危険に対しどう対処するか考える力を与え、イメージする力を与え、それがどこかの段階で「神」や「宗教」といった「物語」を作るに至った。これが可能になったのも、私たちがより大きな大脳を持っていたから……とされる。
 ネアンデルタール人も大きな脳を持ち、指先を器用に扱うことができて、ホモ・サピエンスと同じく「推論」の力を使って道具を生み出すことはできたのだが、なぜか「神」と「宗教」を生み出すことはできなかった。
 さて、この違いはなんだったのだろうか。私たちはいったいどういう経緯で神を作り出し、それを結束する根拠としたのか。

 文化人類学者のジャレド・ダイアモンドは例えばピラミッド建設という目的があって、それを作るためにどうやって労働者を動員しようか……そうだ宗教だ! という経緯で宗教が生まれたのではないと本の中で語っていた。宗教は目的外のところで副産物として生まれて、徐々に私たちの中心になっていったのだ。
 ではどういった状況下であれば、人は「神様」を創造するのだろうか?
 神を創造する切っ掛けはきっと様々あるはずだ。ありとあらゆるパターンが考えられるが……私の想像では、「どうしようもない絶望」から生まれたのではないか、と考える。
 というのも人間は、どうしようもない対処不能の危機に直面すると、ある時点で行動することも考えることも諦めてしまう。この時に神様が現れる。
 かつての時代では、自然こそが人類にとって究極の脅威だった。台風、地震、津波、雷、火山噴火……。こういったものはどうして発生するかわからないし、一度おきると理不尽に人々の生活を徹底的に破壊して、去って行ってしまう。
 人類にはどうにもならないあれらの自然現象は、いったい誰が、どのような意図によって引き起こしているのだろうか……。そこで「神」の概念が生まれてくる。人間は今も昔も、自分ではどうにもならない事態や、自分の思考では理解できないような何かが起きると、そこになんともいえない神秘を感じていた。昔ながらの日本人だったら、そういう時ただただ拝むしかなかった。そういう、拝むような対象を私たちは本能的に「神」と認識する。
 同時に、どうしようもない理不尽が引き起こした悲劇に対して、私たちは「慰め」を欲した。大災害が起きて、一族の仲間達が一度に死んでいった……そんな時、私たちはどのように感情を収めていたのか。そこでもやはり「神」の救いが出てくる。
 現代人はあまり悲劇を経験することはないが、しかし悲劇を体験してしまったとき、日常にあるものでその心の傷を埋め合わせることはできるか。ほとんどの場合でできない。こういう時に「神様」が必要になってくる。どうして現代に至るもいまだに神様なんぞ信じられているのか、というと現代であろうが未来であろうが、人は悲劇に対処できるほど精神は強くないからだ。人類の精神は相変わらず弱いままだから、神様の役目はいまだに不要にならないのだ。
 こんなふうに、どうしようもない事象と対処するために、私たちは「神」という概念を生み出したのではないか……というのが私の現時点での推測だ。こうやって生まれたものが、やがて私たちを結束するものへと変わっていった。

 そこから一歩進んで、人類は次第に神に働きかけを行うようになった。それが「呪術」や「生け贄」だ。
 呪術師の基本的役割は、大自然である神様に働きかけることにある。
 例えばとあるネイティブ・アメリカンの司祭は、「雨乞いの儀式」として地面に広がる水を口で啜り、天に向かってピューッと吹く。これは大自然が大地の水を吸い上げ、雨に変える様子を人間の体で再現している様子だ。一般の人より高位な立場にいる司祭が神の摂理を表現しているわけだから、これによって大自然の神様がつられて動くはずだ……という考えである。
 生け贄もこの考え方に基づいている。どうしてかつての人類は生け贄なんぞを捧げていたのか。それは生け贄自身が神様だったからだ。コミュニティの中から神様になる役目の人が選ばれ、その神様役の生け贄は村人達に丁重に扱われ、その末に殺される。殺した後、司祭が殺した生け贄の口から魂を引き出す手振りをして、次世代の神様役の生け贄の口に移す。
 このプロセスもやはり大自然の摂理を人間の体で表現している。大自然は冬に入るといったん死んだかのような姿になるが、春になるとこれらの自然が再生する。しかし古代人は冬から春になれば本当に自然が再生されるかどうか、不安だった。生け贄はこの様子を自らの体で再現している。だから神様である生け贄が殺され、新しい生け贄へと魂が移されれば、自然もそれに釣られて動き始め、また元通り自然が再生されるはずだ……と古代人は考えたわけだ。

 神様や生け贄の概念もやはり「推論」の力が生み出したものだ。古代ではどうにもならないあらゆるものは神様によるものだと考えていた。しかし人類は圧倒的な「記憶力」を持っている。この圧倒的な記憶力によって、過去に推論で積み上げたことを足がかりにさらに高等な思考もできるようになっていった。そこから少しずつ科学的思考が現れていき、現代へと向かって行った。

 不思議なのはネアンデルタール人たちで、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスよりも賢かったはずなのに、なぜ神や宗教を生み出さなかったのか?
 もしかしたら――「強かった」からかも知れない。肉体的にも精神的にも。ネアンデルタール人もホモ・サピエンスと同じく、大自然の理不尽な悲劇を経験してきたはずだ。しかし強かったから、ホモ・サピエンスのように「まったくどうにもならない」ではなく、ある程度対処していくことができた。その強さがあったから、神様や宗教を生み出すには至らなかった。宗教を生み出さなかったから大人数が結束して行動することができず、とうとうホモ・サピエンスに滅ぼされていった。そうやってネアンデルタール人は姿を消していったのかも知れない。

 お猿はどうして……という話からずいぶん遠いところまで来たが、どうしてお猿にはできなくて、人類にはできるのか。それはお猿には現象に対して「推論」を当てはめることができず、さらに「記憶力」によって過去に考えられてきたところからさらにその先へ……ということができないからだ。
 でも疑問なのは、なぜお猿にはそれができないのだろうか。お猿は私たちと姿がよく似ている。手先も非常に器用だ。DNAで比較しても、お猿と人類はほぼ一緒だ。だがお猿は獣であって人間にはなれない。それを分けたのは脳のある一部が発達しているかどうか……だというが……。
 そう言われても、やっぱりわからないものはわからない。もしもお猿が雨や雪をしのぐための屋根を作り始めると、お猿にとっても新しい局面ということになるのだろうか……?


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