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5月18日 第1次世界大戦 イギリス軍を救った天使と、ワンダーウーマン

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 ――1914年の夏。
 頭上を猛烈な火花が散っていた。大地に刻まれた溝に、むせつくような硝煙の匂いがたれ込んでくる。
 ドイツ軍の猛烈な銃撃戦が始まり、イギリス兵達は打つ手なしで塹壕にうずくまっていた。頭上を見上げると鉛玉の雨が垂直に降り注いでいる。猛烈な炸裂音があたり一杯に轟いている。銃弾ばかりではなく砲撃も迫っていて、地面をズンズンと巨人の足音のように揺らしていた。
 そんな絶望を前にして、トミーの気持ちはなぜか古里を彷徨っていた。銃弾の雨の向こう、灰色にくすんだ空に、古里の空を思い出していた。
 ああ、マーティンズレーン37番地にあるレストラン……。あのレストランのサラダ、また食べられないだろうか。美味しかったなぁ……。
 あたりを満たす爆裂がふわりと遠ざかっていく。時々降り注いでくる土砂も、塹壕になだれこんでくる熱気や硝煙も、どこか遠くに感じられる。トミーの気持ちはもはや古里のレストランだった。
 何もかも克明に思い出せる。まるで今まさにそのレストランにいるように。穏やかな内装、落ち着いた店員、小洒落た食器。そうだ、料理を食べ終えると、皿に書かれている文字が見える仕組みだった。そこには――。
「聖ジョージよ、イギリスを救いたまえ」
 トミーは何気なく呟いていた。ぼそりと、自分で口を動かした自覚もなく、いつの間にか口から言葉が漏れていた。
 その直後だ。イギリス軍にどよめきが走った。頭上を降り注いでいた銃弾の嵐がふっとやみ、光が差し込んだ。
 空が晴れたのか? いや違う。光は空からではない。地上からだ。自分たちのほんの数メートル頭上に何者かが姿を現していた。
 おお、なんということだ。我が同胞達よ見よ! あれこそアジャンクールの戦いで我がイギリスを勝利に導いたヘンリー5世の兵士達だ! 我らの先祖が子供達の危機を救いにやってきたのだ!

 いきなりなんぞ? という感じだが、上に書いたのはアーサー・マッケンが描いた小説『弓兵』……を手に入れることができなかったので、おそらくこんな感じかな……と想像で書いたもの。『弓兵』を収録した本はどうやら現在でも手に入れることは可能らしいけど、探したところ見つからなかったし、そもそも貧乏暮らしで買うこともできないので、「こんな感じかなぁ」という想像で書いてみた。

 1914年。第1次世界大戦の最中、幽霊が出現し、イギリス軍を救った。これはオカルト話でも何でもなく、アーサー・マッケンという作家の書いた小説のなかでの話だ。
 窮地に陥ったイギリス軍の前に、かつて百年戦争を終結させた兵士達が舞い戻ってきて、一万人のドイツ軍をたちどころになぎ倒してしまった。ドイツ兵達の体に傷はなく、毒ガス攻撃によって死亡……ということになった。
 この小説はロンドン・イヴニング・ニュースという雑誌に1914年9月29日号に掲載されたのだが、ここで編集部側が小説の掲載方法にちょっとした《細工》を施した。事件を実際に体験したイギリス兵士からの取材である……という前置きを足したのだ。

 この小説は話題を呼び、『ライト』と『オカルト・レビュー』という雑誌から転載の要請があった。さらに地方の教区雑誌にも掲載した。色んな人がアーサー・マッケンの小説を読んだのだった。
 間もなくエドワード・ラッセル神父が『弓兵』を乗せた教区雑誌があっという間に売れ切れたので、アーサー・マッケンに『弓兵』の小説部分を抜き出した小冊子を作らせて欲しいと直談判にやってきた。当時の出版事情はよくわからないが、案外こんな感じで本を作っていたようである。
 『弓兵』の小冊子を作ること自体に、アーサー・マッケンには異議はなかった。ただ問題なのは、エドワード・ラッセル神父が『弓兵』を「小説」ではなく、「本当のお話」と思い込んでいることだった。ロンドン・イヴニング・ニュースがちょっとした小細工、前置きをしたことによって、『弓兵』は「小説」ではなく、「実際のイギリス兵が語ったお話」として伝わり、広まろうとしていた。
 アーサー・マッケンは「あれは小説だ。事実ではない。フィクションだ」と説明するが、エドワード・ラッセル神父は理解してくれない。エドワード・ラッセル神父だけではなく、多くの人々があの小説を「事実」と信じて広まりかけていた。すでにアーサー・マッケンのコントロールが効かない状態に陥っていた。

 『弓兵』は話題となって色んな人に伝わっていく過程で、次第に「幽霊」ではなく「天使」に変わっていった。誰もが『弓兵』の原作を読んだわけではなく、お話が伝わって伝言ゲームを繰り返す過程で、「天使がイギリス兵を救った」とお話がすり替わりつつあった。
 第1次世界大戦にて、イギリス兵を救った天使の軍団――これは私も聞いたことがある。天使の目撃例として、現代まで伝わるお話だ。あのお話の元ネタはアーサー・マッケンが描いた小説で、それが人々の間で広がる間に「幽霊」から「天使」へと変換されたものだった。

 やがて『弓兵』が実話である――とする援護射撃話があちらこちらから出始める。
 オカルト雑誌『ライト』も次のようなお話を載せた。とある記者は陸軍将校の訪問を受け「確かにいくつかの兵舎では数人の将校と兵士がモンスからの撤退の時に、不思議な現象を目撃したという話があった。ドイツ軍とイギリス軍のあいだに割り込んだ雲が奇妙な形を取り……」というお話を聞いたという体で掲載した。
 おそらくこれに影響を受けたと思われる教区雑誌がプリストルにあるオールセインツ教会から出版された。これによると、「モンスから撤退するとき、押し寄せてくるドイツ軍から天使が戦線の左翼を守ってくれるのを見た」という目撃話が出てくる。
 オールセインツ教会が出版した教区雑誌は話題となり、そのエピソードが載った小冊子を欲しいという手紙が世界中から届くようになった。
 非国教徒のR・F・ホートン師はマンチェスターでの説教で、こう話した。
「本当の現代人なら、疑うなどという馬鹿げたことはしないだろう。その経験を幻覚だと嘲笑うことも……」
 もはや『弓兵』を信じないことが「非国民だ」というくらいの扱いだった。

 その後も『弓兵』を実話として補強するお話が色んな所から語られ継がれた。
 ラルフ・シャーリーの『モンスの戦う天使』という本の中でもモンスの撤退戦で天使の幻覚を見た……という話が載った。
 ローマカトリックの新聞『ユニヴァース』にも白い軍馬に跨がる天使の存在を見た……という証言話が載る。
 フランスの軍隊は聖マイケルとジャンヌ・ダルクが戦線に姿を現すのを見たという。

 決定的になったのは、准将ジョン・チャータリスが1931年に出版した『総司令部にて』という回顧録のなかに書かれた、「モンスの天使」というお話だ。このお話はフィクションではなく、チャータリスが家族に送った手紙の中に「イギリス軍のなかで天使の目撃談が噂になっている」と触れていた。この手紙は、アーサー・マッケンが小説『弓兵』を書く三週間前のものだから、だから実話であるという。
 これまでのお話はみんな「誰かにそんな話を聞いた」という伝聞の形式だった。当事者によるお話がなかった。しかしここで実際の戦争体験者が回想録という形で、しかも「准将」というきちんとした地位ある人による証言が出てきた。これが決定的となって、「モンスの天使」は実話として定着することとなった。
 しかし後の調査で、そんなチャータリスの語る手紙など存在しないことが判明する。ジョン・チャータリスが書いたお話が何だったのかというと、政府のプロパガンダだった。チャータリスは他にもドイツ軍が手に入れた死体をバラバラにして動物のエサにしている……なんてお話も書いていた。どれもイギリス世論を喚起させるために作られた嘘だった。いつの間にかアーサー・マッケンの『弓兵』は政府のプロパガンダにも利用されるようになっていた。

 それにしても、どうしてこんな天使によって救われた……とする奇妙なお話が広まり、信じられたのか。
 それは1914年8月23日で起きたベルギー、モンスでの戦闘が凄惨な撤退戦であり、敗北戦だったからだ。「敗北」の事実を、天使の福音ということにすれば、「敗北の屈辱」が天使による「祝福」に変換される。だから人々は積極的に「天使に救われた我が兵達」のお話を信じたかったのである。

 戦時下に目撃された天使のお話は、やがてアーサー・マッケンの手から離れ、人々の間に新たな伝承として広まり、最後には政府のプロパガンダに利用され、お話が再検証されることもなく、現代にまで伝わる「天使の目撃例」の一つとして語り残されていった。
 お話がどんどん大きくなり、自分の小説から離れていく様子に、アーサー・マッケンは慌てただろう。実際、『弓兵』を実話だと信じる人から本を出したいという申し出まで来て、かなり慌てたようだった。「あれは事実ではない、小説だ」という説明を始めた頃には、もうお話は「事実」として広がりきっている頃だった。

ワンダーウーマン 3

 さて、私はこんなお話を聞いていて、ふと思いついたことが一つある。これはひょっとして『ワンダーウーマン』じゃないか?
 覚えているだろうか。映画『ワンダーウーマン』一作目、膠着状態の塹壕戦の最中、ワンダーウーマンが堂々と姿を現し、イギリス兵達に勝機を与えたあの一場面を。ひょっとするとあの場面は、アーサー・マッケンの『弓兵』が元ネタだったかも知れない。イギリス軍を救ったのは幽霊でも天使でもなく、実はワンダーウーマンだった……! というシーンだったかも知れない。
 でも、こういう話、『ワンダーウーマン』ファンだったら当たり前の話として知っていそうだな……。私は全く別の本を読んでいて、ふと「あれ? このお話ワンダーウーマンであったよな……」と気付いて、こういう話を始めたのだけど。「ファンなら誰でも知っているような常識を話すなよ!」……とか言われそうで怖い。

 関連性がわからないので、一応調べてみよう。  ネットでわかる範囲で調べたところ、映画『ワンダーウーマン』の舞台は1918年。描かれた戦場はベルギーのウエスト・フランデレンだそうだ。アーサー・マッケンの『弓兵』は1914年が舞台だから、まったくの別のお話だ。(「モンスの天使事件」はベルギーのモンス。地域もだいぶ違う)
 ということは、『弓兵』と『ワンダーウーマン』との間には関連性はなかった。関連はなかったわけだが、見方を変えて考えると、イギリス軍はアジャンクールの亡霊に救われ、次に天使に救われ、その最後にワンダーウーマンに救われた。なるほど、あれほどドイツ軍に押されていて、最終的に戦争の勝者になれたわけだ。
 『弓兵』と関連性はなかったが、第1次世界大戦の最中に起きた奇跡を信じたい心が、時代を超えてワンダーウーマンのあのシーンを作り出したのかも知れない。それを考えると「モンスの天使」はまだ「生きている伝説」なのかも知れない。


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