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高齢者の生きかた(敬老の日によせて)

敬老の日とはいったい何?

以前は9月15日だった。いつしか9月の第3月曜に変わった。

誰が誰を敬う?
子や孫が祖父母、曹祖父母を敬う?
若い世代が高齢者を敬う?

敬う日をわざわざ設けスポットライトを当てるのは、364日は敬っていないからではないか?

そもそも高齢者とは?老人とは?

この定義は崩れつつあると感じる。

かつては孫ができておじいさん/おばあさんと言われるようになったときから、本人も世代が上になったと自覚したかもしれない。
家族の中で孫の成長を支え、息子や娘を援ける高齢世代がいたころもあった。

今は離婚率が高く、家族の形態も変わってしまった。分断された世代。離れ離れの親と子。

その一方で、孫の面倒を見るために祖父母に孫育て休暇を与える役所も最近はあるとか。
何かが変だ。

子や孫がいない人もまた敬老の範疇からは置いてけぼりにされてしまう。

リタイアする年齢も人によって違う。年金を受給するタイミングも選べる。

高齢者には病気がつきもののように言われるが、それも若いときから本人の意識の持ちかたで変わり、高齢になれば自動的に病気になるわけでもない。

認知症?それは病気じゃない。昔からある老人ボケでしょう。
情けないけど、ボケが少しずつ進むのは普通のことじゃない?
(私も最近時々ボケている)

「病気になったら医者にかかれば良い」という考えは正しいか?
「そもそも前もって病気にならないように気をつけて生活すべきである」という予防医学の考え方も少しずつ広まってきている。

メディアは「高齢者はいつまでも若々しくいなければいけない。若い世代と同様に活動し続けなければならない。いつまでも働きなさい。孫の世話をして趣味の活動や旅行に精を出す。それが理想」と報道する。果たして正しいのか?…

世間は高齢者に永遠に現役で働いてほしいようである。

ここは高齢者もその言葉に乗せられることなく、立ち止まってよく考えてみてほしい。

歳を取れば老いて、体が弱ってくるのは当たり前。有史以前からそうだった。
いつまでも生きていられるわけがない。
体が弱って、目や耳が衰えいずれ死んでいくのは自然なことである。

老いを受け入れ、いま自分に何ができるか?これからの人生をどう生きるか?
今日が人生で一番若い日。
明日には1日歳をとる。

焦ることなく考えよう。
そして一歩を踏み出す勇気。
立ち止まっていてはダメ。

これが前向きな生き方と私は思う。

人生を振り返れば、できていないことが多すぎて後悔や失敗で気が遠くなる。
きっと誰もが同じに違いない。 
だからこそ、今日一日を感謝の気持ちを持って大切にしたい。

おかげさまで今日も生きています。
ありがとうございます。合掌。

毎日が満ち足りて楽しくて最高。
若いころには感じられなかった充足感が今はここにある。

もしできるならゆくゆくは「敬われる高齢者」になりたいです。

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