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自分から「個性」を抜いたら蛻の殻になるのか

先輩の話を聞いた。

一つひとつの言葉の重みが伝わるほど、自分自身との葛藤が彼女を成長させているのだと感じ取れた。


行き慣れた最寄駅は、相変わらず自宅からは遠かった。歩いて帰れるけど帰りたくない、そんな距離感だった。閉店間際の商業施設が、徐々に灯を消していく。私はその麓で、人数に見合わないファミリーカーに乗る哲学者を待っていた。

ちょっと値が張るファミレスの角の席で、いつものように私たちは頭を突き合わせては地元の未来について語っていた。先日尋ねた宮司から借りた、辞書より厚い町誌を開きながら、地元の歴史を頭に入れている。

なんでこんなことになっているのかはわからないが、楽しいからなんだって良いのだ。

私たちが地元市内の神社に関する文献を読んでいると、哲学者のスマホに着信が入った。名前をよく知る後輩からだった。

哲学者が口を開く。「じゃあ片付け終わったら言って、家向かうから」

あぁ、なるほど。何かあったんだな、と察した私は、哲学者に要件を聞く。「どうしたの」

「個性が何かわからないらしい」

はぁ、またこれはすごい案件だ。ただ、哲学者に連絡がいったのは納得の話題だった。後輩からの連絡を待つ間、私たちは個性について考えていた。

「個性ってさ、選択肢だと思うんだよ」

私たちは生きているだけで選択を求められる。心が躍る方を選ぶ人もいれば、誰かに言われた方を選ぶ人もいる。この選択を何度も何度も繰り返していくうちに、その組み合わせに唯一性が生まれ、その人の個性になる。

いつもと違うファミレスの角の席で、哲学者は熱く語っていた。そういえば、私のSNSは私の個性を見透かしている。この話には納得ができた。

個性とは何か、私にはひとつ重要なことが抜けていると思った。個性と個性的ってニュアンスが違う。哲学者の話では、人類は皆個性を持っていると考えられる。私は、さらに個性的と見做されるためには、選択に自分の感性判断が伴っているかどうかが重要なのだと思った。自分的には、こうなんだよな。たった一瞬の感情の動きがあるだけで、人類という大枠の中で「あなた」という個性がより魅力を増すのだ。ただ、それができていない人が多い世の中であることに勿体なさや哀れみを感じるような私は、ひねくれた人間であることは間違いなかった。

「そろそろ行くか」

広げていた紙をまとめて、充電ケーブルを八の字巻きにして、私たちは席を立った。640円を支払っている間、このファミレスの店員は何をやりがいに働いているのかを下世話にも考えていた。

風に押されて重くなった扉を押して、私たちは店を後にした。秋が来なかった東北の寒さには、冬を先取りしたマフラーが手放せなかった。6人分の空席で冷えた車内は、まるで冷蔵庫のようだった。


個性は、その人らしさである。では、その個性がなくなったらその人は蛻の殻になってしまうのか。

そんな簡単に個性が潰れてしまうほど、か弱いものだったのか。と私は思ってしまう。他人からみても個性がわかるくらいあなたらしさがあるのなら、一回や二回あなたらしくない選択をしても、蓄積されてきたものはそんな簡単に崩れたりしないだろう。ただ、反社会的なことや信頼を損なうような選択じゃない限りだが。

自信を持って、とは無責任な応援だ。それでも、この言葉をきっかけにしてそれを信じ続けるだけで、応援された人の気持ちは良い方向に変われるかもしれない。

だから、言葉ってすごい力を持っている。芸がなくても、人間は言葉で表現するという選択肢を持っている。

選択肢が多いほど幸せになるか。いや、人による。

ただ、自分の好きや楽しい、面白いの基準を持っているならば、選択肢が多いほど幸せになるのではないか。たとえ、多くの選択肢の中からたったひとつだけを選択し続けたとしても。

私が好きな文章の種類が私小説だと知った、だから今日は私小説を挿入した文章を書いてみた。これも増えた選択肢をあえて選んでみた結果だ。

これも、個性なんだよな。

作中に登場する哲学者の話↓


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