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乃木藩、奔る~月影に雲~

この物語はフィクションです


やっと梅が色づき始めた。
風はまだ冷たいが、少しずつ陽の光が暖かいものになっている。
土の中、木の中、水の中。生命が活発に動き始める頃だ。
しかし、そんな予感もここから察するのは無理というものだった。
伊藤理々杏は乃木藩江戸留守居役、山下美月の右腕として、江戸・秋原城あきのはらじょうの控えの間に通されている。当の美月も一緒だ。二人とも身じろぎせずに座っている。部屋には今しがた火が置かれたばかりで、少し冷えていた。
遠くに諸大名から派遣された留守居の声が聞こえる。反面、この部屋の周囲は静かで、空気が張りつめているのが露骨に感じられる。
「参られました」
ここに二人を呼びつけた者の側近が告げた。二人は体を折り、頭を下げて、その本人を待った。少し焦らされる間があり、静かに襖が開く音がした。
「面を上げて、楽にされよ」
初老の男が座っていた。老中、今部義弘いまべよしひろである。髪は白くなり、肌は日に焼け、顔には長年の労苦による皺が刻まれていた。衣装はそれと対照的に、幕府の方針で華美なものは避けられているものの、老中相応の質を思わせる艶が浮き出ていた。
今部は少し落ち着きがないように辺りを見回してばかりいる。
「梅澤殿は息災か?」
「はい、筆頭家老として藩を切り盛りしているところです」
「そうか」
真夏が筆頭家老だった頃、美波は江戸留守居に任じられたことがある。他愛ない話をした後、今部はまた黙ってしまった。
「それで、御用件は」
「それだがな」
歯切れの悪い言葉が続く。
水ノ戸みのへの若様でしょうか?」
「むう」
美月の推測は核心を突いたようだ。
飛鳥と真夏が乃木藩を導いている頃、異国船が頻繁にこの国へ訪れるようになった。そこで開国論を主導したのが乃木藩である。外国を打ち払う攘夷が叫ばれる中で、諸外国と無用な争いを避け、速やかに交渉の窓口を開くよう幕府の内を固め、朝廷にも働きかけた結果、長崎などの港を開くことになった。一応の決着をみた後、二人は幕府内で強権を得ることを良しとせず、藩の要職すら退くことになったという顛末である。
そこで攘夷論を掲げ最後まで抵抗したのが水ノ戸藩、松寺家昭まつでらいえよしだった。烈しい性格の彼を宥めすかし、口説き落として、何とか開国まで持っていったという経緯がある。家昭は攘夷が成されないことへの失意の内に死去したものの、その娘・家仁いえひとー女性としての名前は仁子にこーが乃木藩を快く思っていないことは明らかだった。
「知っての通り、水ノ戸松寺家は将軍様より御名前の一字をいただくような間柄。これ以上揉め事を増やすようなことは謹んでもらわねば」
「お言葉ですが、乃木藩は粉骨砕身して幕府をお支えしております。その幕府が開国へ舵を切ったのですから、ここは」
「よお、美月ちゃん。今部様を問い詰めるのはそこまでにしてくれい」
口を挟んだのは麟野勝吉りんのかつきち、今部の懐刀であり、海事奉行を務める男だ。生粋の江戸っ子で、美月や御付きの理々杏にまで馴れ馴れしい。そんな彼の口調に、理々杏は有能だという彼の風聞に対し疑問符を付けたい気持ちだった。
「揉め事を抱えているのはどこも同じ、だったら互いに苦労しあうってのが、幕府みてえな寄合所帯に大事なんじゃねえかい?」
「苦労してるのはいつもうちですけどね」
「そんな口きいてるとかわいくねえぜ、理々杏ちゃん」
「な、何を」
「とにかく、とにかく穏便に。我らが乃木藩を頼りにしておるのは変わらぬ。だが、老中としては幕府内に諍いがあるのは見過ごすことはできん。その辺り重々承知の上で動いてもらわねばならぬ」
そう言って嘆息する今部の眉間の皺は深くなるばかりであった。

「今部様も大変ね。水ノ戸藩からもいろいろ言われてるんだろうし」
「水ノ戸藩は朝廷との結びつきも強いからなおさら苦労するでしょうね」
「でもうちらは飛鳥さんとの約束を守らないといけないから」
「今後も目を付けられる、か。苦労が絶えませんなあ」
美月の言う約束は、飛鳥が藩主から退く時に交わしたものだった。飛鳥は争いを好まない性格で、諸外国とも不戦の方針を貫いていた。その方針は国全体がまとまっていなければ意味がない。だからそれまで関わってこなかった幕府に関してもあえて口を出した。
美月も理々杏も飛鳥をことさら慕っていた。飛鳥は多くを語らないが、人も物事もよく見て口を開ける。その一言の重さが二人を惹きつけていた。だから、不戦の方針は守らねばならぬ約束になった。
城から退こうと廊下を歩いていると、小汚い男が二人に道を開けた。野心的な目と海で日に焼けたような肌、紐で結ったまとめ髪が印象的な殿中には珍しい印象の男だった。理々杏は思わず美月に尋ねた。
「誰?あの人」
「名前は知らないけど、麟野様のお弟子さんらしいわ。最近よく会うの」
「ふうん」
「それより、この後もっと忙しくなるわ。誰か呼んでおいた方がいいわね」
「だいたい誰かは検討はつくけど、一応梅にお伺いを立ててみるよ」
理々杏がいたずらな目で美月を見ると、心当たりがあるのかそっぽを向いてしまった。相変わらず素直に感情を表現するのが下手な奴だ。
それでも、信頼できる友が側にいること、何より心強いことだった。
日が西に傾き始めている。
先ほどは気づかなかった暖かさを少しだけ感じることができた。

京は冷える。夜になればなおさらだ。
北国に郷がある佐藤璃果も、京の寒さは身体に堪える。雪は多くないとはいえ、身体の芯から凍てつくような寒さは、郷のそれよりも数段上に思えた。
宴である。
璃果は乃木藩京都留守居役、久保史緒里とともにこの宴に呼ばれていた。
池に映る月を愛で、音曲を奏で、舞踊を観劇し、歌を詠む。
池の舟には花が詰め込まれており、庭の木々も美しく整えられている。
右大臣・秋藤康通あきふじのやすみちの邸は名門のそれにふさわしい京随一の大きさを誇り、加えて康通が風流人とあっては美しさも並ぶものがないほどである。
璃果はあまりの寒さに一人ずつ与えられている火鉢に手をやった。この寒さは京の環境に起因するものだけではない。魑魅魍魎の棲み処たる都が人間の熱を奪っているようにしか思えなかった。
「次は私の囲っている者が舞を披露いたします、ほれ」
一人の公家が手を叩く。権中納言ごんのちゅうなごん五条成具ごじょうなりともという公家だ。璃果もこのような宴で何度か目にしたことがある。康通に媚びばかり売っているつまらない男だ。
少女が出てきた。手に扇子を持ち、音曲に合わせて舞を踊る。一羽の鳥が羽ばたくように舞うその姿に璃果は見とれた。
「ふむ、見事」
「お気に召していただけましたか。それはよろしゅうございました。ほれ、そちにそこの菓子を与える。持っていくがよいぞ」
丁寧に腰を折り礼をした少女は菓子を手に取り、舞台を降りて行った。ふと手元が震えているのが璃果には気になった。やはり少女も寒いのだろうか。
「さて、東国からのお客人はいかがやろか?」
「はい、我々のような無粋者には歌の妙は分かりませんが、先ほどの舞などは言葉にできぬほど美しいものでした」
「ほほ、御謙遜を」
史緒里と同じ気持ちを共有していたことに嬉しくなる璃果であったが、他の公家の嘲笑うかのような声にその気持ちはすぐ消えた。
「まあ、先達の皆さん、そんな意地の悪い。都に慣れようとされてのお武家様に愛想のないことで」
「ふふ、生田の令嬢も相変わらずよの」
康通が苦笑いを向ける相手は生田宮内大輔くないのたいふ家の当主、絵梨花である。代々、乃木藩とは友好的な家柄で、乃木藩の都における窓口のような役割を果たしてくれていた。絵梨花はそんな中でも特異な人物で、武家や南蛮に興味を示し、わざわざ乃木の領地や長崎に出向き、海の外にまで行ったことがあるという突拍子もない噂がまことしやかに囁かれる人だった。
「して権中納言、先の宴で歌を披露しておったものがおったの。あれはどうした?面白き才の持ち主であったが」
「はあ、それがどこかへ消えてしまいましてな。全く恩知らずも甚だしい」
「そうか」
康通はしばし残念そうな顔をした。目当ての玩具を与えられずぐずっている子供のようなものだった。璃果は内心辟易した。
「次のものと歌を合わせようと思うておったのだが、まあよい。今日はこれで最後になる。皆々の興が深まればよいがの」
康通の合図とともにこれまた少女が出てきた。作ったような笑顔に足が震えているのがよく分かる。緊張だろう。目を閉じ深呼吸をする間、周囲の音が消えていくように感じた。目が開かれると同時に澄んだ声が辺りに満ちた。
今様いまよう、でございますか」
遊びをせんとや生まれけむ、もの悲しくも希望に満ちた声がそう響いた。歌の内容はともかく、璃果はその声に強く惹かれた。
「素晴らしい、何と見事な」
宴に集まった公家から追従の声が次々に出た。これには流石に璃果も同じ思いを抱かざるを得なかった。
「混沌の世にあって『遊び』をする我らにこそ生きる甲斐を持てるというもの。そのような思いで選んでみたが、よき興を得られたかの。いろは、褒美は後じゃ。しばらく残るとよい。さて、宴は締めとしようかの」
公家たちは思い思いに感想を述べながら退出していった。これでやっと解放される。璃果の心も解放感で満ちていた。そんな折、康通が口を開いた。
「して、乃木の士は残ってもらおうかの」

邸に残ったのは璃果と史緒里、絵梨花といろはと呼ばれた少女だった。
「このいろはだが、褒美に旅を所望しておっての」
「旅、ですか」
「ふむ、芸事の上達には旅は欠かせぬ。この狭い都にしかいられぬ私も、考えを同じとするところよ」
「それで、我々にはどのような用で」
康通はふと表情をほころばせた。璃果は嫌な予感がした。
「このいろはを乃木の領内に案内してやってほしい。なにぶん物騒な世になってきておる。私には武家の知己が少ない故、生田のお嬢に話をもちかけたのじゃが、乃木の士は頼りになると、そう申しての」
「そういうことだから、私からもお願い」
史緒里と二人、顔を見合わせた。璃果は小首をかしげた。大した依頼ではないように思える、それで康通とのつながりも深められれば藩としても益が多いのではないか。そういった意思表示だった。
「お二人のお話とあれば、こちらとしても断る訳には参りませぬ。領内につくまでは彼女に護衛をつけることにいたしましょう」
「まあ、それは良かったわ」
「そう言ってくれて嬉しく思う。いろはからも礼を言いなさい」
「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」
いろはの顔にはこの都には不釣り合いな曇りのない笑みがあった。

「ふう、面倒なことになったね」
康通の邸から退去する道すがら、史緒里はあっさりと言い放った。
「いろはちゃんのことですか」
「そう。右大臣の康通公ともあろう人が他の武家とつながりがないわけがない。生田様に話を持ち掛けたのは乃木藩とのつながりを分かってのこと」
「どうしてうちに話を」
「最近動き回っている乃木藩がどんなところか、探りをいれるためかな」
「いろはちゃんにそんなことできるでしょうか」
「彼女はただ見たり聞いたりしたことを日記とでもして送り届けるだけ。それで十分な資料になるわ」
「それだと私たちに止める手段はないということですか」
「そういうこと。ま、探られてまずいことはないと思うし、康通公と近づけるのもいい話だから乗らせてもらったけど」
「つくづく都の方の腹の中は読めませんね」
璃果は邸にいる間、緊張やら困惑やらで康通の意図には気づけなかった。同時に康通と会話しながらそこまで考えていたのか、と史緒里の頭の回転に驚く。自分ももっと史緒里を支えられるようにならなくては、と決意を新たにした。
今日は晴れていてよく冷える。思わず羽織のえりを閉めた。
璃果の頭上では月がただ輝いている。

波音神社なみおとじんじゃは乃木藩の東部、粕盛山かすもりやまの山中にあって、乃木藩ができる前から歴史を紡いできた神社である。人々の信仰を失ってはいないが、古い社殿はところどころに木材の傷みが見られ、少し寂れた趣を醸し出している。
筒井あやめはそんな神社に巫女として仕えていた。朝、日が出て間もない頃から、境内を掃き清めるのが日課になっている。
「あやめちゃん、おはよう」
「与田さん、おはようございます」
宮司の与田祐希が寝ぼけまなこをこすりながら井戸の方へ向かっていく。いつものことだ。寝る前に御神酒おみきを一杯空けるのが彼女の悪い癖だった。それも一杯で済めばよいのだがそうはならないのもいつものことだった。それゆえ、朝には決まって井戸の冷たい水を求めるのである。
「あ、掃除が終わったら、御札を十体お願いね」
「分かりました」
これもいつものことだ。雇われ巫女の自分に神通力もないだろうに、書に多少通じているというだけで、祐希は御札の揮毫きごうを任せてきた。そしてそれがよく効くらしい。それで仕事が増えるものだから、あやめは困っていた。
落ち葉を集めて、火打ち石を鳴らす。近くの農夫からもらった芋を枝に刺して火にくべる。これもいつものことだった。祐希はことさら芋が好きで、毎日のように焼き芋を出しても不満を口に出さなかった。まあ、さして米が貰えないというのもあるのだが。
あやめはこういう日常が嫌いではなかった。ゆったりと時が過ぎていくことにむしろ安心を覚えていた。心がざわつくことはない、それはこの神社の美徳の一つだとあやめは思っていた。

「今日は誰かと会うって言ってなかったっけ」
「はい、祭りの手伝いをしてくれる咲月ちゃんが来てくれます」
「じゃあ、巫女さんの衣装とか用意しておかないとね」
少しばかり手に入ったお米に雑穀を混ぜ、おむすびにしたものを食べながらお昼を過ごしていた。青菜の入った味噌汁で口の中の米粒を流す。
「雨、降ってきそうだねえ」
朝からずっと雲が広がっている。少し暗いぐらいだ。天気が悪いから参拝客の足も遠くなるというものである。最近、異国の神社が領内に建ったとかで民の関心もそちらに向いていて、元々参拝客も少ないというのにだ。
ぽつぽつという音とともに雨が落ちてきた。見る間もなく本降りになった。
「雨戸閉めてきます」
あやめが社殿の雨戸を閉めていく。雨は縁側を容赦なく濡らしていた。また掃除が大変になるな、そうあやめが嘆息していると社殿に近づいてくる人影が見えた。
「葉月さん、ご苦労様です」
「あやめちゃん、祐希はどこ」
向井葉月はこの神社の門前町の代官をしていて、町衆の人望も篤かった。祐希からも信頼されていて、二人でよく酒を酌み交わしている。といっても今日はいつになく気ぜわしかった。
「どうかされたんですか」
「神社の階段で誰か倒れてる。一人じゃ抱えられなくって」
「それは大変、すぐにお呼びしてきます」
巫女の衣装を揃えている祐希に事情を説明し、雨の中、階段へ向かう。
女性が倒れていた。あやめよりは少し年上に見えた。短く揃えられた髪と切れ長の目があやめの印象に残った。身にまとったものはぼろぼろで、どこからやってきたのか、草履も擦り切れていた。
「体が冷えてるな」
「とりあえず社務所に運びましょ」
葉月と祐希が女性を抱えて、あやめが二人の傘を持った。女性のたもとからころんと木の札が落ちてきた。あやめはそれを拾って自分の懐に入れた。
「ちょっとあやめちゃん、傘、傘」
「はい、今行きます」
雨はどんどん強くなっていく。
三人を濡らさないようにあやめは両手に傘を高く掲げた。
自分の肩が濡れていくのを感じる。
冬の雨は冷たくて、あやめは少し身震いした。


ここまで読んでいただきありがとうございました。
こっそり続けていきたいと思います。

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