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【雑感】世界の終わりと「君たちはどう生きるか」ワンダーランド

映画『君たちはどう生きるか』のことを聞いて(何も聞いてないが)、思っていたことが繋がって出てきたのでメモしたものです。

宮崎駿はずっと「世界が終わろうとしている時、或いは日常が終わる時、どう生きるか、ということを描いていたと思う。
終わりを止めるために行くのか(ナウシカ)、
目の前にいる一人の人を愛するのか(未来少年コナン、これは映画主題歌の歌詞)。
”明日世界が滅びようと私はリンゴの木を植える”のか、
愛する家族とともにいようとするのか。

新海誠『天気の子』では「世界」より「目の前にいる一人の人」を選んでいた。「世界も君も」救けようとするのではなく「君を」選ぶ っていうのは、すごいこと言い出したなと思った。
もっとも 今の状況を続けられないだけで、世界の終わりなんかないとも言える。
岡崎京子は確か『くちびるから散弾銃』で「終わるならいいんだけど終わらないんだよ、それが問題なんだよ」とか言ってた。宮台真司も『終わりなき日常を生きろ』と書いた。
終わることは絶望ではなく むしろ終わらないことが絶望的だ。世界の終わりもだけど、終わらない世界も、どう生きるか覚悟がいる。

命の手触りの実感を持っているであろう人たち=宮崎駿に この絶望が分かるだろうか。逆に 終わりなき日常を生きる人たちは、自分の命や肉体が終わること、それが大規模にだって起こり得るということを、実感的に想像できているだろうか。
その理解なしに、世界の終わりやどう生きるかという問いを、投げたり受け取ったりすることができるだろうか。


また、
白倉由美だったと思うが「今夜世界が終わるっていうのにどうして僕たちはそれぞれの家に帰るんだろう」というようなことをどこかに書いていたと思う。(うろ覚え)
大人が愛する家族と一緒にいようとする時、子どもたちは何を諦めるのか。

リンゴの木を植えにいく者の背中を見送る人は、最後くらい世界ではなく自分と向かい合って側にいて欲しいと思いはしなかっただろうか。誰かが「すばらしいこと」を成し遂げる道を選ぶ時、選ばれなかった方には何が残るのか。(この辺はプロジェクトXやプロフェッショナルを観てて思う気持ちに掠っていく)

誰かの気持ちを犠牲にせずに、自分がどう生きるかということを貫き通すことはできないのではないか。

だからと言って、
自分がやろうとすることやるべきだと思うことを諦めることもないし、
選ばれずに諦めてそこにあること、自分の気持ちを諦めて誰かの希望を通すことが、不幸だという訳ではない。

「どう生きるか」ということは世界とは関係なく、その後の問いだという気もする。
押し通したり なんでか分からないけど家に帰ったりしなきゃいけなかったりした後、
世界、誰か、ではなく、どう自分があるのかということ。

とりとめもない雑感でした。

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