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やがて小沢も消えゆく駅生「トンネル餅」となぜそこで西村計雄が評価されているのかぼちぼち学んで見る。

どちらかといえば、タイムテーブルまで掲げられた
ので、新番組の確保までは順調。積み残してや、と
して書こうと思っていた二本くらいは崩せたので、
残りはよくぞアニメ化に漕ぎつけてくれた、って
評価が定まっている(ちなみに棘経由からの単行本派)
『4人はそれぞれウソをつく』のラス1だけに
なりました。

2023年第1クール(新春)アニメもある程度
上がりきってきたので、時間表(タイムテーブル)
に落とし込む段階に。ひとまずこれで大凡の
タイムテーブルを上げてみます。短評と視点
ポイントを紙魚(しみ)にならない程度に付けて。
|torov|note

 まあそちらのテーマで書くのもいいんですが、
こちらの方がより懐かしの地元ネタで偲ぶ部分も、
また学んでおく部分もあるのかな、ってことで
駅生「トンネル餅」を私なりの視点で偲んでおこう
かなと。

塵売しかソースがないのには参りますが、やはり
鉄路廃止の前に二人羽織のバランスが崩れて
万策尽きたのか。

末次商会の3代目、末次敏正さん(65)と
母セツ子さん(87)が製造

セツ子さんが6月に病気で一時入院したため、
(2022年)同月末で閉店した。末次さんは、
事業を人に引き継ぐことは考えていないという。

トンネル餅製造・販売終了/JR函館線・小沢駅名物(2022.08.05)

 塵ならいつ塵芥に消えるのか、ほとほとたまった
ものではないので要点だけ抜き出しておきます
(まあそれが保全作業としての基礎作業)。
 岩内線廃止は1985年のことか。

 小沢駅といえば昔は岩内線との結節点で、
賑わいのある中継点だった。下道で行く函館行きの
ルートには随所に甘味や弁当を駅逓のように
販売しているお店があって、それを廻るのも函館
旅行の「旅情」と「困難」にスパイスをもたらしていた。

伯父は高速に乗るのをよく節減していて、
たびたびこのルートでこちらの方面に来ていた。
 札幌側から行くと小樽で花園だんごを確保し、
余市のニッカでシロップか、蠣崎商店で食材を確保
したら、倶知安に出る前に立ち寄るのが「トンネル餅」
の末次商会だった。

(長万部の蟹やデンプンせんべいは無縁だったから、
この後は八雲のケンタッキーに行くか、森駅の前で
いかめしを買い、大沼の「沼の家」で「大沼だんご」である。

上を削っての高規格道路が出来る前は律儀に旧道の七飯
(松の木の通り道、だっけ)を通って函館まで行ってたから、
「所詮七飯と大野(渡島大野)じゃん」と侮られるくらいの
野郎自大な市町村合併とその後には呆れた。

方位称のつく合併市町村名に当たりなし、である。

もっとも小沢もまたその遥か前に合併したため残されたのは主に
駅名だけであり、それが、また一層せつない)

 「トンネル餅」の説明と経緯はどうせ塚田さんの
情報メインで取りまとめて語るとして、一度寄った
時に道案内で書いてある「西村計雄記念美術館」は
記憶の片隅に置いてあった。

http://www.musee-nishimura.jp/sp/

なのでそこに対する「どうして(この人の評価が
高いのか)」をウイキペディア等で整頓しながら、
ここはぼちぼち学んでおくフェイズなのかなと。

で端的に言えば今の世の中で軽んじられている
「平和に対する絵画」の名手で、むしろ北海道
よりも広島や沖縄で絵画が評価されている人では
あるのか。
 同時代人としては細野不二彦のまんが及びアニメ
『ギャラリーフェイク』で脚光を浴びたフジタこと
藤田嗣治と並び称される人で、現在の東京芸大に
あたる東京美術学校時代の同期は岡本太郎や東山魁夷になるか。

 戦後渡仏する前は早稲田の中高で教えていて、
永六輔の先生だった、ってのも興味深い。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000197275


 沖縄では連作絵画「戦争と平和」が有名だそうで。これは一作目の沖縄に熱き想いを、か。

 そんな北海道小澤村(現・共和町小沢)に生ま
れた西村計雄の父が和菓子職人として1904(明治37)年の小沢駅誕生からずっと駅前で売られ続けていたのが掛紙も全く変わらなかった名物「トンネル餅」である。

明治37(1904)年、小沢駅の誕生とともに発売
されたこの駅生だが、なぜ「トンネル」の名が
ついたのだろうか。
 その由来には2つの説がある。一つは、仁木町
との境界を貫く稲穂トンネルの開通を記念したと
いう説。もう一つは、稲穂トンネルの反対側に
倶知安トンネルがあり、2本のトンネルに駅が
挟まれることから命名されたという説。

いずれにしても、山間部の鉄道敷設や駅の開業は、
トンネルの開通なしにあり得ない。そうした意味
からも、「祝祭」のシンボルとしてトンネル餅と
いう駅生が生み出された、と筆者は解釈している。

塚田敏信「ほっかいどうお菓子グラフィティー」
(亜璃西社,2012.02)p26「トンネル餅」

 ただ鉄道からも一般道からも来やすい条件の
この駅と店舗が利用しやすいのは一面として国道
5号線沿いにある、って利便性(結節点としての
役割)も確かにあると。

 創始者は、小沢村(昭和30(1955)年、他村
(前田村、発足村)との合併で共和村に)で和菓子
を営んでいた西村久太郎。

塚田敏信「ほっかいどうお菓子グラフィティー」
(亜璃西社,2012.02)p26「トンネル餅」

初期はさわや合資会社として、弁当から酒類、
果物から牛乳まで手がけていたらしい。
 発足村はらいでんすいかの産地としても有名な
発足(はったり)地区のことにはなるのか。

材料の入手が難しくなった戦中には、トンネル餅も
製造を中止。戦後、父親が営む鉄道弘済会に勤めて
いた末次敏伯が、末次商会の名でタバコや食料品を
扱う売店と食堂「伯洋軒」をはじめ、昭和27年には
トンネル餅の製造を引き継いだ。

塚田敏信「ほっかいどうお菓子グラフィティー」
(亜璃西社,2012.02)p28「トンネル餅」

一応堂珍の2015年の記事ではいささか別の角度で
異なる記述もあるにはある。

表面の黄緑と桃色の線は鉄道レールを表現した。

製造が一時途絶えたが、50年ごろに(末次)敏正
さんの祖父賢逸(けんいつ)さんが引き継ぐ形で
再開した。

中務航志「地元で愛されるここだけスイーツ」
末次商会のトンネル餅(北海道新聞2015年5月22日掲載)

こっちの記事は稲穂トンネル説で書いてたかな。
この取材時59歳の末次敏正さんは3代目として
紹介され写真にも映っている。

現在は、敏伯の妻セツ子さん(昭和9年生まれ)
と長男の末次敏正さん(昭和31年生まれ)の2人
で店を切り盛りし、トンネル餅一本で商いを続けて
いる。誕生から100有余年たつが、作り方は
もちろん、大きさや形、掛け紙のデザインに至る
まで、ほとんど変わっていないというからすごい。

塚田敏信「ほっかいどうお菓子グラフィティー」
(亜璃西社,2012.02)p28「トンネル餅」

やがて小沢も消えゆく駅生「トンネル餅」。
 駅生とは塚田さん提唱の駅弁のように
駅のホームで売られていた生菓子のこと。

侮られるくらいの野郎自大な市町村合併と同じ
ようにこの地域を覆っているのは在来線の廃止と、
無責任なトンネル作りで無用の新幹線を空疎に
通そうとしているあたり。かつこれに泊原発の
レイヤーが重なっているわけですが。
 まあ結局小樽から倶知安の便も少なく(小樽
から余市まではそこそこ乗客もいる)、倶知安から
長万部までが今や一日4便とかだと、利便性に
乏しいにも程があるわけで。

 これで小沢も駅の廃止、名物の消滅で共に消えて
いく消滅地帯と化しそうですが、果たしてこんな
推移でいいものなんだかを学ぶ上で、少しつらつら
と述べてみた甲斐だけはどうにかありそうで。

 西村計雄と「トンネル餅」を中心に、でした。
最後までお読み頂きありがとうございます。

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