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ポケットラジオの存在がわからない人達もいれば、「ゆとり」は筆記体を学習していないから、それがオプションで身につけないといけなくもなる特訓材料になったり、「紛らわしい」の亀裂にヒビを入れることにもなる。まあ伝達と(伝承と)審美眼がないから「やがて(企業風土が全部ダメと指をさされる)ワンみずほ」になってやらかすんだろうけど。

曲の振り割りを調整しなければならなそうなんだけど、
既に二度ほど〆切時刻をブッチしてはいるので、ここは
昼までに一本軽く仕上げる締切設定でも置いてみますか。

シリーズFILE 2.西脇唯編〜アニメ・ゲーム主題歌を
歌う「歌姫たち」からの影響の受け方。|torov|note

「光栄中心でゲーム音楽から来た」。まあここは外伝的に
一括(ひとくく)りしておいた方が良さそうな人達の来歴を
こっちで括って語ってみる。|torov|note

 となるとここはやはりこの時期にやっておこうと思える
ようなリライトをかますのが自然といえば自然か。

 まあラストの厭気がやはり京都ってヤツでまだ近くの
アニメ化に『であいもん』がある以上、折角観てもつる
つる滑るのED罰ゲームとか、それとは別に10周年で
アイカツは映画やってて関連番組もある、となれば無理して
『もののがたり』に執着する理由は何もないと判断。
『もののがたり』を切ったのが今季のアニメ視聴動向、
ってヤツでしょうか。

 たまたま時間が合ってフォローしきれた「A-studio+」の
宮野真守回はいい感じにコミュニケーションが取れていて、
浪川乱入まで含めていいエンタテインメントになってた。
マモはかくあるべきで、ちゃんと「褒められたい」が前面
(フロント)に展開出来てこそのマモであるかな、と。


 まあラフ×ラフ(佐久間宣行PDが乞われて結局責任を
被ることになった矢鱈とお笑いを含めたバラエティ応対に
強いアイドルユニット)のメンバーの一人が形状としての
「ポケット(携帯型)ラジオを知らなかった」ってハナシが
つべで出てましたけど、そういや歴史はぶり返す、でしたっけ。

賀東招二|note

 ちょうど賀東さんも手がけていた『氷菓』のあたりで話題に
してたのが「ゆとり教育世代はそもそも筆記体を学習して
いない」でしたっけね。
 『アイカツ!』初期の綾奈ゆにこ脚本回(6話)だとだから
それ(筆記体の練習)が特訓に早変わりするわけだし、『氷菓』
6、7話あたりのインターリュード(導入部)的なキャラ掘り下げ
で、筆記体が絡んだ日常トリックの話題が出てくるんですが、
そのあたりをリライトしてみる。

氷菓 6話
で、今回の話だけど、ふーんって感じ。数学教師だからクラス名
を小文字で書くってのが説得力なかったのが原因だが。むしろ、
数学教師ならクラス名で間違えないように大文字を使うと思う。
僕が中1のときに数学教師から1学期に学んだことで一番印象的
なのは、bは数字の6、qは数字の9と間違いやすいから筆記体で
書けと言われたことだったり。

2012-05-30

で、これに対して付けたレスポンスがこれか。

>bは数字の6、qは数字の9と間違いやすいから筆記体で書けと
>言われたことだったり。
これが「ゆとり」以前の教育受けてる人だとわかるけど、残念
ながら「ゆとり教育」で「筆記体を習っていない」、って断絶が
起きているのは結構近頃のネットでも話題の端に上っている、
って話でもあったり。

(平成12(2000)年度の中1から「指導しなくてもよい」ことに
なってたそうで。そもそも「向こうは書道の概念がないので
「字のきれいきたない」が理解しにくい」土壌があった上に
ネットの普及で「わざわざ手で描かなくてもいい」ことから
ほとんど筆記体が絶滅危惧種化しつつある上でこの断絶がある
から、事態は一層深刻にダメな方向に向かっているのだけど)

2012-05-30のコメントレス

 まあこういった学習効果のミスリードやアンジャッシュを
大きくさせることで「言語カーストの助長を引き起こす」を
やらかしては本来ならない、のハズなんだけどねえ。

 似たような話は「恩氏来たりて笛を吹く」とも言われたことの
ある審判のジャッジと「オブザーブ(観察者)としての審美眼」
との相性の悪さ、ってヤツがあって、昔2ちゃんねるの時代は
主にそうした部分の齟齬(おだって見境のないジャッジと審美眼
にそぐわない結末との乖離)を総評して「ドイエ(ドゥイエ)!」
とも呼ばれた時代があった、って話もかつてはあるんだけど。

https://wiki3.jp/2ten_archive/page/26#content_header_main_content_h3_4

 まあここを深く展開すればもう一回分、って感じですが、
ここはあくまで「一本軽く仕上げる締切設定」。
 そことの相性が悪いので、ひとまずはそんな話題の提起までに
留めることにでもしましょうか、ではあると。

 ただ、理解されていることとしては「かつての美しいジャッジ
は講道館の観客の冷静な視線と目線と審美眼によって作られた
ものであり、際物という名のインターナショナルに擦り寄れば
寄るほどそれはおだち過ぎて歪(いびつ)にも酷くもなる。
篠原対ドゥイエの国際大会(オリンピック)決勝で観られた
世紀の誤審は際物に擦り寄り過ぎてカザツになった審美眼のない
ジャッジの醜(みにく)さが引き起こした必然的な亀裂の証で
あったといえる」。


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