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【ネタバレ注意!】呪いについての考察。~『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を観て~

※映画及びテレビシリーズのネタバレ注意!

 12月12日。私はついに、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を映画館で鑑賞し、巷で言う「入村」を果たした。

 助けて……誰か助けてくれ……。

 まだ私はこの映画を咀嚼できていない。

 私の頭の整理も兼ねて、今日はこの映画を含む、『鬼太郎6期』の世界のことについて書いていこうと思う。

私と鬼太郎。

 私が鬼太郎と出逢ったのは16年前。ちょうど私が物心ついたぐらいの頃で、当時は第5期が放映していた。5期はシリーズの中でもヒーロー色が強い方だったように思える。妖怪四十七士などご当地妖怪にスポットを当てる回もあり、私の人格を形成したといっても過言ではない作品である。
 しかしこの5期、ストーリーとして展開されていた西洋妖怪との戦いに決着をつけぬまま、100話というタイミングで放送を終了してしまった。斯くして私は不完全燃焼な思いを抱えたまま、11年の月日を過ごすことになる。
 2016年。突然、何かに呼ばれたように、私の中でゲゲゲの鬼太郎が再熱した。口を開けば鬼太郎6期、あっちで鬼太郎。こっちで鬼太郎。そんなある時、私はLINEニュースで衝撃的な文言を目にした。

『ゲゲゲの鬼太郎 新シリーズ制作決定』

 変な声が出た。私の願いは叶えられた。また鬼太郎に会える!
 そうして私は再び、妖怪のいる世界に片足を突っ込むことになったのである。

 『ゲゲゲの鬼太郎』は「見えんけれどもおるんだよ」と、「自分には見えない世界」について、常に私たちに伝えてくれる。見えないものを理解すること、拒絶せず知ろうとすること。そういったメッセージは、今の私の持つ、好奇心の源になっていると思う。見えないものは、それを長い間見ようとし続け、触れ、究めていくことで見えるようになっていく。私は願わくばそうありたい。そういう意味で、妖怪たちの在り方は私の目指すところでもある。

(ここから私怨:逆に、自分も見えていないのに、自分だけが見えた気になって、他人の意見を拒絶し、自分の意見を押し付け、あまつさえそれによって他人に害をなすような陰謀論の類いを私は蛇蝎のごとく嫌っている。あれを自然に息づく神や妖怪の類いと一緒にしないで欲しい。陰謀論にはいつも人の意思が絡んでいるというものである)


映画を観て

 これはTVアニメシリーズでもそうだったのだが、6期鬼太郎は「呪い」について頻繁に描写していると思った。幽霊電車の回ではパワハラを行っていたサラリーマンが被害者たちの霊によって命を落とし、その死に気づかないまま幽霊電車に乗っていたし、くびれ鬼の回ではそれは「呪いのアプリ」として現れた。人々がスマホで呟く誹謗中傷などが呪いとして名無しのもとに集まるという描写もあり、現代でも、儀式などではなく何気ない日常で、人が人を呪うということがあの世界にはある。「呪いのアプリ」は作中ではアプリストアにある他に、名無しの干渉によって呪われた相手のスマホにも現れ、3時間以内に呪う相手の名前を書き込まなければ自分が呪われるという仕様であり、全てが終わったあとには、目玉おやじが「呪いは呪いしか生まない」とまなを諌める。呪いは連鎖するのである。

 『ゲゲゲの謎』でも、それは「死相」や「狂骨の呪い」という形で、如実に描き出されていた。水木太平洋戦争で殺めたであろう人たちの魂が、水木を死の方へと引き寄せる。龍賀家が殺してきた幽霊族の魂が、連れ去られ媒介にされた人々が狂骨となる。元凶がいなくなっても、一度作り出された呪いは国をも滅ぼす勢いで伝播するし、最終的にゲゲ郎を一度殺めてしまった。『ゲゲゲの謎』を観てから先述のくびれ鬼の回を振り返ると、胸に来るものがある。

 ではここでいう「呪い」とは何なのか。もしくは、何が引き起こしていることなのか。個人の見解に過ぎないが、私には思い当たる節があった。

 『ゲゲゲの謎』には、全編通して、「誰かが誰かを蔑ろにする」という描写が散りばめられている。水木を駒のように扱う血液銀行の上司。部下に玉砕を強いながら、自分は命拾いしようとする、従軍時代の上官。幽霊族をジェノサイド(そう言って差し支えない所業だと思う)してきた長田乙米。沙代をよってたかって苦しめた時麿庚子。そして、幽霊族やさらわれた人間、沙代、時弥、岩子やゲゲ郎に至るまで、ありとあらゆる物を搾取し尽くした時貞翁。……水木も、沙代の純情をどっちつかずで終わらせようとし、向き合おうとしなかったという点では、ゲゲ郎の指摘の通り、「蔑ろにした」という部分に含まれるかもしれない(断るならばはっきりと断る、というのがもっとも筋が通っていると思うが、それをやると水木の命が知れないので、ここは何とも言えない)。そこに意識して人を傷つけようという意思があるかどうかは関係なく、誰かを軽んじる行動そのものが「呪い」の最小単位であり、軽んじられて傷ついた心がそれを受け入れるになるのではないか。沙代が屍と化した被害者たちに協力を募る場面を見て、そんな考えがよぎった。
 蔑ろにする側の人間は往々にして、される側のことを考えない。時貞乙米は「この国に再び輝かしい勝利を!」みたいなことを言っているが、彼らの見た「栄光」とは、弱い存在を搾取してはじめて成立するまやかしに過ぎない。少なくとも時貞・乙米の両名が見たそれは、実際の世界とは異なる、修飾されたものだろうと思う。それはゲゲ郎の言う「見ようとしないだけ」というのと等しく、蔑ろにされた側の苦しみを少しも慮らなかった、見ようとしなかった結果、みんな当て付けのように目をやられた。

 更に闇深いのは、ここに至るまでの間で、「再生産」が起きているということである。例えばは駆け落ちしたにも関わらず、連れ戻されてしまった。その点では搾取を受けた側の人間であるし、他の姉妹も、時貞から被害を受けている。=彼女たちは踏みにじられる苦しみを少なからず知っている。その筈なのに、本編の時点ではそれを考えることができず、自分が踏みにじる側に回ってしまった。それは、時貞が支配してきた龍賀家の体質によって形成されたもの。まさしく、時貞が発端となり作り上げた呪いと言って良いだろう。

 人が人を蔑ろにし、心を傷つけ、蔑ろにされた相手に呪いを植え付ける。植え付けられた呪いは育まれ、今度は傷つけられた側の人間が傷つける側に回る。そしてまた、その人に傷つけられた人間が……。そうやって、呪いは繰り返していく。それは極めて些細なきっかけであっても植えつけられるものであり、国を滅ぼすほどの規模になることもある。再生産が起きるから、争いは終わらない。

 けれど、だからこそ、穴ぐらで鬼太郎の泣き声が聞こえ、幽霊族の怨念が一斉に静まったとき、新しい幽霊族の誕生によって、彼らの心が少しでも救われた、楽になれたのだと思ったら、涙が止まらなくなってしまった。それまで血を吸われ、苦しみの中にいた彼らが、一瞬でもそこから解放されてくれたなら。こんなに嬉しいことはない。ゲゲ郎がまず羽織り、水木に託され、今は鬼太郎のもとにある霊毛ちゃんちゃんこ。鬼太郎への祝福と希望の象徴であるそれ。幽霊族の霊毛が一本一本編まれたそれは、この物語における数少ない救いのひとつだと思う。

おわりに

 ここまで書いて、だいぶ頭の中がすっきりした。この作品には現実世界にも起きている被害などが描かれているため、ここが良かった、あそこが萌える、みたいな感想は慎重に言葉を選んでから、まとめてnoteに書き散らそうと思う。
 最後に思うのは、鬼太郎が生まれてきてくれて本当に良かった、ということである。6期の紆余曲折を乗り越えて、生き続けてくれていることを、私はかつてないほど嬉しく思った。
 

 公式HPで色々おさらいしたい方はこちら↓


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