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ちょっとした未来予測と、その時に僕が選ぶ働き方

カフェと教育。今しているその働き方は夏で終わりにします。

8月からはデンマークの「フォルケホイスコーレ」に留学に行き(いつまで向こうにいるかは未定)、
帰ってきた後は介護の仕事と農(とその時にご縁のあること)をしようと考えています。もちろん現時点での話であって、変わるかもしれないのですが。

子どもの教育というキャリアは手放すし、せっかく入ったカフェという場所からも離れるかもしれません。
(※投稿後追記:10年勤めた「教育」分野について話すときアイディアがよく出てくる自分。僕にとってアイディアは熱源なので大事にしたい。となると仕事の一部として「教育」を残しておくことは必要かもしれない、とその後考えるようになりました。「学校教育」は終わりにすると思います。)

でも僕はこの選択をもったいないとは思っておらず、むしろとても自然で合理的だと捉えているのです。その背景には、僕なりの未来予測があります。


ちょっとした未来予測:生活に必要なお金はそれほどいらなくなっていくだろう

僕らが生活していくために必要なものは、衣・食・住・インターネット・人間関係。

今後AIがさらに発展して限界費用ゼロ社会に近づけば、そこまでこだわりのない生活必需品(今の僕にとってはコップや歯ブラシ、スマホ、スマホの契約プラン、服など)はどんどん費用がかからなくなっていく。住環境も、空き家が増えれば家賃が下がっていく。

よく言われるように、モノ余りになりシェア型の暮らしが当たり前になる。「お金」よりも「そこに流れる時間」「人間関係」の方が大切になってくる。

お金がそれほど必要なくなるということは、年収アップのためのキャリア選択をしなくてよくなるということ。であれば僕は「自分の人生にとって大切な経験を積む機会」として仕事を選んでいこう。今はそう考えています。

年収アップのための選択をしなくてよいのなら、「もったいない」キャリア選択もなくなる。キャリアアップという言葉自体が古くなるかもしれないですね。「セルフアップ」の方が感覚として合う。キャリアをアップさせるより自分を磨いていくこと。

だから僕にとっては、介護と農。身近な人がそういう状況になったとき、少しでもサポートできる力を身につけておく。仕事やお金の多寡にかかわらず生きていける安心は揺るがないよう、自分が食べるものは自分でなんとかできるようにしておく。

それがあれば生きていける。僕が一番ほしいもの、大切だと思うあの人に僕が一番手渡したいものは「人生への安心」です。
安心を確保することで自分のチャレンジを最大化する人間。それが僕。


ちなみに「お金」について言えば、僕はこの言葉が好き。そう、魔法、解釈、楽しみ、工夫、実験が日々にあれば良い。

お金があってもなくても、暮らしのなかに「楽しみ」は見つけられるはず。必要なのは、「お金」ではなく魔法をかける力です。


いま僕が考える「お金」

「安定」の公務員を離れ、「転職」をするわけでもなく複業をする。

この働き方をしてよかったことの一つは、お金について考える機会が日常に組み込まれていることです。

公務員の「安定」、民間企業でもそうでなくても一つの仕事に就くということは、僕にとってはお金について考えないで済むようにする、ということだったのかもしれません。

個人としてきちんと生活をしていく。それを大切に考えるいまの僕。そんな僕が思う「お金」の意味は、次の二つです。

①自分でできないことを代わりにやってもらう
だから時間をかければ解決することも多い。だからそうした時間をもてる生活=働き方にすれば解決することも多い。
お金を払うことは「プロに任せる」ことであり「自分ではできないことにする」ということでもある。自分はその能力を取得しなくて良いということだから、力が下がることでもある。

その境界線は見極めたいのです。魚や肉まで自給しようとは思いませんが、野菜とお米というサバイバルラインは自分でできるようになりたいのです。
そしてプロにお願いするときは気持ちよくお金をお渡ししたい。近しい人にお願いするなら定価以上にお渡ししたい。


「お金」のもう一つの意味は

②この社会にいるための入場券、参加費
だからこの社会にいたければ税金などをちゃんと納める。僕は今のところ日本で生きていたいと思っています。ですから市民税もろもろは必要になる。


もちろん時々の旅や良い食事、カフェでの時間、誰かへの贈りもの、靴下で遊ぶちょこっとオシャレ。それらが僕は好きだから、そのためのお金は僕にとって大事。そんな意味もお金にはある。

でも教員時代のように「生活」にかかるお金は何万円もなくて良いのではないか、とも近ごろは思うのです。


仕事の一つの側面はお金を得ることであり、それは生活をするため。その繋がりが弱くなる未来では、働き方も変わってくる。

そんな風に変わっていく世界で、僕はどう「働く」ということをしていきたいのか。大切にしたいことは何か考えると、いまは次に書くような内容が挙がります。


お金のために働かなくてよいなら、僕が働くとき大切にしたいこと

あくまで今日の僕が思う暫定的なリスト。でもそれで良いのです。きっとこうだろう、これが確かなのだろうと思えることを、いったんここに書いておくのです。

それは結びをつくることであり、ゲームのセーブポイントをつくる感覚。いつでもここに戻ればいいし、これより前にはもう戻らなくていい。迷ったらまたここから始めればいい。この先に確かなものが見つかればその時にまたセーブポイントをつくればいい。
そういう気持ちで、今ここに書いておきます。


①仕事との距離感が適切であること(週3理論)

「週3の壁」があると僕自身の実感から考えています。その仕事をするのが週2なのか週3以上なのか、日数によってその仕事が自分の中で占める割合が大きく変わる。距離感が変わる。

週2以下だと情報に追いつけないので距離を取らざるを得ない。結果として冷静さや客観性を保つことになり、スポット的な関わりで、限られたタイミングで全力を出すことになる。

週3以上だと逆が起こる。組織を左右する大きな役割も担えるようになる。アンテナを張る情報量も、向ける精神的エネルギーも大きくなり、「この仕事が今の自分にとって大きなものを占めている」という感覚になる。その仕事の中で自分を満たそうという気持ちも起こる。

どちらにも良さがあるのです。僕の場合「仕事として関わる子どもの教育」は週2以下がよさそうだと分かったところです。
(さらに言えば身体的にも距離をとれるオンラインの方が合っている)

働くって、「教育」「飲食」「福祉」という大きな世界の中に、ちっぽけな自分が入っていくような感覚になることがあるけれど。
等身大で対等でいて良いのだと思うのです。


②興味を自由に走らせられること

僕の興味関心は、まるでビリヤードのようなもの。一つのことをすれば派生する興味がどんどん出てくる。つまり僕は実験していたい人。気まぐれ、気分、思いつき。

フルタイムのように一つの仕事が自分の中で多くの割合を占める場合、それは難しい。

次々といくつも興味を並走させられること。もちろん「一つをとことん」もできること。もちろん「何もしない」もできること。それが僕にとって大事です。


③持続性があること

近ごろずっと僕の中でキーワードになっているのが「持続性」。個人の働き方としても、組織や事業を見たときにも。

この立場だから言えることなのは重々承知の上で、事業を始めたり人を雇用したりすると、取れる判断、取れない判断が生まれてくる。何かを始めると、それが思いもよらない形に発展していく。
ですからここに書くことはこの立場である僕だから客観性を装って好き勝手に言える内容ではある。

ただ、こんなことも忘れてはいけないと思うのです。「繁盛する」ことは願っても「忙しくなる」ことは誰しも望まないこと。でもその二つは同時に起こりやすく、働く人を疲弊させやすいこと。そして忙しさで「仕方ない」が積み重なって、感情を後回しにして、いつか「諦める」に変わってしまうこと。

それは本当に悲しいから。今の僕は「健全な持続性」に強く関心を寄せています。変化してよい部分と、変えずに保ちたい部分とを見極めたい。

今の僕なりに言えば「小ささを守ること」であり、それを守れる範囲で個人の生活も組織の事業も組み立てること。


個人であれば一日〇時間なら心地よく働けるということ。もちろん10時間でもガッツリ動ける日もあるし、頭を回転させてどんどん仕事を捌く楽しさもある。でも忙しさは気持ちを疲れさせますから、そんな日は1ヶ月に1~2回くらいが良いです、僕は。

僕の場合、一日3~4時間くらいが一つの仕事に対してちょうどよい心地よさで関われる時間みたい。冬はやっぱりきついので、その時期には日数を減らせるとかリモートワークができることも大事。
(実際にこの範囲でしか仕事をしないかは別として、いったんワガママに自分の希望を書いてみても良いと思うのです)


組織や事業について言えば、いかに損益分岐点を下げるか、あるいは理想的な損益分岐点を見つけるか。

人気で、満席で、いつも追われてしまう。それが本当に良いことなのか。忙しさはやっぱり気持ちを疲れさせるから。時間をつかって、精神力をつかってその場はなんとかできても、長くは続けられないから。

目の前の人に丁寧に応じたい気持ちがあわただしさに追われると、精神的せめぎ合いになるから。いつまで耐えられるか頑張れるかの勝負に変わってしまうから。
(教育でもカフェでも同じこと)

収支がプラスであれば貯金もできるし、絶対に安心する。でも「プラマイゼロなら続けてはいけるんだよ」って、それは悪いことじゃないんだよって、じゃあいったんそこを目指して良いんだよって僕はいま思っている。

誰にも無理のないプラマイゼロのライン。

僕らは相手のために身を削ってしまうことがあるから。教育で言えば「子どもの学びやすさ」を追究するほど教員の時間は無限に必要になる。だから必要なのは「教えやすさと学びやすさ」の両立だということ。

良いものが続かないのは悲しい。良いものだから届けたくて尽くし過ぎて自分に無理がたまる。
良いものが現実との精神的せめぎ合いの中で(精神力を削って頑張った結果として出るのではなくて)素直に軽やかにのびのびと出てほしい。

ここは譲りたくないと、僕自身の経験から思うのです。

支出を減らすことよりも、決定的なのは収入の上限を決めること。つまりどれだけ働くか、どれだけ自分をあわただしくするかを決めること。

僕はそろそろ「収入を減らすチャレンジ」をしようと考えています。
実はそんなに働かなくて良い。実はもっと違うことに時間をつかって良いはず。


④自分にとっての「その仕事をする意味」を感じられること

複業に向く人は、意味づけができる人だと思っています。一つひとつに意味を見出せるから、同時並行も切り替えもできる。

意味づけとは、テーマを見つけることとも言える。

いま教育の仕事をしているのはこれまでの僕と地続きな部分を残すためであって、カフェは学生時代にやりたくて叶わなかったことだし自分を広げること。介護はいずれ自分に必要になることであって更に言えば人生の先輩と関わることであって、農は生きていける安心のため。

その時々で自分に必要なことをして、それを自分の中に要素として残していく。教育、カフェ。介護と農。どれも考え方として、あるいは具体的にできることとして、僕の中に一生残っていく。

新しいものがまた出てきたらそれを自分の色として加えていく。そうして長い時間をかけて自分の人生をつくり上げていくのだと思います。

僕はそうした「長い時間を通した教育life-long eduation」に関心があって。同じく自分の人生をつくろうとしている人と一緒に、あーだこーだと話していたい。

そうできる自分であれるかどうか。常に発展途上であって、面白がって悩んで苦しんで試して迷っていられるかどうか。それも僕が仕事を選ぶ基準になってくるのです。


⑤人生を省略せず実感が伴うこと

お金に頼るとは省略することだとも言える。「便利」によって生み出した時間で何をしているのか。これは大切だと思う感覚を手にしているか。「便利」って、そうしたものはもたらさない気がしています。

買えば済む野菜をわざわざ育てる。ルンバがやってくれる掃除を自分でやってみる。「便利」に頼れば省略できるそんな手間暇。でもそこで感じられるものがきっとある。

省略せず、自分の身体をつかってやってみる。それはきっと僕にとって、色々なことを感じられる装置を組み込んでおくということなのです。

日々の中であわただしたさに追われて見過ごしてしまうもの、流れてしまうものに目を止め受けとれるよう、引っかかるポイントや立ち止まるポイントを多くもっておきたいのです。
エアコンは快適ですが、「暑いねー!」と言いながら風鈴の音に涼を感じられる生活の方がずっと豊かじゃないか。どうしてもそう感じるのです。僕はそっちの方が良い。


僕の日々とはきっと、省略せず、人生を時間を生活を感じていること

こう書いてみると、やっぱり僕のテーマは「人生」や「時間」や「生活」です。僕なりに日々を丁寧に大切に、感じるものを感じていられること。

空を見て、鳥の声を聞いて、花が咲いたねと話して、春だね光の感じが変わったねと交わして、空がオレンジになり始めたから夕焼けを見に行って、良い夜だからちょっと歩こうよとお誘いして。

季節の干し野菜をたっぷり入れたお味噌汁と土鍋ご飯が美味しくて、たまには横に卵焼きも添えて。日々のくり返しを愛おしみながら巡る季節の中に生きて、そんなことに時間をかけて。

春の訪れを喜んで、夏が来たねと楽しくなって、秋の彩りに気持ちが踊って、冬も良いねと身を寄せ合って。

頭で描く形が実現しなくたって違う形で願いは叶うことがあるって心に留めて、自分が考えるより想われていることにできる限り気付くようにして、僕の心に届いてくるものをたくさんたくさん受けとって。

だから仕事だって、プログラミングやデザインよりも介護や農に向くのはこんな僕にとって自然なことだと思うのです。

こんな僕には、ゆったり流れる時間が必要だから。

資本主義じゃない世界観で僕は生きていくのかもしれません。

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