好き嫌いの基準。

令和3年9月30日ゼロ円ハウス3日目。

昨日の疲れもあり、あっという間に朝になった。外の明るさで目が覚める。ご飯を食べて散歩へ。港に行って風に当たって家に戻ってゆっくりしてからお昼からバスで因島へ。

念願の自転車を購入。これである程度の移動は楽になる。因島でお目当ての中華屋さんがあったのだが休みで少し凹んだ。

寄り道などをして帰ったので2時間ほど帰るのに時間がかかった。帰ったら夕方になろうとしていた。町内会の話し合いがあり夜を迎えた。

この日はずっと外にいて考えたりする時間も無かったので本当に出来事しか書けない。日記さらっと書いて1日を終えた。

こんな短い空っぽな日記もある。それが日記なんだけど。

ゼロ円ハウス3日目終了。


短いので2日分書きます。


令和3年10月1日ゼロ円ハウス4日目。

外が明るくなり目が覚める。

きっと自分は畑とかやらないんだろうなってふと思った。もちろんやってみないと分からないしやってみて面白いかもしれないし興味を持つかもしれない。だけど自分は良いかなって思う自分が強い。

ゼロ円ハウスのコンセプトに自分はそんなにマッチしてる方じゃないと思う。まぁ別に自分みたいなやつがいても良いとは思うけど。

ゼロ円ハウスの中での存在意義を探しに来た訳でも無いので、この場所に自分はなんでいるのだろうと言う疑問は自分を混乱させて不安にさせるものにしかならない気がした。正直、バイトもしたくないと思ってる自分がいる。これもしてみないと分からないことなのは大前提だけど。だけどお金をかけてやりたいこともあるからお金が必要だよねって思うとバイトをしなきゃなとも思う。

まだゼロ円ハウスに来てから数日だから簡単に大きく変化はするハズも無いけどゼロ円ハウスに来る前と感じていることや考えていることが大差無い虚しさみたいなのを朝ご飯を食べながら感じていた。

まだ数日なので決めるには決めつけるには早すぎる所にいるのもモヤモヤポイントだ。

好き嫌いを物事で決める必要もないかもしれないけどとは思う。働きたくないし嫌だなと思うけど確かに働きたいと思った瞬間もゼロでは無い。少なからずあった。働くでもその中身が変化すれば自分の感じ方も変わっていく様は働く以外の物事でもいくらでもあった。

話は脱線してしまうが自分は小学生ぐらいの時に感じたのだが授業参観がとても嫌いだった。みんなは喜んでたり張り切っていたけど自分は嫌いだった。混乱するから。家という環境に存在する親が学校という環境に存在してることに。どの顔を自分が選べば良いのか分からなくなるから。簡単に言えば家と学校の自分は想像よりもかなり異なる。だから半分ずつの顔でいるような感覚が嫌いだった。顔というよりは違う仮面と言った方がしっくりくる。今ではその仮面の種類も増えて無数にある。まぁそれのせいなのか分からないけど色々な場面で基準を決めかねるし自分が分からないと感じることは多々ある。頭の中で自分達が会議を始める。しかし平行線のまま大体は終わる。

しかし好き嫌いで言えば1つの基準が見えてきた気もしている。それはそれをやってる自分が好きか嫌いかどうか。だからテコンドーが好きなのかは分からないけどテコンドーをやってる自分が好きか一緒にやってる人達と一緒にいるから好きなのか。みたいに色々ある。テコンドーをやってて嫌だなと思う時もある。それはテコンドーが嫌なのではなくて色々要素はあるけどそれをやってる自分が嫌なんだな以外にあまり思い付く事は無い。物事をやってるけど物事を通して感じてる物に好き嫌いを感じてる自分がいるみたいだ。だから本当に好きなのか嫌いなのかを物事で判断すると永遠に答えは出ない。出来事は出来事以上に意味を持たない。そんな気がした。そこに意味を持つ瞬間は自分を入れた時から。

諸事情によって外をふらふらしてて夕方になった。夜から祥子さんがイノシシの肉を使った献立を中心に色々な料理を作ってくださって歓迎会を皆さんにしていただいた。

10人以上はいただろうか。もう雰囲気はパーティーそのものだった。

途中でテコンドーでの考えを伝える時間を設けてもらったが上手く伝えられずに少し凹んだ笑

やはりそこで自分は人と戦う中で何かを知って掴んで認識してきたんだなと思った。それをベースに伝えようとするとその経験が必須になる。それはこちらが形を変えて砕きその人に合うフレーズや形や経験に合うように組み立て直す事が必要だなと思った。

経験やフレーズなどはバラバラだけど共通している本質は必ず一緒だと思う。それが見えてないのか見えないようにしてるのかは分からないが。でもきっとこれは思う。その本質への道に入る時に入り口が楽しくないとその遥か先にある本質にはたどり着けない。だから最初はいかに物事を楽しんでもらうかが割りと重要なんじゃないかとも思う。自分は奇跡的に入り口もつまらなかったし辞めたかったけど何故かやる羽目にいつもなって今がある。正直こんなのは稀だと思う。自分は何かをやる時、やってる時には物事はなんでも良いんだよ。って事を人に知ってほしいなと思う。って輪郭の薄さで焦ってる今の自分には特大ブーメランだ。

歓迎会の後半、祥子さんのお話を聞いた。祥子さんはイノシシに思いやりがある。対峙し仕留める時、一撃で仕留める。苦しませない。そして美味しく調理して食べてあげることがイノシシへの敬意であり、そこには一切の妥協は無い。きっと常にイノシシの事を想いながら、狩りに出ていく瞬間から対峙し仕留めて捌きそして調理して皆の口へ。美味しく調理する事と狩りが別々になっていない。狩りから皆の口へ運ばれるまで全てが繋がっている。そんな風に感じた。

祥子さんはイノシシを一撃で仕留めるために銃弾のサイズを大きめのモノを使用している。その銃弾であればイノシシを一撃で仕留められるが身体の負担が大きくて撃つのがやっとな所もあるそう。銃弾のサイズを落とせば負担は減るがイノシシを一撃で仕留めるのは難しくなる。傷だけ負わせて苦しませる形にもなる。祥子さんの意に反する。どうやったらサイズの大きい銃弾で理にかなった撃ち方が出来るかを模索しては考えていた。その他にもイノシシの表皮の剥ぎ方や捌き方の感覚などとても面白い話だった。

そしてそんな祥子さんが作る料理はイノシシに対しての敬意が表れていて肉料理とは思えない優しさが味わえる料理だった。きっと味覚としては旨味としてはイノシシの肉自体も美味しいのは間違いないとは思うけど祥子さんだからこそな美味しさなのも強く感じた気がした。夜遅くまで話は尽きずにその日は良く寝れた。

ゼロ円ハウス4日目終了。

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