DIGITAL-PAINTING/PHOTO-GRAPHY
かつてLeicaの開発担当者が言ったらしい。「日本のカメラはDigital-paintingだ」と。そして、「LeicaはPhoto-graphyだ」と。光をそそのまま記述するのだと。一理ある。しかしどう見てもLeicaにはLeicaのクセ、個性がある。でないと100万円であんなに売れないだろう。光学データを画像処理する以上、そこには恣意性が入り込む。
個人的にはSONY+SIGMAの組み合わせが最もクセがなく、「Photo-Graphy」に近いと思う。以下はその例。
どれもクセがなさすぎる。そしてAPS-Cで1600万画素機なのにフルサイズ機を凌駕する描写。中古で買い揃えればレンズと合わせて6万円弱。
SONYは大手カメラメーカーにセンサーを卸しているので、最もニュートラルな画が出る。加えて長くレンズ専門メーカーだったSIGMAの光透過技術は神経質を超えて狂気の域に達している。なのに超廉価。日本の宝。
NIKONやCANONは独自の画質=クセを前面に押し出さなければ差別化ができない。加えて中古市場が成熟しすぎているので、過剰なスペックを上乗せして価格を押し上げている。AIを搭載した最新型ならともかく、フルサイズ機の価格の10万円分ぐらいは「雰囲気」だろう。少なくとも性能と正比例していない。
現状、写真は「JPEG」であり「PNG」である。つまりデジタルデータであってマテリアルである必要はない。加えて精々11インチ程度の画面で表示されることがほとんど。それも全画面表示はあまりない。長辺2000pxあれば必要十分。
佐藤優が言うように「文体は思想」であるとすれば、写真の思想はまず画角、次いで彩度/コントラストに表れる。モチーフはメタファーだ。
日本のカメラ、光学技術はPhoto-graphyの次元をとっくに超えているため、その先の「思想」を模索して袋小路に入っている感がある。Leicaの落ち着いた物憂いトーンは、ヨーロッパの美学が培ってきた伝統的精神に対する絶対的自信の表れ。それはPhoto-graphyに名を借りた「ピクトリアリズム」であり、ゲルマン的権威主義の暗喩でもある。
今は無料の編集ソフトでいかようにも「思想」を視覚的に表現できる時代。所詮、イメージは幻影にすぎない。好きなだけ「Digital-painting」すれば良いと思う。
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