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恋と学問 番外編その4、創造的読解のすすめ。

宇野弘蔵(1897-1977)という人について、今夜はお話してみたく思います。日本のマルクス経済学を代表する人物です。ねらいは、彼の学説と業績をお伝えすることではありません。そんなことなら、他に適任者がいくらもいます。

私が宇野を面白いと思ったのは、彼がマルクスについて行った「創造的読解」というのが、本居宣長が源氏物語について行ったそれと、絶妙な具合で重なるからです。どういう意味か?ここのところを掘り下げて考えてみたい。

はじめに断っておきたいのですが、マルクスの学問がどのようなものだったかは、私の関心の外にあります。宇野はマルクスの学問をどのようなものとして読み取ったか?私の関心はこれに尽きるのです。問題は「創造的読解とは何か?」です。

社会主義を科学的に基礎づける第一の問題として、資本主義の最も基本的なものは何かということを問わなければいけない。これは私が『資本論』から学んだところでは、労働力の商品化なのですけれども、これを私は私の南無阿弥陀仏と言っているのです。ぼくはよく言うのだけれども、ぼくの友人に日本仏教史をやっているのがいるのですが、その話では、法然上人は大蔵経を四回か五回読んで南無阿弥陀仏というのを発見したのだそうです。大蔵経というのは『資本論』どころではなく、たいへんな厖大なものです。それを四回も五回も読んだ。ぼくが『資本論』を一回読んで発見した南無阿弥陀仏は労働力商品化なのです。これは資本主義のほんとうに核心をなすものです
(宇野弘蔵「資本論に学ぶ」ちくま学芸文庫、2015年、54-55頁)

今した引用で宇野が言っていることは、かんたんに言えばこういうことです。「資本主義社会の最大の特徴は労働力が商品化することである」と「資本論は主張している」と「私は読み取った」。それを、鎌倉時代に浄土宗を創始した法然上人が、大蔵経から南無阿弥陀仏を拾い上げたことに重ねている。

面白い。法然上人もまた、「南無阿弥陀仏を唱えることによってのみ人間の心は救われる」と「大蔵経は主張している」と「私は読み取った」と宣言した人だ。資本論の場合と同様、大蔵経にはそんなことは書かれていない。しかし、これを「誤読」とは言えないのです。

要はエッセンス(本質)を掴んでさえいれば、「誤読」ではないわけです。「創造的読解」は、自由気ままに読むこととは違います。他人の主張をねじ曲げて、自分の主張のダシに使うこととは違うのです。作者が明言していないが、その実、作者が最も伝えたかったことを掴み出すのです。

私は『資本論』の著者に、最大の敬意を表しているのですけれども、敬意を表するということは、初めにも申しましたように、けっして単純に『資本論』の著者を神様のように考えたらよろしいというのではないのです。 むしろマルクス自身が何を求めていたか、マルクスの書いたものがマルクスの結論だというのではなしに、マルクスが求めていたものをわれわれが一緒に求めようというのが、マルクス主義の、またマルクス主義を科学的に基礎づける経済学の研究の目標になるのではないか、というふうに考えるのです
(同84頁)

マルクスが書いたことをマルクスの結論と思わないこと。宇野はさらりとすごいことを言っています。本を読むとは、本に書いてあることを理解すること、ではない。本に書いてあることから作者の精神(作者が求めていたこと)を掴み出すことである。そこまで徹底しなければ、あなたの読書は不十分なのだ、と言うのです。

作者の精神に到達した者だけが、「創造的読解」を始められる。そこまで到達したからこそ宇野は、マルクスの思考の続きを引き受けることが出来たのです。そう、創造的読解とは「作者の思考の続きを引き受けること」です。

本居宣長との重なり具合は絶妙なものです。宣長は源氏物語という文学作品のエッセンスを掴み出して、それを「もののあはれを知ること」と名づけた。作者である紫式部の源氏物語執筆の動機を「もののあはれを知らすこと」と見定めた。紫式部はそんなこと一言も言っていない。宣長による独創的な解釈です。しかしこれを「誤読」とか「曲解」とか言うことは出来ないのです。なぜならば、この宣長の解釈よりも説得力のある解釈が、いまだに現れていないからです。

独創的であることと、客観的であることは両立します。ただし、条件がある。その独創的な解釈が説得的なかぎりにおいて、両立するのです。少なくとも、その説得力がより説得的な解釈によって乗り越えられるまでは、その客観性を主張してよいのです。このあたりは、科学一般の手続き(仮説の検証と反証)と変わりません。

宣長は、「紫文要領」に記した「もののあはれの思想」について、「源氏物語」創作時の、紫式部の思考を引き継いだだけだ、と思っていたに違いありません。芸術作品の創作行為とは言ってみれば、「まだはっきりと正体は分からないが己の内に確かにあるもの」について、表現することです。言葉という形を与える試みです。その暗中模索が終わった先に、紫式部の眼前には何が現れていたか?はっきりとした形をした「もののあはれの思想」だ。宣長が「紫文要領」で語ったのは、この一点のみです。

宇野と宣長、その学問の共通点を、もう一つ述べましょう。それは、両者の学問の際立った特徴であるところの「現代の相対化」です。

イデオロギーというのは科学的な研究にとっての役割からいえば消極的だが、しかし、その消極性は非常に重要なんです。たとえば、アダム・スミスでも重商主義に対して自由主義的なイデオロギーを持っていたことが、科学性の保障になっているのではないか。マルクスでも、ブルジョア的イデオロギーに対して社会主義イデオロギーを持ったということがやはり科学的客観性の保障になっていると、ぼくは思う。ただ、そのイデオロギーが行き過ぎると、これは科学以上になる。それが一般に問題になるのだが、自分にはイデオロギーはないと思っている経済学者はむしろブルジョア的あるいはプチ・ブルジョア的イデオロギーに支配されている
(同149頁)

マルクス経済学独特の用語によって、何やらむつかしいことを語っているかのように見えますが、議論の骨格はとても単純です。

マルクスは「あるべき世界についての考え」(社会主義)を持っていた。そのことは、マルクスの学問の客観性にとって、有害などころか非常に役立った。なぜならば、その「あるべき世界についての考え」がなければ、現実世界(資本主義)を唯一の現実と思い込み、分析の対象であるところの現実世界から、当の分析者が距離を取ることも出来なくなるからだ。・・・大体、そんなことを言っています。

宣長の学問と比べてみましょう。宣長の学問の対象は日本の古典です。学問の目的は、古代人の物の感じ方、考え方に出来るだけ寄り添って、これを理解しようと努めることです。そうとなれば、常に意識されるのは、現代人の物の感じ方、考え方との相違点になります。よほど鈍感な人でないかぎり、古典に触れた時に、「古代人はどうしてここまで真剣に花を眺めたのか」「命を懸けてまで恋に狂ったのか」といった、感想を抱くはずです。それは裏返せば、「どうして現代人は花を深く味わわなくなったのか」「恋を軽く済ませるのか」といった感想を抱くのと同じです。

過去(古典に描かれた古代人の姿)と未来(資本主義が打倒された後に到来すると信じられた社会主義の世界)というベクトルの違いはあれども、「あるべき世界についての考え」が、両者の学問の立脚点を現実世界から引き離し、現代と距離を置いてこれを客観的に分析することを可能にした。この点は両者の学問の目立った共通点です。

イデオロギー(あるべき世界についての考え)を否定すれば、科学的で公平無私な視点が手に入るなどと考えるのは、いかにも現代的な態度ですが、それは甘いのです。イデオロギーを持たずに現実世界に対峙するということは、現実世界をこのようなものとして成り立たせている諸条件を、無批判的に受け入れることと同じです。そこに批判精神が働く余地はありません。イデオロギーを完全に廃した学問など、「現状肯定」以上の意味を持ち得ません。しかもこの「現状肯定」は、無意識的に行われているから、なおさら厄介なのです。

質問者:唯物史観はイデオロギー的仮説だとおっしゃったのですが、それは社会主義イデオロギーといい換えても同じだと思います。それがなければ、資本主義を原理的に把握する端緒ができないだろうと思いますが、そこのところをもう少し説明して下さい。
宇野:それは、商品経済社会を永久的なものとみないことだ。その発生があり、消滅があるということを認めて、新しいイデオロギーをもつわけです。それが資本主義という歴史的社会を歴史的社会としてみることを可能にするのです。
(同207-208頁)

現代という、私たちが現に生きている時代の「歴史性」を明らかにすること。現代的価値観には普遍性が有って、未来に向かって無限に延長されうるという、無意識に前提している妄想を廃すること。この世界と私たちの精神は、現にあるこの有り様とは別の仕方でも有りうるということ。宇野と宣長が行った「創造的読解」の学問は、その可能性に懸けた果敢な挑戦でした。

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