見出し画像

恋と学問 第11夜、蛍の巻の文学論・後編。

今夜のテーマは、源氏物語の蛍の巻に描かれた、光源氏と玉鬘の「真剣な雑談」を、本居宣長がどのように解釈し、そのように解釈することで何を伝えたかったのか、考えてみようとするものです。

宣長は、ふたりの会話の一言一句に対して、ほとんど逐語的と言ってよいほどに細かく、いちいち解釈を差し挟んでおり、結果として解釈の全体像が見えづらくなってしまっています。

この弊害を解消するために、前回は手始めに会話の全体をお見せして、今回はそれをふまえて解釈の全体をお見せするという、まだしも見やすい段取りにしたわけです。よって今回のお話は、前回の記事(谷崎潤一郎による現代語訳)を横に置きながら読むと、理解がはかどることと思いますので、是非そうしてください。

それでは始めましょう。


1. 虚構=無益ではない

光源氏は玉鬘を見るなり、ずいぶんと熱心にお読みですね、そのなかに本当のことは少ないでしょうに、女というものはあざむかれやすく生まれついているのかしら、などと冗談を言います。玉鬘の気を引こうと、わざと彼女の癪にさわることを言うのです。

しかしすぐにこうも言います。でもまあ、物語でも読んでなければ、ほかに紛らわしようもない日々の退屈を、慰める方法はありませんからね、と。

この発言から宣長は、

いつはりごとにてはあれども、一向に無益とはいひがたし
(岩波文庫版「紫文要領」37頁)
物語は虚構(フィクション)ですが、そのことはただちに物語が無益であることを意味しません

という風に、紫式部の主張を読み取ります。


2.非日常への没入

物語が無益ではなく有益だとするなら、最初に挙げるべき効能は「非日常への没入」です。退屈な日常を忘れさせてくれる効果です。

光源氏は言います。物語を読むと、なるほどそうなる運命であったかと、説得力を伴う言葉の力に導かれて、フィクションだと分かっているのに、わけもなく心が動くものですね。

宣長が「わけもなく」という言い方に注意を促したことは、「第9夜/モノをカタルとカタルシス」ですでに指摘したとおりです。たしかに改めて考えると、実在しないものに心を動かされるなんて、不思議な経験です。

しかし、ここから真面目に文学の本質を語り始めるかに見えた光源氏は、またもや冗談と言いますか、挑発と言いますか、くだけた物言いに転じます。有りもしないことを有ったかのように語り、こうして読者の心を動かしてきた歴代の物語作者たちは、よほど嘘がお上手なのだと見受けられますが、あなたはどうお考えですか?


3.没入するにはコツが要る

もともと口数の少ない玉鬘は、光源氏の挑発に機嫌をそこねて、吐き捨てるような調子で答えます。嘘をつきなれた人の眼には、物語がそのような姿に映るのでしょうね。私はただただ本当のことと思うばかりですが。

光源氏はあたかも、この玉鬘の返事を引き出すために挑発したかのようです。これぞ会話の妙と言えましょう。宣長は玉鬘の「思想」を正確につかみます。

君子はあざむくべしといへるやうに、心のすなほなる人は、偽りをも真と思ふもの也。(中略)これはみな空言ぞと思ひて見るときは、感ずる事浅く、哀れもふかからず、さればみなまことのことと思ひて見よといふ心も有るべし(同42頁)
論語に「君子はあざむくべし」という言葉があるように、心の素直な人は物語の虚構も真実のことだと思って読むものです。こんなの虚構に過ぎんじゃないか、と思いながら読んでしまっては、受け取る感動も浅く、哀れも深くなりません。それではもったいないので、源氏物語に書いたことは、すべて真実のことと思って読んで欲しい。そんな作者の思いも、玉鬘の言葉には込められているのです

宣長はここで論語を引用しています。雍也篇にある話で、井戸に落っこちた人がいると嘘をつかれて、助けようと飛び込むのが君子(立派な人)ですか?などと半ば嘲り気味に質問されて、孔子が答えて言うには「君子はあざむかれるものだ。そして、くらますことができないものだ」、つまり、井戸に駆け寄りはするが、落っこちるヘマはしないのだと言います。

たいへん面白い思想です。君子はあざむかれる。しかし、くらまされない。「くらます」の元の字は「罔」と書き、原義は「無知」という意味です。つまり、立派な人は騙される。それは無知だからではない

宣長は、玉鬘の物語に対する態度のうちに、この孔子の思想と同種のものを発見しました。すなわち、源氏物語が虚構であることは百も承知で、あえて騙されてみる。それが文学をよく味わうコツなのです。そうしないと物語の世界に没入できないからです。


4.歴史書を見るのとは違う眼が要る

光源氏は玉鬘の「反撃」にあって、慌てるふりをします。それがフリであるのは、次の言葉を笑いながら言ったことからも分かります。いやはや、無骨なことを言って、物語を貶めてしまいました。神代の昔から世にあった出来事を記録したものが物語なのでしょう。物語が描く、人と世の詳しいありさまと比べたら、日本書紀の表現力など中途半端なものですね。

今度は物語を持ち上げるわけです。日本書紀と源氏物語、歴史書と文学ではジャンルが異なるではないか。そのように疑問に思うのは当然の感覚ですが、前に述べた「物語は虚構だから無益」とみなしているような人は、歴史書に対するのと同じ態度で文学を扱っているのですよと、紫式部は言いたかったのかもしれません。文学は「事実か虚構か」で是非が判断される歴史書とは違う。文学には文学に固有の基準が必要だと。

宣長はこの箇所に目立った解釈をしていません。しかし、文学の良否を判定するのには、真偽や善悪とは別の基準が、すなわち文学固有の基準が要るとの主張は、紫文要領に繰り返し登場するモチーフであり、今夜も最後のほうで目にすることになります。


5.光源氏の文学擁護論

物語の前では日本書紀も霞んでしまいますね、と語った時の光源氏は笑っていました。神話のなかに統治の正統性を求めていた天皇が、摂関政治という形で弱められたとは言え、依然として政治の中枢に据えられていた平安時代の常識から言って、これは「冗談でなければならなかった」のです。

これに続いて長いセリフを語る頃には、光源氏の顔から笑みが消え、ようやく彼の文学観が真剣に語られ始める段になります。

光源氏の論点は、大きく分けて次の3点です。

5-1.物語が書かれる動機とは何か?
5-2.物語は単なる作り話(嘘)なのか?
5-3.物語を読むことで得られるものとは何か?

以上の3点につき、宣長がどのように解釈し、何を伝えようとしたのか、見てゆくことにします。

5-1.秘密の暴露への衝動

光源氏は言います。物語というものは、人と世のありさまのうちでも、見たり聞いたりするだけでは飽き足らず、感動を心にとどめておくことができないで、だれかに伝えずにはいられないようなことを、書き留めておいたのが始まりなのだ、と。

宣長はまず、「ここより下の文は作れる趣意也」(45頁)、光源氏に言わせているこのセリフで、紫式部は源氏物語の執筆動機を述べているのだと確認します。そして、本当の感動は心のなかに秘めておくことができず、人に打ち明けたくなるものであり、その「秘密の暴露への衝動」が文学を生む究極の動機であることを主張します。

さてその見る物聞く物につけて、心のうごきて、めづらしともあやしとも、おもしろしともおそろしとも、かなしとも哀れ也とも、見たり聞きたりする事の、心にしか思ふてばかりはゐられずして、人に語り聞かする也。語るも物に書くも同じ事也。さて其の見る物聞く物につきて、哀れ也ともかなしとも思ふが、心のうごくなり。その心のうごくが、すなはち物の哀れをしるといふ物なり。されば此の物語、物の哀れをしるより外なし(同46頁)
見る物につけ、聞く物につけ、心が動いて、それを珍しいとも怪しいとも、面白いとも恐ろしいとも、悲しいとも哀れだとも思って、見たり聞いたりすることは、心にそのように思うだけで済ませられるものではなく、人に語り聞かせるものです。人に語るのも物に書くのも同じことです。見る物や聞く物につけて、哀れだとか、悲しいとか思うことが、心が動くということであり、そのように心が動くことを、物の哀れを知るというのです。ですから、この物語には物の哀れを知る以外の、いかなる執筆動機もありません

引用した宣長の主張に一言付け加えるとすれば、このように人に打ち明けずにはいられない衝動を呼び起こす話題とは、どんな種類のものかと言うと、「人の世の運命」に関する話題に絞られるだろうということです。

現代に例えるなら、おいしいタピオカミルクティーを出すお店の話題ではなく、いわゆる「恋バナ」が、それも悲恋に属する恋バナが該当します。道徳的に問題があったり、合理的な説明に困難があったりして、それを打ち明けることに抵抗があればあるほど、逆説的に打ち明けたいという衝動は増進します。つまり、運命の秘密に関わるほどに、暴露への衝動は高まってゆく。この衝動こそ物語が書かれる動機の最も奥にあるものだと、宣長は解釈したのです。


5-2.日常に潜む嘘と虚構に宿る真実

光源氏の長いセリフが続きます。物語とは、良いことは良いことの限りを尽くし、悪いことは悪いことの限りを尽くして、はっきりと人の世のありさまを描写した書物であり、虚構(フィクション)ではあるけれども、物語に描かれることはどれも、この世にないものはないのだから、その意味では、中国の書物(四書五経)や日本の古い書物(日本書紀)などと同じことで、簡単に作り事と言い切ってしまうのも正しくない。

このセリフは、前段における玉鬘の言葉「私はただただ本当のことと思うばかりです」に対応します。ここで光源氏(背後の紫式部)は「文学的真実」について語っているのです。私たちの現実の生活こそが嘘であって、文学的世界こそ真実ではないか?文学を愛好した記憶のある人なら誰でも、そのような感覚に襲われた経験があるはずです。紫式部も、本居宣長も、そしてニーチェも、そうでした。

文学の領域はなにもこの現実をはずれた外部にあるのではない。詩人の頭がでっちあげた空想的な不可能事なのではない。文学の欲するのは、そのちょうど正反対のこと、真実を飾りけなく表現しようとするのだ。だからこそ、文学は、文明人のいわゆる現実につきものの嘘だらけの飾りをすてざるをえないのだ
(岩波文庫版「悲劇の誕生」95頁)

この言葉は、現在の箇所の解釈として、宣長が言ったとしても、まったく不自然ではありません。ニーチェの「悲劇の誕生」はこのように、宣長の解釈の不足を見事に補足できることが多々あり、そのたびに驚きます。

なお、宣長はこの箇所で目立った解釈をしていませんが、良いこと・悪いことという、「勧善懲悪」を連想させる言葉が出てきており、これについては次の解釈で、きっぱりと拒絶しています。


5-3.物の哀れを知るがよき人

長いセリフの終わり、結論です。光源氏は唐突に仏教について語り始めます。いわく、仏の尊い教えも「方便」という考え方があって、色々な説き方で真理を伝えようとするわけだけども、結局は悟りを開く人と煩悩に囚われる人の違いを述べているということについては、どの説き方でも同じであるように、よき人と悪い人の違いを述べたものである点では、物語であろうと、四書五経であろうと、そのほかの書物であろうと同じことで、考えようによっては何事も無益なものはなくなってしまうのですね。

なかなか考えさせる難解なセリフです。仏教・儒学・物語(文学)という、まったくジャンルの異なるものを同列に並べて、それらが「善悪」を語っているという点では一致している、と言うのですから。無理やりな感じが否めません。宣長はこの無理をどのように解決したのでしょうか?

或るひと問ひて云はく、漢文の書も物語も畢竟の極意は一致にして、人のよきあしきわかちをみる人にしらさむためといはば、これ勧善懲悪の意にあらずや。答へて云はく、よきあしきのさす所、漢文の書と物語と異也。物語のよきとするは物の哀れをしる人也。あしきとするは物の哀れをしらぬ人也。〔此の事くわしく奥にいふべし。〕されば漢文の書とさす所こと也。然れどもそのよきあしきわかちを人にしめししらせんと思ふ趣意はかはることなき故に、一致といへる也。よくよく工夫すべし(同55-56頁)
ある人が質問して、「儒学の書も物語も結局のところ主題は一致していて、善悪の分別を読者に知らせるためだと書いてありますが、ならばやはり物語の主題は勧善懲悪にあるのではないですか」と言うので、「善悪という言葉が指す内容が、儒学と物語とでは異なります。物語がよき人とするのは、物の哀れを知る人です。悪い人とするのは、物の哀れを知らない人です。(詳しくは後述します)したがって儒学の書とは指す内容が異なるのです。ただ、善悪という言葉が指す内容が異なるとはいえ、善悪の分別を人に示して知らせようと思う趣意においては変わりませんので、その意味で一致すると書いたのです。よく考えてみてください」と、私は答えました

紫文要領という作品の根底には常に、「文学の良否を判定するのには、真偽や善悪とは異なる、文学固有の基準が要る」というモチーフが流れていますが、それを今回は言い換えて解決を図ったわけです。つまり、物語における善悪は、儒学が言う善悪とは指す内容が全然違う。物の哀れを知るか知らないか。それが物語における善悪だ、と。


さて、蛍の巻の文学論における宣長の解釈を、なんとか最後まで見届けることができました。

今日はこのへんで終わりにしましょう。

それではまた。おやすみなさい。





【以下、蛇足】





今回は、源氏物語「蛍の巻」における光源氏と玉鬘との間に交わされた文学談義を、宣長がどのように解釈したかを読み解きました。

宣長が何を伝えたかったのか、再度まとめてみますと、まず大前提として、この会話は一見すると変哲もない雑談ですが、実は紫式部の文学観をふたりの会話に託した、いわば「メタ会話」であるというのが宣長の考えです。この前提の上で、次のような思想を抽出しています。

文学は虚構(フィクション)だが、人の心をわけもなく動かし、感動させ、日々の退屈を慰める(カタルシスを引き起こす)ものだから、無益ではない。
しかし、カタルシスの効果を得るためには、文学世界に没入しなければならず、没入するにはコツが要る。玉鬘がそうしたように、孔子の「君子あざむくべし」の態度、文学世界を真実の世界と信じる態度で、作品と向き合わなければ、充分な効果は得られない。
そもそも、文学はどのように始まるのかというと、心に秘めておくことができない感動を、誰かに伝えたいという、人間にとって普遍的な衝動に基づく。そして、心に秘めておけないほどの感動とは、人の世の運命の秘密に関わることで、同時に最も伝えにくいことでもある。それをあえて暴露するのが文学の使命である。
日常が真実で、文学は嘘、などと簡単に分けられるものではない。むしろ日常こそ嘘にまみれており、ヴェールに覆われており、その結果として、私たちがそこから生の充実を得る運命の秘密など、どこにも見当たらない。巧妙に隠されていることで、私たちの文明的な生活は無事に運営されている。真の文学はこれらを剥ぎ取り、生の真実の姿をあらわにする。
儒学に「仁義礼智」という価値基準があり、仏教に「菩提煩悩」という価値基準があるように、文学にも文学固有の価値基準というものがある。それが「物の哀れを知ること」である。価値基準があるという意味で三者は一致するが、内容が異なるのは当然である。

さて、最後の解釈について宣長は、この3つの価値基準の混同により誤読され続けたことが、源氏物語のたどった不運の歴史であったと考えていました。

源氏物語は、なぜ誤解され続けたのか?その出現から750年、宣長が紫文要領を書く以前に、どうして理解者が現れなかったのか?これが次回のテーマになります。

お楽しみに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?