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【短編小説】死神と取引するために必要ないくつかの準備について

 野球やサッカーを楽しいと思ったことは一度もない。
 いや、私はむしろ子供の頃からこのように思っていた。「どうして皆はこんな簡単なことができないのだろう?」と。サッカーならば、シュートを蹴ったらゴールが決まるのが私にとっては普通だった。まわりのディフェンダーをどう躱し、キーパーの動きを読み、足許のボールのどの部分をどのくらいの力で蹴れば思い通りのコースにボールが飛び、ネットに突き刺さるのか、そんなことは常日頃から百パーセントの確率でこなす事が出来た。しかしまわりの同年代の子供にとってはそれは決して同じではない。なので次第に私も理解してきた。この程度のことを完璧にこなす私のほうがおかしな部類なのだと。野球でも同じだった。ピッチャーの投げたボールのコースを予測し、バットを振る軌道をどれだけ修正すれば確実に外野の守備の間に打ち返せるか、そんなことは簡単だった。皆は私のことを凄い凄いと褒めてくれたが、私は何も面白くない。小学生のうちにそうしたスポーツはすべて辞めてしまった。
 学校の授業も同じだった。私は一度耳に入った言葉、目にした文字、すべて忘れることが出来なかった。テストはいつも満点だった。初めて目にした問題もそれまでに身に着けた公式を当てはめればまず正解を外すことはない。私のそうした推測はほとんど百パーセントの正解率だった。中学二年の時、数学の教師が私を数学オリンピックに出場させようと国内の予選会に参加させた。当時はまだ私も周囲の期待の声に応えたい、なんて可愛いところがあったのだが、結果は散々たるものだった。私はすべての問題を解いてしまった。しかしカンニングを疑われた。大学生でも解けない、高度で難解な設問に私が一分もかからずに回答したものだから、事前に問題が漏洩したのだろう、とあらぬ疑いが掛けられたのだ。いや、正確には私を会場にまで引率した数学教師が県内の教育界での派閥争いの犠牲になった。私は十四歳で世の中が下らない足の引っ張り合いだと気付かされた。以後、私は数学に限らず、どの教科でも適当に問題を間違えて目立たないように過ごした。大学も地元のあまりぱっとしない公立校に進んだ。
 と書くと多くの人は「子供の頃には神童でも大人になったらただの人だってだけではないか?」と疑問を投げかけるかもしれない。しかし、私は誰にも悟られないように最新の情報に触れ続けていた。大学の図書館にある専門の学会誌は五分も立ち読みすればすべて頭に入った。医学、数学、物理に生物学、それだけでは物足りないので人文系の歴史や哲学なども一通り頭に入れていた。そんなこそこそと勉強を続け、先端の情報に触れながらも、私は自分自身の進路やキャリアにそれらを活かすつもりはまったくなかった。正直に言えば、どうでも良かった。高度な知識や技術を身に着け、給料のいい仕事に就いたとしてそれが何になるのか? 周囲から嫉妬されたり、足を引っ張られたりして、能力がないのに権力を持った一部の厄介な人間の慰みものの対象になるだけだ。ただ私にも好奇心はあった。運動能力が衰えていないか、知りたかった。
 中学高校とも、体育の授業以外で身体を動かすことはなかったが、それでもいくらか手加減をしていないと目立つことになりかねなかった。高校の時、バスケットボールで3ポイントシュートを連続で決めたことがあったが、はっと気付いてすぐに手加減をしたことがある。運動するのはそれ以来、二年ぶりだった。大学の体育の授業でテニスをすることになったある日のこと、私は高校の時に県大会のダブルスで優勝経験ありの男と対戦させられた。なにより、私はその時、テニスはまったくの初体験だった。ラケットも初めて握った。それでも昔のように身体がすぐに順応するのか試してみたくて本気を出すことにした。
 最初にまず私はラケットを振り重さを確かめた。次に相手に軽くボールを打ってもらい、打ち返した。三球ほどそうやって練習をし、コツは掴んだ。私は対戦相手に「手加減無しでやってくれ。久しぶりに本気でやりたいんだ」と頼んだ。対戦相手の青年は怪訝そうな顔をしたが、フンと息を吐きサーブの体勢に入った。
 重く早いボールが私の1.5メートル横にうなりを上げて飛んできたが、私の身体は正確に反応した。ラケットをひと振りすると、鋭いリターンエースが相手の足許を抜けていった。二球目はもっと力の篭ったサーブだったが同じだった。エンドラインギリギリに私の打ち返したテニスボールがバウンドして転がっていく。私のサーブの番になっても似たようなものだった。私は相手に厳しいボールを返してしまったのでほとんどラリーにはならなかった。私の身体は昔と変わらずに思いのままに動いた。なぜそんなことが出来るのか、と疑問を抱く方は多いだろう。しかしこう回答するしかない。大抵の人なら階段を降りるのに、足の置き場や左右の足を交互に出すことに迷ったりしないだろう。私の場合もそれと同じだ。アマチュアスポーツの段階では、特別な鍛錬などまったく必要とせずに自分の身体を操ることが出来た。その時のテニスなどはいい例だ。もちろんマラソンに出場して二時間を切るタイムで走れとか、まわしを巻いて相撲を取って横綱に勝て、と言われてもそれは無理だろう。しかし自分の思い通りに身体を動かす、ただそれだけのことに単純で長い反復練習などは必要としなかったのだ。軽くイメージするだけで筋肉や呼吸を自在に操り、相手の動きを予想してその先を読むことが出来た。どうして私だけ飛び抜けたそんな能力があるのか、私自身が疑問だったし、最先端の知識に触れれば触れるほど、知りたいことも増えてきた。いやその言い方は正しくない。知らなくてもいいどうでもいいことが削ぎ落とされ、本当に知りたい、真理の扉に少しでも近づきたいと思うようになった。私は世界の本質を見極めたかった。
 では世界の本質とはなんなのか? もちろん私もそれはわからない。ただ私は次第にそれ以外のことはどうでも良くなった。大学を卒業すると私は小さな会社に就職して、メインフレームのプログラマーとして働き始めた。しかしそれも仮の居場所に過ぎなかった。適当に仕事をしたわけではない。私は望まれるものはすべて労働力として提供し、ヘマこそしなかったが、期待以上の成果を自分から差し出すこともなかった。優秀な能力を示せば賃金が上がったり、人事に響いて昇進したかもしれないが、そんなものは一顧だにしていないのだからまったくどうでもよかった。もちろんそんな本音を誰かに漏らすこともなく、私は目立たない会社の歯車としてただ地味に働いていた。プライベートでは、当時から発達したインターネットを駆使して独自の研究にただ没頭し、データの収集に従事していた。英語とフランス語とドイツ語は高校時代に専門書を読み進めるくらいには身につけていたが、ギリシャ語も勉強し始めた。私が求めるもののためにはどうしても必要だったのだ。
 1994年に旧ユーゴスラビアから独立したサリカチア共和国にはギリシャ正教の一派であるヌズイ派の教会がいくつか現存し、教徒数も数万人を数える。しかし大抵の専門書などでは異端視され、迫害されていた過去に言及されているのが常だ。現在ではそうした迫害は治まっているようだが、オカルト好きの好事家からは神聖視されている、一風変わった宗派である。しかし調べていくとそれらも周囲からの目くらましに過ぎず、実は彼らとはキリスト教伝来以前から存在した悪魔崇拝を行う土着宗教らしいのだ。あまりにも強大なキリスト教勢力に対して、無理に戦って滅ぼされるのではなく、建前だけ恭順して表面的な皮のみキリスト教に帰依し、包み隠した本体の奥の奥に悪魔崇拝の灯火を残したという。と書いたところで、それは書店のオカルトコーナーに並んでいる怪しげな本の内容を写し書きしたものに過ぎない。私も初めはまともに取り合っていなかった。
 ゲルハルト・バルクホルンは1983年にノーベル医学生理学賞を受賞したまっとうな研究者である。ドイツのマックスプランク研究所に勤め、免疫の仕組みを詳細に解明したことで知られるが、その彼の死の三年前の著作にヌズイ派を研究したものがある。いやそれは旅のエッセイと言うべき軽い読み物の本であり、私も京都市内の古本屋の店先にたまたま積まれていたのを発見して手に取った。私がヌズイ派について知るようになったのもその本がきっかけだった。ちなみにバルクホルン博士は研究論文以外の一般向けの著作としては、その一冊のみしか残していない。もちろんドイツ語の本であり、それ以外の言語に訳された形跡はない。
 ユーゴスラビア内戦が収束した数年後、バルクホルンは妻と二人、車にキャンプ道具を積み込んで旅に出る。テントを張ってのキャンプ泊か車中泊がほとんどの、高名な学者にしては不釣り合いな破天荒な旅行である。ドイツのゲッティンゲンを出発してギリシャのオリンポス神殿まで向かうのが本筋なのだが、途中であちこちに寄り道している。そのひとつがサリカチアの古都バーシアにあるヌズイ派の教会なのである。しかしその地は内戦によって破壊され、ほとんど廃墟と化していた。崩れ落ちた石造りの建物の内部を彷徨う高齢のノーベル賞学者は幻視のような不思議な体験をしている。その部分を引用してみる。『私の中にぞっとするような悪寒が走った。先程、崩れた梁に頭をぶつけたせいかとも思ったが、明らかに違った。夕方になりあたりは薄暗かったが、まだ視界はあった。決してその時の私は酒に酔っていたわけでもないし、寝不足でぼんやりしていたわけでもない。しかし明らかに私の体内で誰かの声がしたのだ。「何か言ったか?」と私は数メートル後ろにいた妻に聞いた。「別に何も」と妻は応えた。「どうかしたの?」「いや、なんでもない」と私は答えたが、そこで私は意識を失った。いやそれだとまるで失神して地面に倒れたかのような表現だが、それは違う。30分後、車に戻るまでの記憶が消失していた。妻によれば私は崩れた教会の広間の中央でぶつぶつと一人で喋っていたようである。』(原文はドイツ語。翻訳は私による)
 これだけなら特に大したことのない旅のトピックだ。その後のページにはヌズイ派を解説した部分が続くが、悪魔崇拝にもさほど嫌悪感を表明するわけでもなく、どちらかといえば好意的な記述だった。私は京都から東京に戻る新幹線(出張中だった)の中でこの本はすべて読み終え、以後しばらくはバルクホルンについて調べる日々が続いた。そしてヌズイ派についてもだ。
 世間に知られているヌズイ派の教義では、キリスト教の大本である三位一体を否定し、イエス・キリストはただの預言者に過ぎないと定義している。そして神との対話を重視し、神に害をなす悪魔との取引さえも認めている。しかしそんな教義を持ちながら、なぜ現在まで生き延びることが出来たのかは謎の部分が多い。異端視され、迫害されてはいたが、決して攻め滅ぼされたわけではないのだ。バルクホルンはこのように解説している。「彼らには何か特殊な秘術があり、それを正教徒やイスラム教徒たちとの交渉に使っていたようだ。もちろん秘術の詳しい中身までは残されていない」
 私は新しく身に着けたギリシャ語を駆使して資料を集めた。もちろん日本にいては東ヨーロッパの片隅の情報はほとんど入ってこないが、ヌズイ派についての文献はギリシャ語と英語で書かれたものが多かったので、海外のオークションサイトでその手の本を月に2、30冊は落札して手に入れていた。つまり私はその時点で世界の本質はここにありと目星を付けていたのだ。世界の謎、私自身の謎を見極めるには、ヌズイ派をひとつの媒質として利用し、深淵を覗かなくては、と。さらにある日、私はたまたまネット検索で見つけたドイツのオカルトサイトに、バルクホルンの甥が彼の臨終の場面をインタビューに答えている記事に行き着いた。「良かったよ、あいつと取引をしなくて、と叔父は口にしました。取引って何? と私が尋ねると叔父は答えました。悪魔だ、死を司る悪魔に取引を持ちかけられた、しかし断ったんだ。ええ、確かにそう語ったんです」
 それだけでは何のことだか分からない。しかし私はもう確信した。私が付けた目星は間違ってなかったのだ。彼、バルクホルンは深淵に触れたと考えて間違いない。完全に深淵に飲み込まれなかったのは、ノーベル賞にも輝くほどの理性が勝ったからだろう。
 私は会社で過ごす時間以外のすべてを研究に費やしていた。食事や風呂に入るのも面倒に思えるほどののめり込みようで、会社の上司から体調を心配されたほどだった。そのため私はそれまでの手抜き仕事を辞めて、勤務中はすべての能力を発揮した。一日の仕事を二時間で終えて、残りの勤務時間は会社の机に座りながらギリシャ語の文献を読み漁る時間にあてた。電子化したファイルをディスプレイに小さく表示させていたので、もちろんまわりから気付かれることはなかった。私の中で生まれた小さな閃きが、いつしか真実を目指す灯火へと変わっていった。
 私がサリカチア共和国を訪れたのは二十五歳になったある日のことだった。会社は有給をまとめて取ったので、二週間、休むことが出来た。日本からサリカチアへの直行便はないために、まずトルコのイスタンブールに飛んだ。そこから鉄道を乗り継ぎ、首都のハシェーシェに辿り着く。目的地のバーシアにはさらにレンタカーを借りて自分でステアリングホイールを握り、やっとたどり着いた。二日がかりの移動になった。
 サリカチア共和国の古都、とは言っているが実のところ東ヨーロッパの寂れた田舎町に過ぎない。人口は5万人もいない。内戦の爪痕はもうほとんど見えないが、どこか疲弊した印象を受けるのは致し方ないのだろうか。古代ローマ時代の遺跡が町の周辺に残され観光客を呼び寄せているが、もちろん私の目的はそんなものではない。私は宿泊したペンションのオーナーに聞き込みをしてみた。私は日本で雑誌のライターをやっていてヌズイ派の悪魔崇拝について取材をするためにわざわざ日本からやって来た。あなたにとってヌズイ派とはどんな存在か? 
「町の奴らの半分は信じているみたいだが」とまだ二十代に見える痩せた若者は答えた。「俺は違うね、正統派のギリシャ正教だよ」
「あなたはこの町の出身なのですか?」
「そうだね」と若者はカウンターに手をおいて身を乗り出した。「ところで、あんたギリシャ語がうまいね。何人か日本人は泊まっていったけど、英語もおぼつかないのがほとんどだったから」
「勉強したんだ。語学は得意でね」とはいえ彼のギリシャ語は訛りがきつくて私も戸惑い、言い直してもらう単語も多かった。
「悪魔崇拝といっても、普段は何も変わらない普通の奴らだよ。ただ少し偏屈なやつは多いけどね」と若者は言う。「何ていうのかな、被害者意識が強くてとっつきにくい感じがするかもしれない。でも、そんなのは年寄りだけだよ。若い奴らでまともに教会に通っているやつなんていないし。それは俺も同じだけど」
「神父さんにはどこにいけば会えますか?」と私は聞いた。「教会はほとんど廃止されていると聞いたものですから」
「ヌズイ派にはまともな神父はもともといないんだ。神父という役職もあってないようなものだし」
 そのあたりは予備知識として私も持っていた。しかし黙って聞いていた。
「いまの責任者は歩いて少し行ったところのガソリンスタンドの親父だよ。そのおっさんがこのあたりの最高職だったはずだ。ハゲでデブだから行けばすぐ分かるはずだ」
 私は歩いてペンションを出た。今回の旅行ですべての謎が解けるなどとはさすがに私も楽観していなかった。二週間の有給が予備的な調査、たんなる下調べですんでしまったとしても構わなかった。なによりも私はヌズイ派の秘術をまだ解明していなかったし、サリカチアには何度も足を運ぶつもりでいた。いや生涯をかけた探求になる予感さえあったのだ。焦るつもりなどなかった。ガソリンスタンドには10分ほどで着いたが、本日定休日の札が下がっていた。中を覗くが、人の気配はない。私はそのまま足を進めた。その先に廃墟となった教会があるのは知っていた。
 ゲルハルト・バルクホルンの名は現代ではほとんど忘れられている。アインシュタインやシュレディンガーのようによく聞く名前ではなく、過去のノーベル賞受賞者リストで見かけるのがせいぜいである。しかし現在の免疫治療の世界に大きな貢献をしたし、医学の発展の速度を加速させた幾人かの偉人の一人に数えて間違いはない。私は彼の医学論文ももれなく目を通していた。そこに一箇所、不可解な一文を見つけていた。発表された日時からして、バーシアの教会を訪れた後と考えて間違いはない。さらに言うなら、その論文自体が少しおかしな内容である。バルクホルン博士の専門である免疫ではなく、医療体制を充実を訴える提言のような短い論文であり哲学の学会誌に投稿されたものであった。論文の最後、結びの一文が何故かギリシャ語なのである。普通、そのような場合は著名な誰か(例えばヒポクラテスとかプラトン)の引用なのだが、私が調べた範囲では原典に当たれなかった。このような文句だ。「己を見よ、己を知り、魂の叫びに耳を傾けよ、ただし扉は開けるな」
 なぜそのような不可解な文句を載せたのか、まったく謎なのだが、私はそれがヌズイ派に関わるなにか重要な鍵なのではないかと考えていた。私は足を止めた。廃墟となった教会が目の前にあった。
 道路からは少し見下ろす位置にあったので、立木の間からも周囲の様子はよく分かった。学校の校庭くらいの広さの敷地に石造りの建造物の残骸が無造作に散らばり、放置されていた。教会自体は800年ほど前に建て直されたものだが、内戦時に爆撃機による空襲と戦車からの砲弾を何発も受けたためにほとんど粉々になってしまった。サリカチアの軍隊がこの教会を拠点としたためそんなとばっちりを食ってしまったそうなのだ。現在では町外れに教会の施設は移され、信者はそこに通っているので内戦終結後も放置され、再建のめどは立っていないという。私は石の階段を降り、敷地内に入った。
 雑草が盛大に生い茂ってはいるが、石畳のアプローチははっきりと残っていた。私が足を進めて中心部に入っていくと、砕け散った石の壁や柱の破片が転がったままで、想像以上の破壊され具合だった。バルクホルン博士が訪ねた頃と状況はそれほど変わっていないだろう。教会の建物自体も崩れ落ちていたが、入口のアーチはかろうじて原型を留めていた。私は階段を上がってアーチをくぐった。体育館ほどではないが、かなりの広さだった。破壊される以前の様子も写真で見たが、国内の巡礼者を集め、大掛かりな礼拝を執り行っていた広間であり、収容人数は300人以上だったはずだ。しかし跡形もない。崩れ落ちた屋根の瓦礫は端に寄せられただけで積み上がっている。床の敷石も無残にめくれ上がり、がたがたで、慎重に歩かないと躓きそうである。
 私は床に落ちた太い梁を跨いで奥に進んだ。ふと振り返ると、太い石の梁に文字が刻まれているのが見えた。変だな、と思った。梁に施された装飾の向きからして、そこは上面だった。つまり室内に集った礼拝者からは決して見えない向きなのだ。私はしゃがみ込み、石の表面を覆う土を手で払った。古いギリシャ語だった。現代ではほとんど通じない、千年ほど前の人々が使っていた古代の文語的なギリシャ語だった。「己を見よ・・・」私は声に出して読みつつ、戦慄した。バルクホルン博士が論文に残していた一文だった。
 途端に強い風がごうっと音を立てて吹いた。目に砂粒が入り、私の視界を奪った。さっきまでそよ風しか吹いていなかったのに、いきなりの事態に私は戸惑い、目をこすりつつ、何度もまぶたを瞬いた。ようやく涙が眼球に入った砂粒とホコリを洗い流して顔を上げると、そこには黒い影が突っ立っていた。背中にぞっとする悪寒が走った。もちろん人の気配など感じていなかった。無人の廃墟の中をうろうろしていただけなのだ。しかし教会の石の壁を背後にぼんやりした黒い影が、まるで蚊柱のようなぼやけた輪郭の黒いものがゆらゆらと佇んでいる。ほんとうに人間の影のようにも見える。私は叫び出したくとも声が出ず、ただ全身を硬直させ、息を呑み、逃げ出すべきか、それともこの場にとどまるべきか、そんな葛藤の堂々巡りの中から一歩も踏み出せずにいた。
「久しぶりだ」
 それは明らかに声だった。古代ギリシャ語とも違う日本語が私の頭の中で響いた。
 私は大きく息を吐いた。そして声を絞り出した。「あなたが死を司る悪魔、なのか?」
「皆が好きなように呼んでいるが、それはどうでもいい」
 眼の前の蚊柱が輪郭を震わせた。徐々にまだらだった影の濃さが均一に均されていく。二本の足、胴体、頭部、腕といった身体のパーツがはっきりとした形に整えられていき、私の目の前にただの真っ黒な立体物のヒトガタが現れた。
「君も好きなように呼ぶといい、死神、悪魔、神、そう、なんとでも」
 声ではあったが、私の鼓膜は空気の震えなど感じていない。頭の中に直接響き、聞き間違えなどありえないくらいの力強い意思を感じさせた。
「私は、あなたと取引がしたかった」
「ほう、そんな申し出はずっとなかった」影は言った。「君たちの単位で数百年、ずっとなかった。しかし君が望むのなら受け付けよう」
「私があなたに寿命の半分を差し出す、その代わりにあなたが私の望みを叶える、そのような取引をヌズイ派の人々と数千年も行ってきた、それで正しかったのだろうか?」
「条件はそんなものだが」と影が言う。「人間の寿命とは私にとっても養分になる。しかし君が望むものの大きさでは半分では済まないかもしれない。君の望み次第だ」
「私の望みは単純だ。この世界の本当の姿を知りたい。この世界の本質を。この宇宙がなぜ存在するのか、あなたが知っているのなら教えて欲しい。それだけだ」
「それが望みなのか? 何も成し遂げることはないのか?」
「知ることができれば充分だ」
 私は言った。今までの人生で絶対誰にも漏らさなかった心の内を、目の前の黒い影に打ち明けることに何の戸惑いもなかった。
「この世界は誰のものでもない。私は君たちよりも多くの力を使えるだけの存在でしかない。この世界を作ったのが誰なのか私もわからないが、創造主など存在しないことははっきりと分かる。この世界は永遠に繋がった空間の中のひとつの宇宙でしかない」
「ひとつの宇宙・・・」
「宇宙に何故星があるのか不思議に思ったことはあるだろう。本来、この世界は均質なのだが、なぜか空間にムラが生まれることで星になり、その中に生命も生み出す。それもただの自然な成り行きでしかない。しかしムラが集まりすぎると空間を穿って下に新たな空間を造ることになる」
「ブラックホールのことか?」
「話が早いな、そういうことだ」影の手足が楽しそうに動いた。「無限の連環の宇宙の中のひとつの宇宙、それだけだ。そして、私は単なるこの世界を作った一つ上の空間の存在だという、それだけのことだ。だからこの世界では君らよりも制約を受けずに、ありえない力が使える。それを君らは神だの悪魔だの勝手に言う」
「わかった」と私は言った。「充分だ、私の望みはもう叶った」
「話が早くて助かる」と影は腕を伸ばした。私はまったく身動きが出来なかった。長く伸びた腕が私の胸に突き刺さり、めり込んだ。しかし私は痛みも何も感じなかった。
「そうか、そういうことか」影は言った。「君は濃い。君は私が今まで出会ったこの世界の生物の中でも最上級の濃さだ。だから理解も早かった。そう、何もしなければ、君はこのまま下の空間にまで落ち、下の宇宙で私のような存在になったはずだ。しかし、寿命の半分を貰ったので、それももうないだろう。君はまわりの他の連中と同じくらい生きる。半分貰ったがそれぐらいは残っている」
 影が腕を抜いた。私の中で激しい感情の閃光が走った。痛みでもないし衝撃でもなかったが、私の意識を遠ざけるには充分な激しい光の瞬きだった。しかし私は倒れなかった。数歩、ふらつきはしたがなんとか耐えた。気絶することもなかった。私は深い呼吸を繰り返した。膝に手を置き、肩を上下させ続けると次第に落ち着きを取り戻した。私は顔を上げて周囲を見回したが、黒い影は消えていた。気配もなかった。
 私は教会の廃墟を後にした。来た道を歩いて戻ってペンションに帰り、ベッドに潜り込んだ。疲労感というより、虚無感だった。自分の身体に穴が開けられ精気が吸い取られたようなものだが、私の全身の緊張も同時に解けていたので、逆に心地よくもあった。私はただゆっくりと身体を横たえていたかった。空腹感はなく、夕食も取らずに数分後には眠気に襲われ、気がつくと翌朝だった。ぐうう、と腹が鳴った。私はペンションの食堂で朝食を掻き込むように食べた。やっと生きた心地がした。言い換えれば、それは充足感だった。全身にみなぎる力を感じた。
 私はバーシアの町でその後、三日過ごした。教会の廃墟にはもう行かなかったし、ハゲでデブの神父を訪ねて行くこともなかった。ペンションのオーナーに借りた自転車に乗って、町のまわりの遺跡を訪ねたりして過ごした。そしてまたレンタカーと列車を乗り継ぎ、一日がかりの移動をこなしてイスタンブールに戻った。まだ有給はたっぷり残っている。私はそこでも数日の観光で暇をつぶした。
 博物館に行き、遺跡を見て、繁華街を歩いた。もともとイスタンブールにも何度も来るつもりでいたが、それはもうない。これが最後なのだからたっぷり観光しておきたくて、巨大な国際都市をさまよい歩いた。四日目のことだ。街角のケバブスタンドでケバブを買い、公園のベンチで食べた。広い公園だった。食べ終わって立ち上がると、子どもたちのサッカーボールが足許に転がってきた。離れたところで少年が手を上げて何か叫んでいる。私は蹴り返した、つもりだった。しかし空振りしてそのまま無様にすっ転んだ。少年が走ってきて何が言いながら、ボールを奪っていった。そうか、そういうことだったのか。私は影の言葉を思い返した。
 私は尻をはたきながら立ち上がった。これから先、私は特に優れたものが何もない、ありきたりの男として残りの人生を送らなければならないようだ。しかし怖がることは何もなかった。十四歳の頃からずっと、目立たないように過ごしてきたのだから、それを続ければいいだけ、それだけのことだった。
 
                          (了)

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