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プロレス・スーパーヒーロー列伝 傲慢と偏見、ブルーザー・バンディット編【短編小説】

 三年ぶりに訪れたアマリロは相変わらず埃っぽかった。町を出ればすぐそこにあるのは砂漠であるから当然なのだが、まだ五月だというのにテキサスの太陽はすでに日本の真夏のそれと変わらない輝きである。しかし空気が極度に乾燥しているので、皮膚に浮かんだ汗はすぐに蒸発し、さらりとした感触だけを残していく。蒸し蒸しした日本の夏とはそこが大きく違うところだろう。私は市の郊外の空港で借りたレンタカーで、そのまま今回の目的地に向かっていた。町の中心からさほど離れていない、商業地区の外れにある倉庫である。スタン・ハルトマンが主催する団体の興行が今夜、開催されるのだ。
 この倉庫を訪れるのは二度目だった。夕方に辿り着くと駐車場には来場者の車がかなり停まっていて、私ははしっこにやっと駐車スペースを見つけたほどだった。入口でチケットを買い、さっそく中に入る。スタンの姿はすぐに見つかる。来場したファンたちに向けて会場の一角で即席のサイン会を開いていた。
「やあスタン、見に来たよ」と私はファンの列が途切れたところを見計らって近づき、声をかけた。
「久しぶりだな、よく来てくれた」とスタンは度の強い眼鏡の奥の目を輝かせて答える。
「とりあえず、今日は試合をゆっくりと見させてもらうよ」
「そうだ、悪いのだが」とスタン・ハルトマンは大きな身体を縮ませるようにして言った。「せっかく来てもらったのに悪いが、明日は急用が出来てしまってね。明日の予定だったインタビューは今日の夜にしてもらえないか。かなり遅い時間になってしまうと思うのだが」
「私はそれでも構わないよ」
 再び地元のファンが押し寄せてきたので私はサイン会場から離れた。
 スタン・ハルトマンが主催する独立団体、TWAAは設立されて三年半となり、すでにテキサス州内のローカル団体の枠を越えて人気を博している。とはいえテレビの中継もなく、せいぜい四、五百人までの会場を借りてハウスショーを繰り広げるに留まっているが、半年前にはこの団体出身の若手が日本遠征を果たすなど国内外で存在感が増している。スタンはこの団体を全米規模のメジャー団体に育て上げようというより、あくまで地元密着型の若手の登竜門にしようとしている。TWAAで鍛えられた若いレスラーが将来メジャー団体と契約を結ぶところまで登りつめれば、きっと彼はニコリと笑って「よくやった」と送り出すだろう。そんなスタンの思惑を以前に聞いていた私の目から見ても、若いレスラーたちの対戦内容は確かにまだまだな面が大きいと言わざるを得ないだろう。いや、きらりと光るものを持った若手がいないことはない。しかしフィジカルに優れるレスラーはどこかアピールに劣り、その一方でショーマンシップを発揮するレスラーはレスリングの基礎が劣るなど、玉石混合といった試合内容が続いた。いや、それでも会場に集まったファンはかなりの盛り上がりを見せていた。スタン・ハルトマンが現役の頃のような、ハードなレスリングに最近の派手な演出がうまく混ざり合い、決して退屈した興行でなかったことは確かである。約二時間、七試合ほどが繰り広げられた興行が終わり、私はハルトマンがスタッフに混じって会場の後片付けをしているのを入口から眺めていた。日本に遠征していた頃、会場狭しと暴れまわり、観客の椅子をなぎ倒していた彼が現在、倉庫の床に並べられた折りたたみ椅子を片付けている姿を見て、私は思わずクスリとしてしまった。
 一時間ほど待ち、ようやくスタンが「待たせたな、行こうか」と声をかけてきた。私は彼の車に乗り、五分と離れていないレストランに向かった。彼はすっかり馴染みのようで、ウェイトレスたちは親しげな挨拶を彼に向けた。地元の有名人が店にやってきて場が華やぐ一場面だった。
「どうだったかな、今日の試合を見て」テーブルに向かい合って座るなり、彼がそう話しかけてきた。
「そうだな……」と私は答える。長年、レスリング会場を取材してきた目が私にはある。一流となってスターダムをのし上がったレスラーがまだぺいぺいの若手だった頃を見たことも、隆盛を誇った団体が寂れて消えていったその過程もつぶさに見てきた。私は正直に話した。今夜目にしたすべての試合、すべてのレスラー、観客達の盛り上がり、誰が伸びそうだ、あの試合は客も白けていた、そんな取材者というより一人のプロレスファンとしての視点でどう見たかを、スタンに全て話した。彼は目を閉じて腕を組み、何度も頷きながら私の話を聞いていた。
「君の話はためになる」と彼は言う。「そんなに私の感じたものとは違わない。うん、そういう意味でも私も自信になるよ。で、そうだな、本題に入ろうか。メールでは、サンディのことを聞きたいんだったかな」
「イエス」と私は答えた。「もちろん、君の団体のことも記事にするよ。それは決まっている。雑誌のスペースも空けてもらっている。しかし、それとは別に、僕のライフワークにしている記事、というかエッセイと言うか、一人のレスラーにフォーカスした記事を書いていてね。これはまだどこの雑誌に乗せるかと、そんなのも決まっていないんだが」
「俺のことも書いてくれるのかい?」
「実はこのエッセイでは、一人のレスラーの生涯、本当に生まれてから死ぬまでのことを書くつもりなんだ。だから君はまだだな」
「オーケイ」とスタンは眼鏡の奥の瞳を輝かせて笑う。しかし私は見逃さなかった。続けて言葉を繋ごうとするスタン・ハルトマンの表情がわずかに曇った一瞬を。私は鞄からICレコーダーを取り出してスイッチを入れさっそくインタビューを開始した。

────まず、ブルーザー・バンディットとの出会いから聞かせてもらえないでしょうか?
ハルトマン ああ、サンディとは大学が同じだったんだ。しかし学年は二年離れていたから、それほど親しいわけでもなかった。寮の部屋も違う棟だったし。同じフットボールチームに属してはいたが、彼がレギュラーの時も私はまだ補欠になるのがせいぜいだったからな。
────彼は当時から相当なプレーヤーだったということでしょうか?
ハルトマン そうだろう。そうとしか言えないね。日本人の君には分かりづらいだろうが、彼はプロフットボールのドラフト一巡で指名されたからな。これはとんでもないことなんだよ。少なくとも同じ年代の若者の中で上位十数人に選ばれたということなのだから。それだけの運動能力を持っていると周囲が認めたわけだ。この凄さはアメリカ人以外にはうまく伝わらないかもしれないな。
────いや、わかりますよ。日本にはフットボールのプロリーグはないのですが、野球にはありますからね。つまりそれだけ、彼はフィジカルエリートだったのですね。
ハルトマン そうだ。それは君たちもリングで目にしているはずだ。彼は大学でもほとんどレスリングなんてやっていなかった。それでもあれだけの運動能力を見せつけた。そうだろう? 高校ぐらいから真剣にレスリングに取り組んでいればオリンピックの金メダルを取っていてもおかしくなかっただろうね。いや、間違いなくメダリストになっていただろう。
────大学時代のエピソードでなにか印象に残っていることはありますか? 彼はそんなフィジカルエリートの一方、知性的な一面も知られていますが。
ハルトマン 確かに彼はよく本を読んでいた。大学の寮の部屋にも難しそうな本が並んでいたのを見た覚えがあるよ。何だったかな、そう哲学とかそんな類の本だ。禅についての本も見た覚えがある。詳しくは聞いてないが、父親から本を読め、賢くなれ、そう叩き込まれていたようだ。一度、彼が話していたんだが、彼の父親は文盲だったそうだよ。ずっと炭鉱で働いていたって言ったような記憶がある。いや、そのあたりは少し曖昧だな、はっきりと断言は避けておくが。

 ブルーザー・バンディットことサンディ・ゴーディッシュの幼少時代は判っていないことが多い。父親はハンガリー系の移民で子供の頃にアメリカに渡ってきた、と本人が以前にインタビューで語っている程度で、それ以上のことは推測の域を出ないものが多い。今回のアメリカ訪問で彼の夫人にも電話でインタビューすることが出来たのだが、私の質問に彼女は「彼の親族にはまったく会っていない」と答えた。「結婚した当時、すでに彼の両親は他界していて、兄弟もいないと聞いていた。申し訳ないが、彼のルーツに関することは私もほとんど聞いていない」と。

────しかし、フットボールの世界で彼はキャリアを築けませんでした。怪我が原因だったのですね。
ハルトマン 膝の靭帯を切ったのが大きいな。それも一度ではなくて、やっと治って復帰した直後にまたやってしまったんだな。私が大学を出た直後、プロチームとの契約に向けて頑張っていた頃に一度、彼と偶然に会ったことがあるんだが、松葉杖をついていたよ。あれがなければ彼のキャリアは続いていただろうね。つまりプロレスラー、ブルーザー・バンディットは誕生していなかっただろう。
────プロレスの世界に彼を誘ったのはあなただ、という説が昔から囁かれていますが。
ハルトマン いや、それは違うな。しかしレスラーとしてデビューしたのは私のほうが早かったのは確かだ。私はプロフットボール選手を諦めて地元の中学校で体育教師をしていたんだが、それもほんの半年間でやめて、ザ・ファルコンズの道場に入門して、半年でレスラーとしてデビューした。サンディは私がすでにフロリダでリングに上がるようになった頃にファルコンズのテリーに直接スカウトされて、彼の道場でトレーニングを初めたはずだ。だから私たちは道場でも同時にはトレーニングはしていない。
────それ以前は新聞記者として働いていたそうですね。
ハルトマン 新聞にフットボールについての署名コラムが何度か載ったことは確かだが、実際は新聞社のカメラマンのアシスタントをしていたらしい。これは本人から直接聞いているから事実だな。普通のアシスタントが二往復、三往復かけて運ぶような大量の機材も彼なら一度にまとめて担いで運んでしまうから、重宝がられた、なんて言っていたな。でもまあ、そんな生活はやってられなくなったのだろう。膝が治って以前のように動けるようになっていたからね。
────そのあたり疑問なのですが、プロフットボールに復帰する道はなかったんでしょうか?
ハルトマン プロのチームは厳しいからね。不可抗力の怪我であってもやはりまた故障するんじゃないか、と思われてしまう。それに例えドラフト一位であっても、毎年新人は入ってくるからね。一度道から外れると、もとに戻るのはなかなか難しいのだろう。正直、彼としても戻れるのなら戻りたかったはずだ。しかし事情がそれを許さなかった。それで自分の運動能力を生かせる仕事として選んだのがプロレスだよ。
────彼はプロレスを下に見ていた、という声も聞かれますが。
ハルトマン いや、それはどうかな。実際に私も一緒に世界のあちこちをサーキットした時期があるが、しょっぱいレスラーに手厳しいところがあったから誤解されたのだろう。彼は実力が伴わないのに人気のあるレスラーにはまったく容赦なかったからね。それのせいで二度と呼ばれなくなった地区も二つや三つじゃない。

 ブルーザー・バンディットについて語る関係者の口から必ず聞かれるのが「彼とは仕事がやりにくかった」という言葉だ。そして異常に高いプライドの持ち主だったとも。二メートル近い巨体、屈強な筋肉、そして並外れた運動能力を備えた彼のことは、実力世界一とも称される一方で、プロモーターや対戦相手から好かれていたとは言い難い面もある。とにかく彼は自分を高く売ることに腐心していた。プロの世界であればそれも当然なのだが、高いプライドゆえ度が過ぎたエピソードも枚挙に暇がないのである。実際、若手時代の彼はレスラーとしてデビューした翌年にはメインイベントのリングに上がるなど、飛び抜けた出世をしていくのだが、それもすべて高い身体能力によるところが大きい。

────あなたはニューヨーク時代にまだ本名で活動していた彼とダッグチームを組むことになりますが、その経緯は?
ハルトマン 単にテリーからの司令だな。ファルコンズの道場出身の我々は五年間、彼らにマネージメント権があったからね。
────あなたからみてやりにくいということは?
ハルトマン それはなかった。とにかく彼は真面目な男であり、レスリングに真摯に取り組んでいたからね。それに私は彼より年下だが、レスラーとしてのデビューも先だし、キャリアも私のほうが先に築いていたから、そのあたりは気を使ってくれていたよ。
────では彼の山賊スタイルもテリーのアイデアでしょうか?
ハルトマン いや、彼が自分で少しづつ作り上げていったものだ。私のカウボーイスタイルなんて単純なものだが、彼はそんなありきたりなものでは満足しなかったんだな。実のところ、数試合だが私に合わせて彼もカウボーイスタイルでテンガロンハットを被ってリングに上がったこともあったんだ。自分には似合わないと言ってすぐに止めてしまったが。
────それは初耳です。

 私はほうぼうのジャーナリストや熱心なアマチュア研究家にあたってみたが、カウボーイスタイルの彼の写真は見つからなかった。しかしスタン・ハルトマンとタッグを組んでいたニューヨーク時代に彼は徐々に自らのスタイルを作り上げていく。モジャモジャの生やし放題のヒゲ、幅広のソンブレロを被り、鞭を振り回し観客を蹴散らしてリングに向かうスタイルなどがそうである。しかしニューヨークでの二人のタッグチームは突発的な事情により一時的に解散してしまう。

────その原因は、あれですか?
ハルトマン そう、完全に私の責任によるものだ。ニューヨークのスターだったブルーノ・カルネラの首に怪我をさせて長期休場に追い込んでしまったんだ。私のボディスラムが下手くそだった、それに尽きるよ。カルネラは庇ってくれたんだが、WHOのボスだったマクレーンはカンカンでね。カルネラの復帰戦まで私は東海岸から追放されてしまった。当時の私はそれだけの価値しかないレスラーだったということでもある。
────そのためあなたは日本に主戦場を移すのですね。
ハルトマン そうだ。ファルコンズのマネージメント権も切れて、以後はフリーとして活動することになるんだが、ちょうど日本から声がかかって年の半分は日本のマットに上がることになる。サンディもニューヨークはすぐに離れて、ダラスとフロリダを主に回っていたはずだ。そこで自分のスタイルを確立させたんだな。

 スタン・ハルトマンとのタッグチームを解消した後のブルーザー・バンディットは基本的にテキサス州ダラスが本拠地で、そこから全米と世界中を回っていた。海外としては日本、オーストラリア、ドミニカ共和国、南アフリカなどが主戦場になる。大きな身体を活かしたラフファイト、並外れた運動能力とクレバーな試合運び、山賊キャラも徐々に認知されるようになり、バンディットはスターレスラーの座に駆け上がる。転戦先ではほとんどメインイベントのリングに上がり、地元の善玉レスラーを痛めつけていた。時にはチャンピオンベルトも巻き、防衛戦も重ねるなど各地で飛び抜けたレスリング能力を見せつける。一方でダラス地区では、プロモーターであり往年の名レスラーのフリッツ・フォン・ヴィルケの支配下に入っていた。基本的に悪役レスラーとして活動していたバンディットもダラス地区でのみ、善玉としてリングに上がっていた。当時、すでに引退していた父に代わってヴィルケの息子たちがレスラーとして主役の座にあり、アイドル的な華々しい人気であったため彼らを助けるのがバンディットの役どころだった。スターレスラーの座を射止めながらも、その反面、世界中のプロモーターからは扱いづらいと評判がたっていた彼も、ヴィルケの前では従順でしおらしかった。東海岸から離れた直後、行き場を失っていたところを拾われた恩義もあり、彼にだけは逆らうことはなかったのだ。しかし他の地区では違った。自分の値段を釣り上げることも度々だった。
 圧倒的な体格と技量、大きさを感じさせない素早い動き、よほどのことがない限りブルーザー・バンディットは地元の善玉レスラーなどものともしない。しかし相手レスラーをまったく寄せ付けずに勝利を重ねていくだけではプロレスビジネスが成り立たない。レスラーにはそれぞれ役回りがあり、納得の上でリング上で闘うのがプロレスラーである。しかし、彼は時にはそんな約束をないがしろにすることもあった。

────そのあたりの裏事情はなにかご存知でしょうか?
ハルトマン 君たちもよく知っての通り、彼はよくシリーズの最終戦を拒否したりした。俺のギャラは低すぎる、もっと出さないと最後の試合は出ない、そう言って釣り上げるわけだ。大抵、プロモーターは出さざるを得ないから出すが、そんなこんなが積み重なって彼は面倒な奴という評判が広まってしまった。それに与えられた役回りをあからさまに破ることはなかったが、地元の主役レスラーをけちょんけちょんに潰した後、俺は軽くあしらっただけだ、ヒールだしな、なんてうそぶくこともあったそうだよ。プロモーターからすれば使いづらいと言わざるを得ないね。
────日本であなたとコンビを復活させた時もそうですか?
ハルトマン 私とタッグを組んでいたときは流石になかった。彼も私を見下すようなことはなかった。さすがに私のことを認めていたんじゃないかな。いや正直、私自身もよくわからない。日本のファンからは私たちはどう見えていたのだろう?
────お二人は実力面では並び立つ存在でしたが、キャラクター性ではスタン・ハルトマンの人気は絶大でしたよ。子供にもわかりやすいカウボーイキャラでしたし。しかし大男の山賊というブルーザー・バンディットは今ひとつだった、ような気がします。もちろん彼の実力に異論を挟む人間なんていませんでしたが。
ハルトマン そうか。

 若手の頃には荒削りなだけのコンビだった二人は、それぞれトップレスラーの地位を確立したのち、日本でチームを復活させる。今回はファルコンズの命によるものではなく、日本のメジャー団体だった汎日本プロレスと真日本プロレスの二団体の抗争によって偶然、二人が再会を果たしたのである。バンディットはもともとヴィルケと汎日本の提携ルートがあったため、汎日本のマットに上がっていた。そしてすぐに外国人レスラーのトップの地位を確保し、汎日本の善玉レスラーと激しく競り合って観客を熱狂させていた。その一方でスタン・ハルトマンは真日本プロレスのトップ外国人レスラーだったから、二人が日本の地で絡むことなどなかった。しかし日本の二団体は外国人レスラーの引き抜き合戦を激しく行い、スタン・ハルトマンが汎日本に移籍する。まったく秘密裏に進んだ交渉により、テレビの生中継にいきなりスタン・ハルトマンが登場するといった日本中のプロレスファンどころか、我々マスコミさえもあっと驚きの声を上げた鮮烈の移籍劇であった。すでに二人はファルコンズの道場の同期生(前述のとおり同じ道場の出身だが、時期は重なっていない)という情報は知れ渡っていたから、トップレスラーの二人がタッグを組むという仕掛けに、ファンは熱狂を持って応えた。汎日本プロレスの観客動員は前年度の三割増し、テレビの視聴率も五パーセントほど跳ね上がったという。日本のプロレスマスコミが行うアンケート投票でも「最強のタッグチームは?」という項目には現在でも二人のチームが一位になるほどである。年末恒例のシリーズ戦「地上最強タッグ決定リーグ戦」でも二年続けて優勝を果たすなど、桁違いの活躍ぶりだった。

────当時、私はまだ駆け出しの記者でしたが、正直に言うと、このコンビは長続きしないだろう、と思っていました。お二人が強すぎたからです。
ハルトマン それは我々も感じていたことだ。私たちは他のタッグチームを蹴散らしすぎた。もちろんプロとして見せ場は作ったつもりだが、私もサンディも互いに張り合っていたのはあるんだ。友情はあった。険悪になったことなんてない。しかし「こいつには負けられない」と私も彼も思っていた。お互い、口に出したこともないが。
────コンビ解消はいきなりでした。
ハルトマン はっきりと覚えているよ。日本の空港でのことだ。我々は同時に出場したシリーズを終えて、それぞれ別の地に旅立つところだった。私はイングランドに、彼はオーストラリア行きにだ。飛行機が三十分違いだったんで、汎日本のスタッフに一緒に送ってもらって、出発ラウンジでくつろいでいた時だった。いきなり彼が言ったんだ。「スタン、悪いが俺は真日本に鞍替えする。俺達のチームも今回までだ」と。
────まったく兆候はなかったんですか?
ハルトマン 君たちが感づいていたというのは後で知ったことだ。私は日本語の新聞は読めないからね。
────では、その直後にあのジャン=リュック事件が起きたのですね?
ハルトマン そうだ。日本のマスコミは理解してないかもしれないが、当時の世界のプロレスの中心にはジャン=リュックがいた。私でもなく、サンディでもなく、他の誰でもない。彼が一番、客を呼べるレスラーだった。ジャン=リュック・ジャイアントが、いや彼と彼のマネージメント権を持っていたWHOのマクレーンが世界のプロレスを仕切っているようなものだったんだ。その彼らとサンディはひと悶着を起こしてしまったんだ。

 汎日本と真日本、日本国内の主要団体であった両者は、ブルーザー・バンディットの移籍をもって引き抜き合戦を手打ちとし、以後は鳴りを潜めることになるのだが、興行面では相変わらず張り合っていた。バンディットのジャン=リュック事件にはそんな背景、つまり真日本に新たに移籍する自分には大きな勲章があったほうがいいだろうという配慮が働いたものだとする説がある。当時、世界一の大巨人と讃えられ、絶大な人気を誇っていたジャン=リュック・ジャイアントを叩きのめせば大きなニュースとなり、日本のみならず世界中で自分の地位がさらに向上する、そうバンディット本人が考えていたのでは、と。オーストラリアのプロレス界はニューヨークのWHOと提携関係にあり、ニューヨークのレスラーが多く遠征し、試合を行っていた。バンディットもヴィルケの斡旋により主要マットにしていたが、後年、ヴィルケの関係者が語ったところによればジャン=リュックとスケジュールが合わないように配慮して彼を送り込んでいたとのことである。しかしその時だけ、二人のスケジュールが重なり、リング上で相対することになった。バンディットは悪役レスラーだが、大巨人、ジャン=リュック・ジャイアントは違った。当時でも現在でも無二の存在である「旅する善玉レスラー」として世界を股にかけていたのだ。激突するのは避けられなかった。
 オーストラリアのアデレード会場でのこと、地元のヒーローであるピーター・ギャレットを痛めつけていたバンディットに対して、ジャン=リュック・ジャイアントが試合終盤、救援に駆けつける。会場は世界の大巨人の登場に狂喜し、大きな歓声が上がった。初めての顔合わせでもあり、バンディットは簡単に場外に弾き飛ばされるはずであった。しかしジャン=リュックから放たれたパンチで一旦はリング外にまで突き落とされたものの、バンディットはすぐさまリングに戻る。そしてジャン=リュック・ジャイアントをボディスラムの体勢で担ぎ上げ、マットに叩きつけた。硬いワイヤーロープで結ばれたはずのリング全体がたわみ、今までプロレス会場では聞かれたことのない音が、ダンプカー同士が正面衝突をしたかのような物凄い轟音が会場内に響き渡った。大巨人が投げ飛ばされる、まさに前代未聞のビッグニュースとなって世界を駆け巡った。

────その時の顛末は彼から聞いていないのでしょうか?
ハルトマン 聞いてないね。日本の空港で別れて以降、彼と会ったのはほんの数回だけなんだ。それも立ち話程度のね。しかし後年にジャン=リュックからその時のことは詳しく聞いている。あれは彼のサービスなんだよ。
────サービス? ジャン=リュックのですか?
ハルトマン そうだ、ジャン=リュックと合意の上であのボディスラムがあったんだよ。当時、圧倒的な体格差で他のレスラーを押しつぶすだけの自分にジャン=リュック自身が飽き飽きしていたんだそうだ。だからあのボディスラムを許したそうなんだ。
────しかしその後、バンディットはニューヨークには一切呼ばれなくなります。
ハルトマン WHOのマクレーンはかなり憤慨したようだね。自分のところの一番の商品であるジャン=リュックに傷がついてしまったんだから。ただサンディの価値がさらに上がったのも確かだ。彼の真日本への移籍もかなりのインパクトがあったはずだ。
────それは否定できません。しかし、私の感覚では、あなたとのタッグを解消した後のバンディットは迷走をはじめたような気がします。あなたがある程度彼をコントロールしていたのではないでしょうか?
ハルトマン 私が彼をコントロール? いや、それはないな。サンディは確かに各地のプローモーターとよくいざこざを起こした。しかし彼がルールや不文律を守らないような本当のアウトローだったかというと、それは違うんだ。
────どう違うのでしょう?
ハルトマン プライドがあったからだろう。彼は不当な扱いには決して口を閉ざしたりしなかった。それにギャラの釣り上げだって、法外で高額なギャラをふっかけたわけでもない。プロモーター側も大抵、事前のギャラ交渉でも調子のいいことを言う。しかしいざ払う段になると値切ってくる輩も多い。客の入が悪かった、経費がかかって赤字だとかなんとか。サンディはそんな汚いやり方が許せないだけなんだ。
────でもそんなのはビジネスならプロレスに限らずよくあることではないでしょうか? それに同じプロレスビジネスに長く携わったあなたは現在、こうして元気な姿でいます。
ハルトマン そうだ、その通りだな。なぜ私と彼は道を違えたのか……

 スタン・ハルトマンとのタッグチームを解消したわずか三年後、ブルーザー・バンディットこと、サンディ・ゴーディッシュはドミニカ共和国において突然、帰らぬ人になる。それも試合会場の控室で、プロモーター兼現役レスラーのホセ・フェルナンデスに心臓をナイフで刺され、数時間後に病院で心停止が確認されたのである。二人の間で何らかのトラブルがあったのは確認されている。しかし本人も、当日の控室にいた他のレスラーたちもこぞってフェルナンデスの正当防衛を主張した。バンディットから一方的な暴行を受けたため身の危険を感じ、仕方なく刃物を出してもみ合っているうちに、たまたま胸に刺さってしまったのだ、と。現に彼の額には部屋のコンクリートの壁に叩きつけられた時の打撲と出血が確認された。数カ月後の裁判でもフェルナンデスの主張は認められ、彼は無罪放免となった。

────我々、プロレスファンからすれば、まったく後味の悪い事件です。
ハルトマン 私も最初は新聞に書かれていたことは信じていたよ。なにしろサンディはあちこちでトラブルを起こしていたからね。しかしどこかで疑いの気持ちもあった。サンディは知性的な男なんだ。控室で暴れるような荒くれ者じゃない。現に私が知る彼は控室で大声を張り上げたことだって一度もない。何かが変だ。
────確信があるのですか?
ハルトマン これは言おうかどうか迷うところだが、四、五年前にドミニカ共和国からEメールが届いてね、私はブルーザー・バンディットの死の真相を知っている、とそんな書き出しだった。
────本当ですか?
ハルトマン ドミニカのとあるプロレスファンがメールの差出人だった。彼はホセ・フェルナンデスがバーで酔っ払って本当のことを話しているところを偶然、聞いたそうだよ。それによるとすべて仕組まれたことなんだそうだ。もともとの原因はドミニカ国内でいくつかの団体が競争状態にあり、ホセの親玉にあたるプロモーターにサンディが恥をかかせたとか、裏切ったとか、そんな理由なんだそうだ。控室にいたレスラー全員が関わっていたらしい。そしてホセが背後からサンディに近づき、肩を叩いて振り返ったところいきなりナイフを突き立てたのだと。それからホセは自分で壁のコンクリートに頭をぶつけて流血し、さらには自分の髪の毛を抜いてサンディの指に絡めたりとそんな工作までしたんだそうだ。
────信じられないような、もしかしたらそれが真実だと思いたいような……。あなたはどう思うのですか?
ハルトマン ただのEメールだからね。真実かもしれないし、イタズラかもしれない。子供のように信じるわけにはいかないね。しかしそれでも、どうしてサンディはそんなトラブルから逃げることが出来なかったのか、ただ運が悪かっただけなのか、それとも不可避だったのか今でも考えてしまうよ。とてつもない才能を持っていたレスラーだけに、余計にそんな思いが頭の中でぐるぐると回ってしまう。私が何かアドバイスをしていれば避けられたのか、いや、そんなことは無理だったのか。だからこうして私は君のインタビューに答えている。彼がとてつもないレスラーだったことを今の若いプロレスファンにも知ってほしいからね。

 私はICレコーダーのスイッチを切った。スタン・ハルトマンは私の正面でふうっと息を吐き、身体を仰け反らせて椅子の背もたれに寄りかかった。もう夕食のステーキはとっくに食べ終え、コーヒーは何杯もお代わりした。レストランも人影が減り、静かになっている。
「もう少しで閉店になるから、ホテルまで送るよ」
「レンタカーが会場に置いたままなので、会場まででいいですよ」私は言った。「何度も私のインタビューに付き合ってくれたあなたならご存知でしょうけど、今、レコーダーは止めました。これからはオフレコです。あなたが何を喋ろうと私は記事にはしません。何か言い足りないことは?」
「本音が聞きたい? そうかい?」
 ふふっと私は笑った。「そういうことです」
「サンディの息子がいてね、もう二十八歳なんだが、彼がどうもプロレスの世界に入りたいようなことを言ってきている。レスリングの経験はまったくないが、フットボールはしている。プロには届かなかったが、保険の仕事をしながらクラブチームでずっとラインズマンとして激しくプレーをしている。そんな彼が今からプロレスの世界に飛び込みたいそうだよ」
「それは面白いですね、受け入れるのですか?」
「若い人の挑戦を拒む理由はないね。誰でもやりたいならやればいい。私の団体は基本的にそんなスタイルなんだ」
「デビューが決まったら教えてください。また取材に来ますよ」
「さっきの続きじゃないんだが」とスタン・ハルトマンは太い腕をテーブルに乗せ、言った。「サンディが死んで私が今もこうして元気でいるって話だが、難しい話じゃない。私は彼のことを反面教師にしたんだ。彼がやってきたことをしないようにしてきた。例えれば、ギャラの釣り上げなんてしたこともない」
「日本の関係者はみな言っていますよ。スタン・ハルトマンは使いやすかったと」
「そうだ。サンディのことで私も勉強したからな。そういう意味では彼には感謝している。でも正直に言って彼は私が何を忠告しても耳を貸すつもりなんてなかったろうな」
「そうなんですか?」
「ああ、彼は私のことなんか下に見ていたからな」とスタン・ハルトマンは苦々しいものを口に含んだかのように表情を歪めた。「言ったとおり彼はドラフトの一巡で指名されたが、私はプロテストに引っかかりもしなかった。それが彼のプライドの源泉だよ。彼はプロレスなんか馬鹿にしていたし、プロレスラーのことも見下していた。リアルファイトで闘ったら一番強いのは俺だ、と思っていただろう。実際、私もそんなことをするつもりもなかった。彼に簡単にのされるのは目に見えていたからね。彼は本当にフィジカルモンスターだし、プライドの塊だった。正直に言うが、彼は皆から嫌われていた、嫌なやつだった」
 スタン・ハルトマンはそう言い、一度目を伏せた。しばらくしてから顔を上げ、私の目を正面から見据えた。そして言った。「ああ、そうだ。私は彼のことが大嫌いだったんだ」
 
                            (了)


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