メディア共同体

2018年6月24日に起きた福岡でのIT講師刺殺事件が起きてから、ずっと気になっているワードで「メディア共同体」というものがある。これは便宜的に付けている名前にしかすぎないのだけど、いわゆる「はてな村」といった特定のメディアを媒介に、オンライン上をきっかけとした、オフラインの生活上でも重層的に関係性を持つ共同体のことを指すことにしよう。

オンラインでのやりとりがきっかけに、オフライン、いわゆる現実に影響を与えたり、何かしらの事件を起こしたりすることは何もこの事件がはじめてではないだろう。しかし、少なからず一定のサイバー空間に集合する人々が、新しく構築している文化的な規範/逸脱はインターネット上にてさまざまな情報発信を積極的に行う身としても、十二分に感覚を得る。

人類学的なまなざしで2chをはじめとしたサイバー空間上でのやり取りを分析した事例は数多くある。しかし、それらが、オフライン上での関係も色濃く受けながら(ソーシャルメディアの登場が大きな影響を与えたように思う)、同時にまた生活に直結するような形で再構築しているのは、やはりスマートフォンの登場も大きいだろう。

マクルーハンのいう「メディアはメッセージである」というのは、メディアは単なる透明な媒体などではなく、メディア「そのもの」も意味を形成していく要因であることを端的に指摘しているものだ。今回の事件を見聞きし、情報を収集しながら、その意味を改めて考えていた。

哲学の文脈でいうと認識論的転回から言語論的転回へ、さらにメディア論的転回へという流れで議論が進んでいった側面がある。しかし、思うにこれら「認識」「言語」「メディア」というものは、重層的に関係しあって、「意味」を構築していると、コミュニケーション論を研究する身として考えてしまう。

学問というのは厳密にその理論的体系や分析方法などを構築するある意味でのイデオロギーを形成する大きな要因であったが、そうであったのも、「メディア」を抜きにして語れない側面があるだろう。メディアの概念は、そうした重層的で複雑なもののあり方をより可視化したと捉えている。だからこそ、既存の学問体系の中で構築された枠組みを引き継ぎつつも、新たなに創起されている事象に目を向け、向き合っていくための枠組みを再構築する努力も大切だろう。

今回の事件では(にも関わらない側面があるが)、「はてなブログ」のユーザーが積極的にそれぞれの観点から事件を再検討し、意見やまなざしを表明する中で、徐々にその背景が浮き彫りになっていった。

今後、このような複雑に入り組んだ関係性を紐解くには、専門家/非専門家といった二項対立に陥りきらず、かといって「専門」という枠組みを安易に崩すのではない、プロ-アマチュアといった中で考えていく必要性を考えさせられた。

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