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出発点グアテマラ、あるいは語り得ぬ虹についての予告

Ψ 出発点グアテマラ

物語を始めるからには出発点というものが必要です。

そこで、唐突に思われるかもしれませんが、中米の小国グアテマラの話を少しばかりして見ましょう。

といっても、グアテマラの何からお話をすればよいやら……。

まあ別に旅行記を仕立ててネットで売ろうというわけではありませんから、そう、まったく私的な物語を、暇つぶし程度に皆さまにご披露するにすぎませんから、とにかくラーゴ・デ・アティトランという火山湖のほとりに、妻と二人滞在していたことがあるとだけ書いておくことにしましょう。

アティトラン湖は実のところ、出発点というよりはむしろ到達点といいたくなるような、不思議な虹に出会った場所なのですが、今はそのことはこれ以上書きません。

というのも今ぼくの頭の中にあるのは、レーク・コモのことなのです。コモ湖はイタリアの湖ですからラーゴ・ディ・コモと呼んだほうがいいでしょうか。

話が入り組んで申し訳ないのですが、グアテマラのアティトラン湖は世界で一番美しい湖だと言われてましてね。

今まで聞いたこともないような国の、まったく知らない湖が世界で一番美しいと言われても、それがどうしたと思われるのが関の山でしょうし、実際その湖畔に泊まってみましても、大きさこそ山中湖の20倍もありますが、どうしてこの湖が世界一美しいと言われるのかさっぱり分かりません。

何か言われがあるのだろうと思って調べてみたら、オルダス・ハクスリーという人の言葉が発端なのが分かりました。

ハクスリーと言えば「知覚の扉」というエッセイで、ペヨーテというサボテンの変性意識作用について書いたことで一部に有名な作家です。
(アメリカのロック・バンド、ザ・ドアーズの名は、この「知覚の扉」に由来します)

そのハクスリーが、「コモ湖は極限の美しさを持つ。しかしアティトラン湖はそれを超える」という意味の言葉を残していたのでした。

Ψ 未踏の欧州、レーク・コモとファッショの館

最近ふぇいすぶくで知り合った人生の先輩である建築家の方が、第二次大戦前夜のヨーロッパを舞台にした、おもしろい自動車レース小説を書いてらっしゃるのてすが、その中にレーク・コモ、いやラーゴ・ディ・コモが登場します。

コモ湖畔はヨーロッパ有数の保養地だそうで、そこにカーサ・デル・ファシオ(ファッショの館)というファシスト党の地方支部だったビルがあるのだそうです。

イタリアだからといって「ファッションの館」と間違えないでくださいね。「ファッショ(全体主義)の館」です。

ファッショ=全体主義と聞くとずいぶん物騒な気もしますが、そして現実に物騒な側面も多々あったわけですが、勝てば官軍負ければオクラで、負けて排斥されてしまったにすぎない面もあるようです。

ファッショという言葉はもともと「棒の束」を意味するラテン語由来のイタリア語で、1人では弱い人間も何人も集まれば強くなるという例え話から、個人主義、自由主義の行き過ぎをただし、集団の価値観を大切にするという考え方だったのです。
(日本で言えば、毛利元就の三本の矢の逸話に当たる話になりますかね)

第二次大戦前夜に作られたこの「ファッショの館」の、直線と直角で構成されたモダニズムの姿かたちを、未来的で美しいと思うか、非人間的な冷たさを感じるかは人それぞれでしょうが、時代の先端的デザインの象徴的例示として、歴史に残るモニュメントであることは間違いないでしょう。

ぼくはヨーロッパには行ったことはないし、お金持ちのパトロンでも現れない限り、この先訪れることもないように思いますが、間違って旧世界に足踏み入れる機会があれば、ついでに立ち寄ってみたいものだなと思います。

Ψ カンボジアの政治犯収容所、トゥール・スレンのこと

ファシズムという言葉で思い出すのはカンボジアのクメール・ルージュのことです。

こちらは曲がりなりにも共産主義ですから、第二次大戦時の日独伊の国家全体主義とは微妙に立場が異なりますが、国民の基本的人権をあからさまに踏みにじったあり方に関しては、大いに共通点を持っていると言えましょう。

カンボジアの首都プノンペンには、ポルポト時代に政治犯収容所だった場所がトゥール・スレン虐殺博物館があり、処刑場だったキリング・フィールドと並んで「観光の目玉」となっています。

もともとは高校として建てられた建物が、ポルポトによって収容所として転用され、2年9か月の間に2万人にも上る人が収容されて、生きて還った人は8人しかいないと言われます。

学校だったコンクリの建物のがらんとした室内に、拷問を受け殺されていった罪もない人たちの無数の写真がひっそりと展示されているのを、20年ほど前にたまたま訪れたカンボジアで見たときに自分が何を思ったかは、実を言うともはや忘却の彼方なのですが、今これを書いている間も背筋に違和感を覚え、胃の腑が踊り出しそうな冷ややかな何かを身の内に感じます。

そして、このような愚かで残虐な行為は、決してカンボジアという場所の持つ特殊性によるものではなく、ドイツでナチスがユダヤの人々を虐殺し、マレー半島で日本軍が無実の華僑の人たちを粛正したように、形を変えて何度となく人類の歴史に現れる、無惨にも理不尽な行為の一つでしかないのです。
(現在の世界の主流の価値観を作っている英米仏などの国家も、様相こそ違え五十歩百歩の残虐行為を行ない続けていることも忘れるわけにはいきません)

人類の愚かさな行為ばかりを掘り起こしていては、気が滅入ってしまいまが、事実に目をつむることは、こうした世界の現実から目を背けることになります。

それでは、嘘でかためられたお花畑のような空想を頭の中に繰り広げることになりかねませんから、もうお腹いっぱいという方にまで無理強いするつもりはありませんが、余裕のある方にはもう少しおつき合いいただければと思います。

Ψ マレーの華人虐殺とボルネオ島の日本語教室

第二次大戦時にマレー半島で日本軍による華人虐殺があったことを知ったのは、マレーシアのクチン市の日本語教室に、有償ボランティアの先生として派遣されているときのことでした。

マレーシアはマレー半島部分(半島マレーシアと呼びます)とその東側に位置するボルネオ島の北側(こちらを東マレーシアと呼びます)に別れて国土を持ちますが、ぼくが日本語の先生をしていたクチン市は、ボルネオ島のマレー半島に近い西側のサラワク州の州都です。

広島に住む牧師さんが世話人となっていて、クチン現地の有志が運営する小さな日本語教室に1年の予定で派遣されましたが、事情で半年で切り上げることになりました。

その日本語教室の事務室に、先任者の先生がおいていったのでしょう、マレー半島における華人虐殺について書いた本がおいてあったのです。

この虐殺事件はマレー作戦の主任参謀だった辻政信が計画、指揮したもので、英領マレーシアで経済的な力を持っていた華僑の人々を、抗日分子であると頭から決めつけて、実際に抗日活動をしていたかどうかとは関わりなく、無差別に大量虐殺したものです。

Ψ 華人虐殺の責任者・辻政信の無責任人生

敗戦時にタイのバンコクにいた辻政信は、上司の許可を得た上で戦犯としての追及からの逃亡をはかります。初め僧侶に変装してタイ国内に潜伏、のち中華民国・国民党に庇護を求めて中国大陸へ逃亡します。

こうしてイギリスによる戦犯裁判をまんまと逃げおおせた辻は、中国での国民党の形勢が悪くなると日本に帰国して潜伏生活をし、1950年、戦犯指定から外されると潜伏中の記録「潜行三千里」を発表してベストセラーになったというのですから、恐れ入ります。

そして1952年にはのちに自民党となる自由党から立候補して衆院議員となり、1955年、岸信介とケンカして自民党を除名されると、参院全国区に切り替えて第3位で当選、参院議員となります。

そして1961年、休暇を取って東南アジアの視察にでかけ、単身ラオスに入国、僧侶姿でラオス北部のジャール平原に向かったとされますが、その先の行方は杳としてしれません。

ラオスでスパイとして処刑されたとも、中国共産党に拉致されて雲南省に抑留されたとも言いますが、真相は今なお闇の中なのです。

軍隊の中でも勝手な行動を取ることで評判の悪かった辻のような人物が、実に世渡りがうまく、巧みに戦犯としての責任を逃れて国会議員にまでなったとは、我々の住む日本という国家の持つあまりのご都合主義に、怒りを通り越して慈悲心とともに笑うしかありません。

けれどもその人生の最期が、僧侶に化けてラオスで失踪とは、功成り名遂げたにも関わらず、自分の生き方に満足できず、暴走して死ぬしかなかった辻政信氏の哀れな人生に、合掌してご冥福を祈るのみです。

Ψ ボルネオ島の不良中年

ぼくがボルネオ島のクチンで日本語の先生として過ごした半年の日々は、授業に行く前にアルコールを引っかけていく依存症同然の日々でもありました。

正式な労働者としての雇用関係ではなく、有償ボランティアという立場でのお勤めでしたから、週に6日、夜に1時間半の授業を1コマ持つのが基本で、仕事としてはまったく緩いものでした。

おまけに生来の不精者ですから最低限の準備しかせず、とにかく日々1時間半の授業さえやり切ればいいというゆるゆるの目標設定なのに、それをこなすために酒の力を借りなければならなかったのですから、なんとも無様な人生です。

さて、マレーシアはイスラム教を国境とする国です。

そして、ムスリムの人たちはお酒を飲みません。

ですから、半島マレーシアのペナン島やクアラルンプルなどでは街中に酒を出す食堂はありません。

コンビニ的な売店ではビールを売っているのですが、酒税が高く設定してあるのでしょう、隣国のタイなどと比べるとだいぶ割高になります。

とはいえクチンは、東マレーシアと呼ばれるボルネオ島部分のの一大都市で、こちらは元々は先住民族の土地であり、イギリス植民地時代に華僑の人々が築いた街であることも影響するのでしょう、華僑経営の食堂では普通にビールを飲むことができるのです。しかも不思議なことには、値段までコンビニで買うより安いのです。

そんなわけで、夕方始まる授業を前に、近所の中華食堂に行くと、どこで作られたかも分からぬ怪しいパッケージの安ビールを飲んでは気力を振り絞って、わずか1時間半の授業へと向かう不良中年の日々を過ごしたのです。

Ψ ジョージタウンの華僑と印僑

マレーシアはクチンに半年いたほかに、ペナン島のジョージタウンには何度も行ってずいぶん長逗留しました。

ジョージタウンの下町は華僑と印僑が住み分けており、印僑の人たちは南インドのタミルナドゥ州から来た人たちがほとんどで、ぐるっと周りを歩いても10分か20分ほどの狭い区域に独自の文化圏を作っています。

それに比べると華僑の人々は圧倒的に数が多く、マレーシアの全人口の4分の1を占めるとのことで、ジョージタウンには中国寺も数多くあります。

華僑の人たちは郷土意識が強く、お寺も出身地ごとに別々なのですが、そのうちの一つである潮州寺に行くと、壁一面に自分たちのルーツがどこにあるのかを、色彩豊かな地図を描いて美しく提示してあるのです。

Ψ 亜州の果てに流されて

そういうものから受ける印象のせいでしょうか、ぼくはペナン島のジョージタウンという街にいると、故郷を離れて幾千里、見知らぬ異郷の太陽照りつける熱帯の地に流れついて、そこに生き、そこに死に、そしてそこに生まれ、何世代も暮らし続けながら、故郷の文化習慣を守り続けている人々の心のうちに根づく郷愁の想念というものについて、どうしても想いを巡らすことになるのです。

ぼく自身はこうしてインドという異国の地にいても、そこに骨を埋めるような意志を持っているわけではありませんから、いずれは日本に戻るのだろうと思いながら、異国に住み着いた彼らの人生を想像するだけなのですが、東京生まれで母父の郷土との繋がりもなく、日本に戻ったからといって自分の住むべき家もない人間でありますから、守るべき文化習慣もどこかに置き忘れてきてしまったこのあんぽんたんの命の行く末を、華僑の人たちの運命と勝手に重ねて自己憐憫の気持ちに浸っているにすぎないのです。

Ψ 到達点ハリドワル

8月に入って、日本は夏真っ盛りでしょうか。

こちらは雨期に入ったので、割合涼しい日々が続いています。

といっても昨日おとといは晴れ上がって、昼間の暑さは相当でした。

今日は朝から曇り空で、昼前になり雨がどどどどと落ちてきました。

ヒマラヤから雨雲が下りてくるのでしょうか、風はそれほどでもないのですが、日本で言えば台風のときのような雨が一気に降ってきます。

ハリドワルはヒマラヤの麓と言ってもいいくらいの位置関係で、こんな雨が降ったら一気に気温が下がりますので、街の人々は建物の中に入って1時間かそこら、雨がやむのを待ちます。

けれども、先日訪れたデリー近郊の農村部では、じゃんじゃん雨が降る中、子どもたちがずぶ濡れになって、踊ったり、雨樋から落ちる水を浴びて遊んだりしている姿を見させてもらって、生きることの根源的な歓びのエネルギーを分けてもらうことができました。

自分が子どものころ学校帰りに、雨のなか傘をさして、近所のうちの駐車スペースの雨樋から落ちる滝のような水を傘で受けて、その勢いを楽しんでいたことを思い出します。

こうして無為の時間を送り、無為の言葉を紡ぎ、無明の電脳の大海に仮想の紙つぶてを投げ続ける日々が、あとどれだけ続けられるかも定かではありませんが、漆黒の闇の中に煌めく小さな星たちの歌声に耳を傾けながら、今この一瞬という永遠を心に刻み続けることで、あなたとともに、この世のすべての存在の幸せを祈ってこの小文の締めくくりとします。

それではみなさん、ナマステジーっ♬

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※有料部にはあとがきを起きます。

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