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00円: ちょっとこいつは妻には内緒の話なんですが│独白小説

ほんのつまらない話で申し訳ないんですけれど、まあ内緒の話ってのは、ちょっとばかり興味が湧いたりするじゃないですか。

つまりです、この話はうちの妻には秘密の話なんで、そこのところはよくご理解いただきたいわけでして。

といっても、それがばれたから家庭崩壊するとかなんとか、そんな大げさな話じゃないんですけどね。

別にもったいぶってるわけでも何でもなくて、聞いてみれば「何だ、そんなことか
」と思うようなちっぽけな話なんですが、ほら、やっぱり秘密は秘密なんで、口にするのには勇気がいるってわけでして。

大体人間ってやつは、どうしたってええかっこしいなところがあるじゃないですか。

本当は情けない人間なのに、外見だけは取り繕って「はい、立派に人間をやっております」って感じの、つまりはあたしなども、そういうたぐいの人間と同じ穴のむじなってやつでして。

「空っぽのポケットいくら大きく見せたって所詮、空は空さ 」って歌の文句にありましたが、あたしの人生自体が空っぽのポケットみたいなもんでしてね。

それで、あなたもご存知の通りインドという国は、イスラム圏ほどじゃありませんが、アルコールに厳しいところがありますよね。

それでこうして、道端のチャイ屋で暑い昼間っから甘ったるいチャイを飲んだりするわけですが、このプシュカルなんぞという街は、表向きは聖地で、酒も肉もご法度ということになってますが、実際にはインドの人たちだって、宿に酒を持ち込んで、つかの間のバカンスを楽しんでるって次第で。

でまあバラナシあたりだったら、外人が入るような食堂では、大抵こっそりビールぐらい出してくれるもんですが、プシュカルはそれに比べると大分厳しくって、大抵の食堂じゃ、頼んでも断られちまいますわな。

そうはいってもジャの道は蛇ってやつで、一軒だけ気の利いた店があります。ヴァラフ・ガートの前のあの広場に面した屋上の店で、オーム・ババ・ルーフトップ・レストランってとこです。

ははは、今からでも一緒に飲みに行きたいですか、でもそれはちょっとご勘弁、というのもそれこそがうちの妻には内緒の話なもんですから。

ええ、酒は飲まない約束になってましてね。

例のパンデミックでロックダウンになってからというもの、妻と二人ずっとハリドワルで沈没してましたから、そうすると自然と酒からは足が遠のきます。ハリドワルでは酒を出す店は本当にありませんから。

別に酒がないからって、それはそれでどうということはない。昔はほとんど連続飲酒状態だったこともあるんですがね。

この十年ほどやってるヴィパッサナ瞑想のおかげもあって、どんなに暑いときでも「あー、冷たいビールがほしい!」なんて思うことはすっかりなくなりました。

とはいうものの、こうやって久しぶりに酒が飲める街に来てみると、「さて、最近の瞑想の境地の深まり具合で、ここで少々の酒精を入れたらどんな塩梅になるだろうな」などと、つまらぬ妄想が湧いてまいります。

もちろん、真面目に上座部仏教の教えにそって瞑想をたしなんでる方々には、到底言えた話じゃありませんがね。

というか、その大真面目に瞑想を実践してるのがうちの妻ってわけなんですから、こればかりは本当に、秘密中の大秘密というわけでして。

あなたなんぞはまだお若くて、大麻も試したことがないという純なお方なんだから、こんなあたしの世迷いごとなど、適当に聞き流してくださればそれで結構なんですが、いや、すっかりご無沙汰しておりましたCH3CH2OHの分子どもが、十分に胃の賦に収まったかと思うと体中の血管を駆け巡り、厳重なる脳関門をこっそりと大っぴらに通り抜けちまって、薄桃色の脳髄の神経細胞を浸していったときの意識の覚醒具合には、心底目を瞠(みは)りましたよ、この還暦間近のジジイめも。

いやはや、アルコールというまったくありふれた化学物質に、こんなにも強力な意識変性作用がありますとはねぇ。

それであたしが思ったのは、結局人間がこの世の神秘を忘れ果てて、快楽やら効率やらに溺れて振り回されてどっぷり社会性とやらに浸っちまうのは、この理性なんぞというミョーな代物が、どうにも変幻自在なくせに妙に融通の効かない言葉とかいう奇怪千万なブロックおもちゃに支配されてるせいに違いないということなんでして。

つまりです、アルコールはうまい具合に理性にブレーキをかけてくれるもんですから、使い方次第では、言葉が入り込む前の純粋な知覚に気づくきっかけになりうるってわけなんです。

あー、いや、どうも随分と喋りすぎちまいましたね、久しぶりに奥さん以外の日本の方にあったもんだから、くだらない話を長々と、いやいや、あたしなんかの話は何の参考にもなりようがありませんが、反面教師にでも何にでも、とにかく一つの経験として、あなたのような若い方にほんのわずかでも印象を汲んでいただけたら、こうして街角でお会いしてお話を聞いていただいた甲斐があるというものですわ。

ええ、それじゃ、そろそろ宿に戻って奥さんの様子でも確かめないと、多分まだ昼寝中だとは思いますがね、はい、それじゃあ、お元気で、ラムラムサーっ、!

#小さなお話 #随想詩 #短編小説 #エッセイ #コラム #茫洋流浪

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※有料部にごく短いあとがきを置きました。

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