『とある物書きの秘密』

 鍵を鍵穴に差し込む感触が好きだ。これは全く感情的なものであると思うが、鍵を開く時よりも鍵を閉じる時の方が好きだ。中の機構の解説をどこかで目にした記憶はあるが、それにはあまり関心を抱かなかったところを見るとそもそもが鍵を閉めるという行動への好感なのかもしれない。とすれば、封筒に糊を貼る時のあの感覚もそれと同種のものなのだろう。
 鍵やら封やら、後ろ向きな趣味だと思われるかもしれないが、そうではない。いや一般的にはそうなのかもしれないが、こと私の趣味の中では比較的前向きな方であるのだ。
 何よりそれは物事に区切りをつける儀式で、次に始めるための準備でもある。ダラダラとピリオドを先送りにしがちな私にとってそれは、日頃の不満足の解放に他ならない。であるからしてそれが比較的簡易に行える、或いは慣習的にやらざるを得ない時、なんだか得をした気分になるのだろう。
 逆にいえば、私は能動的に何かを閉じることが少ないのだ。若い頃に興味を持っていたものは、側から見れば自然消滅的に私が離れたようにも、限られた時間をやりくりする上で既にやむなく切り捨てたようにも映るだろう。だがそれらのほとんどは、火加減を変えただけで未だ冷えてはいないし、ともすれば明日急に歌を歌い出すかも知れない。例えの話だが。つまり私は物書きでありながら今も歌い手であり、奏者であり、劇作家であり、詩家であり、探求者であり、職人であり、教師であり、学徒であり、そのどれもにおいて夢半ばの半端者である。これからも興味が向くだけこの自称の肩書きは増え、その度に自身の実態が掴みづらく、自分の像は確からしくなっていく。
 ここまでが前置きだ。存外に話し過ぎたようにも思うが冗長という程ではないと信じている。また、こうした断り書きこそが何より無駄だということは分かっている。ただ、私のために必要なのだ。少し太い区切りの線だとでも思って読み飛ばしてくれて構わない。そうだ、せめてこの段落には意味のある文章を置かないでおこう。
 さて思い返してみればこんな私にも確かに秘めることというのがあるわけで、それを詳らかにとはいかないが、そこまでの物語程度ならお話しできるだろう。私が思うに秘密というのは、少なくとも第三者にとっては、内容やそれそのものに大した意味はなく、秘するに至るまでの物語にこそ価値があるものだ。物語のない秘密、例えば誰にも聞かせたことがないだけの奇特な手遊びなどは、そのうちに含まれない。あくまで定義したのは私であり、他人のそれについてとやかくいうつもりは無いが、逆に言えばここに話す私の秘密は、間違いなく物語を伴ったものであるということになる。
 私は、自らを暗い性分だとは考えていない。ただ明るく振る舞うよう求められる機会が少ないというだけだ。とは言え意識的に次の言葉を飲み込むことはある。これは言うべきではないことかもしれない。これは既に話す機を逸しただろう。これを言ってしまえば私の人格を疑わしくするかもしれない。これをいっても今更仕方がない。だらしなく内省し、見識張って名残惜しさを飲む。口下手だと人は言うが、少なくとも何でもかんでも口に出す者よりは、口の扱いを心得ている自負がある。
 故に私が何か言葉を秘したとしてそれは、配慮と迎合、或いは私なりの御愛嬌の結果なのだ。想いを伝えるだけが完成形ではないと、何かで読んだことがあるが、全くもってその通りだ。会話において意味を為すのは言葉だけに非ず。発話という観念の中には沈黙も含まれるのだ。本当の意味で秘めたことというのはむしろ、はっきりと発した言葉の裏にこそあるのだろう。
 ところで嘘とハッタリとフィクションとは区別されることが多いが、その実往々にして同じような文句をそれらに使い回していないだろうか。これは語彙の薄弱などではなく、言ってみれば不信心のようなものである。私のようなものが信仰するところの言葉の可能性を、口八丁などと揶揄して濫りに忌避する浅はか者のすることであるのだ。そして何より、秘め事とはそれらに増して信仰心の必要なものだ。秘した言葉と秘するに遣った言葉とを見比べて、風情を感じられるようなものが理想であるが、そうでなくとも自身の中で言葉というものが思想を託せるだけの存在でなくては到底為し得ないことだろう。日頃言葉を言葉としての側面でしか捉えていないのなら、他人の秘密は勿論のこと自身の秘密すら、正しく評することはできないとも言える。
 良い加減にそろそろ秘密について書いてはどうか。もし、そう思っている者がいるなら、私の企みがなかなか上手くいっていることの証左である。その上で何か思い至る者がいるなら尚喜ばしいことである。つまりは秘密はすでに書いている、ということだ。書き終えたとまでは言わない。今この時も書き続けているし、これからも書いていくだろう。私にとって他人から最も秘したいことといえば、私なるものを掘削したその苦心と滓であり、それらを生地に練り込んで薄く広げ、ここから饂飩にしようか素麺にしようかと楽しんでいるのだ。よもや蕎麦になりはしないかと楽しみにしているのだ。
 当然そこに興味を持ってもらわずとも良い。だからこそ、恥ずかしげもなくこんなものが書けるのだ。不恰好にも何かを秘しているとひけらかしているのだ。出来上がった冷麦なり何なりを、割りに美味いとご講評賜れば上々なのである。
 そんなこんなで私は私を秘するその経過を以て私を表現しているのである。再三断っておくが全くもってこれは後ろ向きな趣味ではないと締めくくることとする。


〜解説のようなもの〜

ショートショート、とある物書きシリーズです。とはいえこれをショートショートと呼んで良いものか微妙なところではありますが。とある物書きシリーズは、意識して色々な書き方を試しています。1作の中ではなるべく語調や言葉選び、書き手(語り手)のパーソナリティを統一しているつもりですが、そこは主観によるところですから、人によってはブレブレに見えてしまうかも知れません。
まぁそこも、
「秘された私自身のパーソナリティ」だと思えば、
僕は納得できます。

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