見出し画像

好きなひとの好きなものを好きになるように

自分の好きとか興味に対して、内的なものの限界を感じていた。島で暮らすことは、与えられる刺激を単に消費していく都市での生活への抵抗であったのかもしれない。しかし、ときに「好きなこと」である“はず”のことや「身体に根差した楽しみ」すら享受できない自分に虚しさを覚えることがある。以前は「時間の中に自分がいるのではなく、目の前を時間が流れているような感覚」や「ざるに流れる水のように、ただ体をすり抜ける」と表現した。この「身体の貧しさとどう生きるか」これがテーマなのだと思う。

個に委ねられた主体性

確かに「好きなことをやれ」という言葉の通り、「自分がいいと思うこと、感じるもの」は大事だと思う。信じられるものや祈りのあてがないからこそ「自分が感じるもの」という身体的なものを基点とするしかない。美味しいものを食べること、美しいものを見ること、そうした感覚は何よりも尊く、アイデンティティ形成の土台ともなる。

しかし、われわれは、国や宗教、共同体などにおける個の不自由の反動として、あまりに「個」を意識させられすぎているとも言える。自らの内から湧き出るものを捻り出すと、それがちっぽけなことに気づく。自らの感性と欲望の儚さ、自律という幻想に直面する。ならば「自分の身体(感覚や思考)」だけを拠り所とし、そこから見える世界の捉えかたでよいのだろうか?

足りない自分、壊れない自分、拡がらない自分

「人間の感性は歴史と社会のなかで形づくられたものである。音楽的な耳も、かたちの美しさに対する眼も、人間にとって享受されうるすべての感覚はみなそうである。ただ単に五感だけではなくて、いわゆる精神的な諸感覚や実践的な諸感覚も、ともに、人間化された自然によってはじめて形づくられるからである。」

たしかに人々は多様だ。ゆえに価値観や感覚もそれぞれだが、その背後には必ず「社会的な力」が存在する。環境が身体をつくる。だからこそ、身体を更新する出来事も起こらない、辿り着けない「自力で行動する欲望と能力」を奪われた「身体の貧しさ」に対して自己責任論をかざしてはいけない。もちろん「自分の価値基準」や「審美眼」的なものは大事だが、十分に近代に作られた身体を以ってして、過度なソレは「内」の空虚さを浮き彫りにする。

外を翻して内へと転ずる

西田幾多郎は「対象と自分の区別がない状態に陥らなければ、私たちは美しい絵画を見ても、あるいは音楽を聴いても感動することはない」という。

「これは自分なのか、自分じゃないのか?」そのあいだで揺らぎ、自分が自分であることが壊れながら新たな身体を構築していく。自分の中にある他者のボキャブラリーを増やしながら、自分をコラージュしていく。これは「内へ内へ」の動きではない。外を翻して内へと転ずる。この繰り返しの営みによって自分を形作っていく。私を主語にすると世界はとても狭い。わたしたちは他者の痛み喜びを感じることができ、音楽や絵画と一体となることができる。自己と他者は皮膚によって隔てられているわけではない。だからこそ「自分」という核に基づいた同心円状のバウムクーヘン型の自己拡張ではなく、別のものが身体に入ってくるのを許容する、待ち構えるマインドが必要なのである。

他者を通じて世界を感じる、“感じてしまう”。これは能動か受動かという枠組みでは捉えられない。あくまで「陥る」のである。自らに侵入してくるものは、美術館の作品なのか、広大な自然なのか、魅力のあるひとなのか。そのはじまりが偶発的な出来事で、理由なきものならば、それはやはり環境に依存する。だとするとやはり、自分は「陥りやすい環境」に身を置かなければならない。

地方移住について

約9ヶ月間、流れに身を委ね、ただそこで暮らしていたとしか言えないが、なんでも自分でやる文化とか、島的共同性、自律分散社会としての島とか、いろんな視点があったように思う。島に引っ越した理由はそこで暮らしてみたかったからという興味に尽きるが、この辺はわれわれが世界に意味を与え続けるためにの中で書いた。

おそらく期待していたものはあったのだろうし、地方が自己実現の場として描かれるように、これまでの思想をベースに、何にでもチャレンジしやすい環境ではあった思う。五島市は「わたしがわたしに還る島」というブランドメッセージを掲げる。

わたしがわたしに還る島
今日も海は果てしなく広い。夜空を見上げれば、星がキレイ。隣の漁師さんからもらった魚が美味しい。ああ、極上。魂の解放、こころの再生。あたりまえの日々の中で、わたしは“人間”に戻る。ここは都会のような“便利さ”も“サービス”も“娯楽”もないけれど、わたしがわたしでいられる、お金では買えない暮らし。自分を見つめ直し、可能性と向き合い、表現できる場所。島は私を映し出す万華鏡。

たしかにこれが一つの魅力かもしれないが、"私にとっては"同時に「わたしがわたしの範囲を超えられない」ことを感じてしまう。

わたしがわたしの範囲を超えるために

これまでの話を整理すると、克服すべきは「身体の貧しさ」であり、その方法は自己と他者の揺れ動きによる身体制作である。しかし現状、そこに陥るための機会が不足してしまっている。住む場所を変えることなのか、仕事を変えることなのか、どうでもいいことに触れ続けることなのか。もしくは、映画の世界に身を置くことなのか、1人のアーティストの人生に触れることなのか、人類学や社会学の書物を読むことなのか。色々手段はあるように思えるが、そうした意味で、これまでポジティブに捉えられなかった「消費」や「はたらく」ことに対する意識が変化した、自分にとっての大きな転換点であるような気がする。

これまで、「社会をカタチづくる」ことを考えるよりも、仕組化されていないところで、自分が一人の良い生活者、実践者として、豊かな身体をつくりたいと思っていた。しかし、今まで二者を切り分けて考えていたけれども、自分の身体の貧しさと向き合うためには、環境をつくる立場に立ちながらも、その中で自分の救っていくことなのかもしれない。

身体制作の運動。ものをつくる、文字を書く、表現することで、それらに自分の身体を作られる。もしくは自分をよく方向づける環境を選ぶこと。そうした「中動態的な自己拡張」を大切にしていきたいと思う。昔嫌いだったコーヒーの味が好きになるように、ノリで話したことが自分の意思になっていく言霊のように、自分の「かもしれない」という変化を待ち構える態度を身につけたいと思う。

数年前、大学院の授業の中で、「編集とは視点を決めて、材料を集めて、視点を決め直し、並べ直し、伝えること」である、という再構築の重要性を習ったことがある。そのとき編集者とは、なんと主体のない仕事なのだろうかとも思っていた。しかし、「積み上げては崩す」という編集の過程そのものが、自分の感性や思考を更新する手段であるのかもしれない、と今になって思うようになった。

2020.12.31


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?