インウ

圧縮の話。センスの死、あるいは法経と包茎

犬はなぜスーパーマーケットに行くのか

「犬は、近所の私に行くとき、スーパーマーケットを連れていく。その私のすぐ向かいにある別の私に比べて、こちらは安くてエサがいろいろある。」
という一文に、私がここである一定の規則的な「単語変換」を加えて、
「私は、近所のスーパーマーケットに行くとき、犬を連れていく。そのスーパーマーケットのすぐ向かいにある別のスーパーマーケットに比べて、こちらは安くてエサがいろいろある。」
という「正しい」文章を取り出してみせたところで、あなたが小学校低学年でもない限り、偶然にも“魔法”を目撃してしまったかのような表情を作ることはなかろうし、島田紳助でもない限り、この程度でべつだん「感動」を口にすることもあるまい。むしろ、答えを聞いてもまるで納得できない唐突な「クイズ」の解を披露されるときに生ずる、あの独特の陰鬱さを、ふと抱いたとしても罪はない。
 何か得るものがいくばくかでもあるとして――それは、ある種の変換規則とともに示されるある文章が、それよりも長い文字数の文章を一意に表すことができました、という懐かしい驚きへの回想だろうか。それとも、出現頻度と符号長に応じた符号変換が暗示するところは、平均符号長の低下という情報通信理論における可逆圧縮技術の基礎=本質だったはずで、そうそう、シャノンによってその下限理論値が示されたのではなかったかしら、というまるで役立たない記憶の再確認、なのだろうか。

圧縮の限界

 そのいずれが正しいのかには言及しまいが、どちらにせよ「パーソナルコンピューター」が「パソコン」や「PC」といった「社会一般に通用する略語」を獲得するに至る過程には、その言葉の日常的反復性=使用頻度の急激な上昇に呼応する形で、「圧縮の規則を覚える代わりに短く表現できる」ことのメリットが相対的に高まったことが決定的に関与していることは疑うまい。規則が一般化するのにかかるコストと、それに応じる利便性とを考慮すれば、「オウム真理教」には「オウム」という略称の発明が必要だったとしても、「千葉大学法経学部」に「ホーケー」といった「一般的な略語」を作ってあてがう必然性などはいささかも生じないことが理解できよう。
 あなたがもし機会平等主義の立場に立っているのだとすれば、日常で発話される頻度が「パソコン」よりそれなりに乏しいはずの「痔(じ)」という文字が、この、肛門が不適切な状態に陥るという身体的疾患現象を表すためだけの単語が、発話等時における意味の一般性と短縮性との過当競争の中にあって、「き(木、気、黄……)」や「み(身、実)」が背負うことになる宿命的な多義性を同じくはらみながらも、思いがけず不動の地位を確立してしまっている奇跡と、圧倒的に多用されるにもかかわらず相対的に長々しい略語しか与えられなかった「パソコン」への差別的冷遇に対して、反発の念を覚えてもよろしい。

非可逆圧縮が負う原罪

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