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明智光秀の肖像は、本人ではないかもしれないという話

(※この記事は、「信長と本能寺の変 謎99」(イースト新書Q)に寄稿した記事をもとにしています)

明智光秀といわれれば、ほとんどの人がトップ画像の肖像を思い出すだろう。

色白で髭はなく、目は切れ長。上品な文化人武将といった趣だ。きっと光秀は繊細な人物で、信長の暴虐に耐えきれなくなって謀反を起こしたのだろう…と想像力を働かせたくなる。

ところが、この肖像が本当に光秀のものなのかは疑わしいらしい。

あの肖像画には「名前が入っていない」

みんなが「明智光秀像」として親しんできた例の肖像画は、大阪府岸和田市の本徳寺に伝わっている。実は、その肖像画に「明智光秀像」と書いてあるわけではない。

肖像画の上部に「輝雲道琇禅定門肖像」と戒名が書かれており、「輝」「琇」の字の中にそれぞれ「光」「秀」の字が含まれている。光秀像とする根拠は、これだけなのである。

光秀ではないとする根拠は?

一方で、直垂(ひたたれ)の下に着ている帷子(かたびら)の文様は「笹」であり、光秀の家紋「桔梗(ききょう)」は見当たらない。

また、肖像画に書かれたの「賛」(絵画に書き込まれた詩文)も、光秀を表しているとは考えにくい。「百年の安定した生活を不意に捨て、般舟三昧(はんじゅざんまい。仏道の修行の一つ)に身を投じた」といった内容が読み取れるが、武将としての光秀の功績に結びつく記述は何もないのだ。本徳寺所蔵の肖像画は、別人のものであるという説には説得力がある。

光秀像はもう一つある

それでは、明智光秀の風貌を知る手段は何もないのか。

有名な光秀像に比べるとマイナーだが、京都市右京区にある慈眼寺(じげんじ)には、光秀のものとされる黒塗りの木像がある。後世、逆臣とされたことをはばかり、黒く塗られたのだという。従来のイメージとは異なる眼光鋭い風貌だが、しっかり桔梗紋も施されている。

(参考文献:乃至政彦「信長を操り、見限った男 光秀」河出書房新社)

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