見出し画像

「普遍的」なるものは存在するか

皆さん、こんばんは。
今日は、表現の世界に深くかかわる「普遍性」について、
言及してみたいと思います。

「普遍性」。なぜそんなことについて語るのでしょうか。
それは、表現の世界と密接に関わっているからです。

突然ですが、この本を知っていますか?

1998年に河出文庫より上梓された本です。なんと上巻は36万部売れたそうな。この本は橋本氏が枕草子を現代語訳にしたものです。1980年代から1990年代の若い女性の話口調で翻訳しています。ライトで軽快な語り口と、古典に忠実ながら現代にも分かる表現に置きなおし、当時一斉を風靡しました。

目次を一部抜粋します。

・春って曙よ!
・頃は—
・おんなじ言うことでも、聞いた感じで変わるもの!
・可愛がりたいなァって子をさ
・大進生昌の家に宮がおでましになられるっていうんで
・宮中にいる御猫さんは殿上人でね
・正月一日と三月三日だったら
・昇進のお礼を申し上げるのって、ホントに素敵よねェ
・一条大宮院の仮内裏の東をね、北の陣ていうのね

ちょっと、雰囲気は分かっていただけたでしょうか。

この本、非常に現代感覚を捉えた本として、当時はベストセラーにまでなりました。自分は、より枕草子を分かりやすく読めればいいなと思って、手に取りました。1990年代の本の方が、原著の1000年代よりは自分に近いはずです。ところが・・・・

よっ、読めねえ・・・読めねえよ

いや、言葉としては読めます。表現もだいぶ現代的なものになっています。でも読めなかったのです。いや、文章としては読めます。でも、不思議と上滑りしていく感覚だけあったのです。面白さが潜んでいるのは分かるが、自分には面白さが、まったく伝わってこないのです。まるで見知らぬ子供が、自分の知らない話題で盛り上がっているときのような、伝わってこない面白さを感じていました。いや友達の、知らない友達の面白話を聞くときのような、妙なつまらなさでしょうか。話している本人は、こんなに面白いものはない、という体で話してくれるのに、聞いている自分はそこまででもない・・。

それはおそらくこの本が、現代の「今」にうけることに特化し、その代わり普遍性を少し失ってしまったからだと思います。

たぶん、当時リアルタイムで10代後半~20代であれば、とても面白かったのだと思います。自分たちが使う最先端の言葉で、昔の感覚やセンスを読む。親近感が沸いたでしょうし、そのギャップが笑いを呼んだのでしょう。だからこそ、当時の人気を勝ち得たのです。

しかし、そういった「今」っぽさは追求しすぎると、普遍性を失い、少しでもその空気に乗れないと面白さが半減してしまうのです。

どんな言語にも、時代感とノリは存在する

あ、決してこの文章は桃尻誤訳 枕草子を悪く言っているのではありません。
今、うけることに専念しすぎることへの弊害の例として使っています。そうした試みやチャレンジ、センスは尊敬に値するものですし、今でも学ぶことはいろいろあります。

さて、この話、決して桃尻誤訳 枕草子だけに限った話ではありません。むしろ、現代ほどこうした感覚に直面していると思っています。言葉の生み出されるスピードと廃れる速度は、もっと速まっている気がします。twitterなどを見ていると、もはや国ごと時代ごとではなく、クラスタごとに新しい言葉やパターン、ノリが生み出されていると肌で感じています。

こうしたブログの類も、そうした流行言葉やノリが良く使われています。そのほうが、流行の先を行っている気がするし、使いやすいし、親近感が出ますね。

ただ、先ほど述べたとおり「今」を生き過ぎるものは、ちょっと時間がたった後で読むと、とてもついていけないものになってしまうことがあります。もちろん、当時その文化にいた人は懐かしくなったり、感傷を覚えることもあります。しかし、古典として普遍的に機能しづらくなるのが現実です。

が、普遍的なるものはあるのか?

ここまで読んでいただけた方には、「今への特化」と「普遍性」の関係性がご理解いただけたと思います。

が、しかしよくよく考えてみると「普遍性」なるものって、この先存在し続けることができるでしょうか。

よく、この業界では普遍的に受けるものととして、星新一が挙げられてきました。固有名詞や時代を特定する用語を避け、意図的に普遍的な面白さを持って楽しめるようにした仕掛けています。

しかし、そういったものにも、twitterでこのような意見が出されています。


人間が持つ普遍性や、「変わらない」と信じていたもの自体が変わることもある。ここではサラリーマンが定時に仕事を終えてバーに行く、という行動でしたが、では他のものは?

大人になったら家族を持つこと、学校には行くこと、適度な年齢になったら仕事につくこと、老後はのんびりという普遍性が当の昔に壊れていることは、日ごろ私たちの生活で体験している通りです。

当たり前、というものが覆い隠してきたことが、露見してきている社会です。むしろ、そうした新しい動きこそが求められている時代でもあります。

では、万人の心にいつも通じるものはあるのか?

愛?家族?そうしたものも、通じると思っている普遍性はもはやどこにもないでしょう。資本主義もとっくに限界を迎え始めている中で、我々を支えている行動動機ですら怪しいものです。

しかし、何らかの表現をしようとする人は、時代を超えて通用するものを求めるのではないでしょうか。今受けるだけでは満足できない。我々はいつも、不可能な試合に臨んでいるのです。

とても残念なお知らせですが、自分自身その問いに答えうるものをまだ持っていません。あらゆる可能性を検討すると、これというものはすぐに反証されてしまうからです。すみません。

しかし、いつも捜し求めたいと思っています。自分の人生をかけて見つかるか分かりませんが、それでも自分に問いたいと思います。皆さんは、見つかりそうですか?


記事は基本的に無料公開ですが、もし何か支援したいと思っていただけましたら、頂戴したお金は書籍購入か、進めている企画作業に当てさせて頂きます。