『心霊迷図 ~マギ ルミネア編~』 #02
第一章 一
暗い夜道を、自分は歩いている。
目線はいつもよりもずっと低く、子どもの背丈のような目線の低さだった。
歩いていると、自分が白い着物を着ていることに気がついた。えりの合わせ目が、夏や正月に着るものとは全然違い、右前になっている。
すぐさま着直したいが、周りに人がいた。
その誰もが、同じように右前の着物を着て歩いている。
皆はどこへ向かって歩いているのか——。
彼らの視線の先を追い、暗闇の中を走って行く。
いずれも大人ばかりだったため、右へよけ、左へよけ、先を進むのに難儀した。
ようやくにして、人々がどこへ向けて歩いていたのかがわかった。
目の前に、大きな吊り橋が真っ直ぐにのびている。
現代的な橋では決してなく、昔風の、植物の頑丈なつたを頼りに板切れをいくつも合わせた橋。足を踏み外せば、真っ逆さま。すぐさま底の見えない闇にのまれてしまいそうな、薄気味悪い橋だった。
その橋に人々は足をのせ、どこに続いているかもしれない暗闇の中、橋をどんどん歩いて、一人、また一人と渡って行くのだった。
どん、と後ろの人に自分の背中がぶつかる。
後ろを見ると、それは見たこともない男性だった。
謝りもせず、彼は橋へ向け進んで行き、無言のまま、橋を渡って行く。
ぼくも——。
橋を渡りたい。その先に何があるのかを知りたい。
そう思って、一歩を進めたときだった。
橋の両脇に木が植えられている。
桜と、そして、夏みかんの木。
桜は春なのか、今を盛りと咲いている。夏みかんの木も、たわわに実をつけ、枝が重みで傾いている。
夏みかんに目を向け、一つ取ろうかと思う。
だが、手をのばしかけて思いとどまった。
木から、葉がひらり、と上から降って来る。
桜も夏みかんも、確か常緑樹のはず。
心の中で思う。今まで植物を何回も絵に描いてきたから、知っている。図鑑でよく確かめて描いていたから、間違いないはずだ。
村はずれには目立つ常緑樹を植え、境がわかりやすいようにしたと、どこかで聞いた覚えがある。
だから、誰かが、この場所にまったく別の常緑樹を植え、境としているのだ。この木たちは目印であり、吊り橋の先は村の境界から外れた場所——。
また、誰かが自分の背中にぶつかり、衝撃に、今度はすぐさま後ろを向いた。
それは、女性で、長い黒髪が印象的だった。
見上げるようにしか顔をとらえることができないが、彼女の顔は随分前にどこかで見たことがある。
その顔は、確か。
「母さん——!」
すぐさま手をのばし、母の着物の裾でもつかもうと思った。
「その橋を渡ったら、だめだ! 戻ってきて、母さん——!」
手をのばしても、大人達は自分をよけてくれない。
母の姿は、さっと人々の中にまぎれ、皆が暗闇に続く橋を渡って行く。
後にはただ、悲痛な声だけが残る。
それでも、声を上げることを止めようとは思わなかった。
「戻ってきて、母さん——!」
はっとして、天降は目を覚ました。
夜明けが近いのか、部屋は薄暗く、朝日はカーテン越しに、ほんのりとその気配を漂わせていた。
「夢か……」
汗をかいた額に手をやって、天降はつぶやいた。
ベッドの中から起き上がり、部屋の様子を確認する。
八畳ほどの空間に、ベッドと机、収納棚が置かれている。
棚の上には、一葉の写真がフォトフレームの中に、おさめられている。その写真は家族写真であり、天降のそばには今は亡き母と父、それから母の妹である叔母と叔父が映っていた。
「何で今さら、あんな夢を……」
先ほど見ていた夢は、子どもの頃から繰り返し見ていた夢でもあった。夢を見始めた頃から次第に霊感が宿り、人には見えないものが見えるようになっていた。
周囲の人間でこのことを知っているのは、世界でも、家族ともう一人の人間しか知らなかった。
天降には幽霊が見え、思いが強く残った事件現場のような場所に行くと、霊視ができるということは、他の誰にも秘密だった。
天降はベッドを離れると、棚の上にある家族写真へと近づく。家族写真の隣には、手のひらサイズの丸い鏡が立てかけてあった。薄ぼんやりと日の光が差し込んだ部屋では、鏡も霞がかったように灰色っぽい部屋を映しているだけだった。
ふと、鏡の中で何かが動いた気がして、天降は鏡を手に取った。同時に後ろを見る。だが、そこには彼以外には誰もいなかった。
おかしいと思いつつ、鏡の中をのぞきこむ。
鏡は天降一人の顔を、ぼんやりと映していた。
寝ていたから髪は少し乱れているものの、見慣れた、いつもの自分の顔。少し長めの黒髪に黒い瞳。
人からはまあまあ好意を抱かれる顔つきをしているだろうか。自信はないけれども。
最近では、大学から出された美術の課題により、幾分、憔悴しているようにも見える。
その顔の横、肩の近くに何やら黒い霧が漂っている。
影はすぐさま人の姿へと変わり、背後から天降を見ている——。
さっと後ろをふり返って、鏡の中に見えたものを確認する。
そこには、やはり、誰もいない。
天降の自室なのだから、他に誰かがいるはずもなかった。
空がようやくにして、日の光を増し、どこかから小鳥の軽やかな鳴き声が聞こえた。
第一章 二
その日、天降は来客を家の一階、アトリエと称している広い部屋で迎えていた。
「初めまして。天降路惟と申します」
天降は椅子から立ち上がり、相手に会釈する。
彼の向かい側には、スーツ姿の男性が立っていた。
年齢としては三十代半ばを過ぎた頃だろう。
「今回の用件は、烏堂から事件解決に向けての協力だ、と聞いていますが——」
来客は天降の言葉にうなずいた。
「刑事部捜査第一課、勝池貞杜と申します」
スーツ姿の男性が言った。
「ただし、本日、私がここに来たのは私用ということでお願いします」
「勿論。烏堂からも他言無用だと強く言われています」
友人の烏堂。彼は、都内の四年生大学に通い、二年ですでに司法書士の資格を取得したらしい。昨年、久しぶりに家に遊びに来たと思ったら、合格したことをやたら自慢されて、うんざりした。そのことはいまだに天降自身、根に持っている。
しかも、大学に入った二年間の内に、犯罪事件を解決する助言や、証拠発見にいたる推理まで警察にしてみせたそうだ。
将来は司法書士になる予定らしいが、探偵業でも始めたらどうだ、とは言えなかった。友人とは言え、有能すぎるのも問題だと天降は思った。
彼の持つ才能と頭の良さに、何度、足の小指をタンスにぶつけてしまえと思ったか知れない。
相手の刑事は、『烏堂』と言う名前に少しひるんだような態度を見せたが、ほどなくして冷静な表情を取り戻した。
「すみませんが、こちらの椅子にどうぞ」
背もたれのない椅子を一脚、天降が部屋の一角から持ってきて、すすめた。椅子が置いてあった場所の近くにはコーヒーメーカーや電気ケトルなどが置いてあり、長時間の作業にもうってつけの環境にしてある。
二人がいるアトリエは、家の一階とは言え、通常の部屋とはまったく違った。
天井は高く、部屋のサイズも十六畳ほどの広さ。床はフローリングで、木目が窓からの陽光を受けて艶やかに輝いている。横壁の一面は広い窓が設置されており、緑あふれる庭が一望できた。
部屋中央には、大きなキャンバスがイーゼルに立て掛けられて置いてある。部屋に入る者に、その背面を見せている格好だ。
天降はキャンバスの横にあった丸テーブルを勝池の前に置き、コーヒーかお茶のどちらが必要かたずねたたが、勝池からは『おかまいなく』と言われた。
「今日来たのは——ああ、まずは、これを見てください」
勝池は、カバンから新聞を一紙取り出し、テーブルの上に広げた。
紙面をめくり、『二十代女性殺害事件』と題された記事が見えるやいなや、めくるのを止めた。
天降も事件には見覚えがあった。売れ出した若い作詞家が殺され、テレビでも取り上げられたからだ。
事件は昨年——二〇二二年の七月二十四日、日曜の深夜に起きた。殺害されたのは掛浦輝恵という二十八歳の女性。
事前に睡眠薬を盛られ気を失ったところを、心臓を突き刺殺。それ以外にも何度も刺された跡があり、怨恨の線が高いと報じられていた。
女性が夜に殺されたこと、都内であっても監視カメラのない路地で殺されたこともあって、目撃者や証拠が中々見つからず、難航している事件だった。
「この事件を担当している刑事が不思議なことを言いだしまして。突然、女の幽霊が見え出した、と」
天降が顔を紙面から上げる。
刑事の口から『幽霊』と言う言葉が出るのも違和感があるが、もっと妙なのは、『突然、幽霊が見え出す』と言うことだった。
彼の戸惑いを当然のように受けとめ、勝池は続ける。
「まあ、おかしいと思うのはごもっとも。ただ、本人に話を聞く限りでは、どうも、そう(、、)と(、)しか(、、)言えない(、、、、)の(、)です(、、)。さらに、見えたのは、どうも幽霊だけではないらしい。言葉では説明のつかない現象がいくつも起こっており、捜査を進めるにも困っているという状況。そこで、烏堂さんに、私の方から個人的に相談してみたのですが、断られてしまいまして。だが、霊感を持っている天降君なら何とかしてくれるかもしれない、と言われました」
天降の目が驚いたように見開かれる。
すぐさま、顔が困惑の表情に彩られた。
「ええと、俺は——」
「烏堂さんから聞きました。すでに、霊視によって事件を二件も解決している、と。女性の行方不明事件と、少女の誘拐事件。これら二件の霊視に見事成功し、ただ、名前を出すことを被害者家族に口止めした、と」
勝池が滔々と語るのを、天降はどこか現実感なく聞いていた。
過去、自分が行ったことは事実だし、事件が解決したのも事実だ。
だが、それは自分の実力ではない。
亡くなった母の夢を見るようになり、芽生えた霊感だった。
一件は確かに自分から被害者家族に接触して情報を提供したが、もう一件は、今の養母である叔母に霊視したことを伝えただけだった。
勝池は天降を見つめている。
目の前の人物が事件を解決してくれるかどうか、勝池にも正直言って自信はないだろう。
だが、何らかの確信をもって、ここまで来てくれたのだろう。
彼の瞳からは、事件を解決しようとする強い意志が感じられた。
天降は記憶をたぐりよせるように、昨年のことを思い出そうとした。
「昨年の七月二十四日、日曜深夜は——ええと、確か」
「天降さんのアリバイはすでに、こちらで確認済みです。話に聞くところによると、合宿で事件現場から随分離れた場所に一週間滞在していた。事件のことも合宿先のホテルで知ったのではないでしょうか」
勝池に言われて、天降は、はっとした表情になる。
そう言えば、その頃は美大のサークル活動の一環として、鉄道もないような田舎の村に泊りがけでデッサンをしたり、一般参加者も交えて絵を描いていたのだった。当時の様子は、確か地域の広報誌にも、美大の伝統活動として大きく掲載されていた記憶がある。
「その上、天降さんは、あの噂の『マギ ルミネア』に中学校時代、通っていたと聞いている」
勝池が、ふいに言った。
「昔はあの学校を低く評価する人がいたものの、あの学校に通っていた人間なら、常人ではない才能と優秀さをかねそなえていることは周知の事実で——」
「止めてください」
天降が頭に手を当てた。頭痛がしたからではない。突然、嫌な記憶がよみがえり、それを振り払おうとして、したことだった。
反発するように天降は言った。
「あの私立中学校は、社会的に悪いとされる新興宗教がスポンサーをしていた、一種の研究所だと全国で報道がされたではないですか。豊富な教師陣をそろえた素晴らしい学校だと俺は思っていたのに」
当時の報道をなぞるように天降が言う。
期待と失望。裏切りと嫌悪。
様々な感情が波のように天降の心へ押し寄せる。
思い出したくなかった過去が、『マギ ルミネア』の一言に、ざわざわと共鳴している。
勝池は少し戸惑いの顔をしたものの、言い募る様に言葉を続けた。
「いや、あの学校の実態がどうあれ、卒業生は天才的な才能を発揮している人物ばかりではないですか。天降さんも、あの学校に在籍したことを隠してはいるが、あなたの美術の才能と言い、霊視についても、普通の人間が持っていないものばかり。別に恥じることはないと思いますがね。この前なんか、『マギ ルミネア』卒業生はニュースサイトで話題になっていましたよ。天才的デイ・トレーダーの倉追紗那絵。彼女がSNSで卒業生だと告白していましたし、不動産売買で財を成した、美戸田久は随分前にあの学校の卒業生であることを取材で答えています。過去の一時期はそうだったかもしれませんが、最近になって『マギ ルミネア』も評価され始めている」
天降が一瞬、ぞっとするような昏い目をした。
勝池は、わずかに驚く。
あの学校の卒業生は、ほとんど学校であったことを話さない。だから、具体的に何があったか、誰も良くは知らないのだった。
いや、天降は、あの学校で何を見てきたのだろうか。
勝池の記憶の中では、テレビと週刊誌が報道した限りの情報しかなかった。
たとえば、テレビ画面の中で、若いアナウンサーが淡々と原稿を読み上げた通りの情報しか——。
「『マギ ルミネア』は山の中に建てられた私立中学校。寮生活を行いながら、厳しく自己を律して勉学にはげみ、国内や海外から呼んだ豊富な教師陣によって才能を伸ばす取り組みを行っていたようです。そのため、経済的に裕福な家庭の子どもで応募者が殺到。数回の選抜と最終面接を重ねて、やっと入学できたと——」
ふいに、天降は視線を床に落として言った。
「評価——そう、世間では『マギ ルミネア』を評価する動きもあったんですね。全然知りませんでした。ただ、俺だけでなく烏堂、あいつもあの学校の卒業生であることは知っていますか? あいつの方が俺よりも——」
天降は、そこで軽く息を吐いて言った。
「いや、あいつはいつも面倒事が起きると他人に押しつける。そう言う嫌な癖があって、それは『マギ ルミネア』の頃から続いていた。俺が幽霊を見えるのも霊視できることを知っているのも、あいつだけ。あいつは勝池さんにこう、言いませんでしたか。『これは言葉では解決できない事件だ』って」
「——ああ、そう言えば、そんなことを言っていた」
記憶をたどりながら、勝池は思い出したことを言った。
「やっぱり……。烏堂がそう言うのだったら、俺は——」
天降が顔を上げる。
勝池が見る限り、その表情には決意がみなぎっていた。
『マギ ルミネア』という言葉に対する反抗心、いや、本人にしかできないことに、ようやく気づいた。能力の再発見による決意の表れと見るべきか。
勝池は天降の顔から目を離すことができなかった。
「この事件、俺が解決します。俺に協力させてください」
常人ではない天才達を生み出す『マギ ルミネア』。
その卒業生で、すでに一部の人間から異彩の画家と一目置かれている天降路惟が、どのように事件を解決するのか。
勝池は天降の言葉に内心、色めきたった。停止していた事件が、ようやく動き始めた予感がした。
「では捜査協力のために、後日、あらためてご連絡します」
言葉にはしない。だが、勝池の中には抵抗できないほどの、強い興味が生まれていた。
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