見出し画像

一人を見つめるとき、世界が広がっていくその不思議さよ:母ではなくて、親になる

山崎ナオコーラさんの文章が好きだ。
シンプルなのにとても変わっているから。
たぶん変わっている(というか未来を生きている?)のは彼女の「考え方」で、それをよくこんなにみんなにわかるようなシンプルな表現に落とし込めるな、といつも感動する。

また、抑制のきいた文章だと思うのに、常に「社会」というか「世界」というかに目を向けて、情熱的に生きているところもよい(情熱的でない部分について、正直に書かれているところもよい)。

彼女が言葉をつづりながら広げていく世界は外のことだけじゃないのも面白い。

育児エッセイ、なんだけれど、「子供をドアにして広がっていくナオコーラさんの思考の庭」をあっちへいったりこっちへいったりする内容で、とてもよかった。
(というか人間はほんとうはそういうものだと思うのだけど。子供を育てているからって、24時間子供のことを考えているわけではないはず。育児エッセイの読者は育児のことが読みたい(と推察される)から、そうじゃない思考のことはあんまりじっくり触れていないものが多いのかな?)

睡眠の孤独さの話とか、障害についてとか、役所や警察でフリーランスが軽んじられることとか、過去と未来と今の関係について、とか。

彼女の文章の切れ味そのものを読んでほしいので、印象的だった部分を引用しながら、ちょこちょこ感想を書こうと思う。

人に会いたい、人に会いたい、と思って生きてきた。

育児エッセイの冒頭でこの文章である。
山崎ナオコーラさんは、「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」という目標を挙げていらっしゃるが、「ああ、これは誰にも書けない」と私は感じた。

その辺りがよくわからない。つまり、「子どもを欲しがらない男性を騙し、女性ひとりの判断で勝手に子どもを作って産み育てる」、「今の日本は大黒柱ひとりで家庭を運営することが難しい経済状況だが、女性はキャリアを築くことは意識せずに簡単な仕事をするようにし、生活水準をぎりぎりまで落とし、子どもの進学の可能性は考えずに見切り発車で産む」といったことが推奨されているのだろうか。

推奨されている、というか、デメリットの部分だけなんだか見ないことにされている、という気がしている。

もちろん全てに備えてから子どもを持つということはできないと思う(世の中には、想像を絶するような不幸がごろりごろり転がっているから)。

しかし、当方、きょうだいが鬱になり、「こんなはずじゃなかった…」と母が嘆くのを見てから、「なんとかなる」「ストレートに大人になる」ことをデフォルトと考えて子育てを始めることは絶対にしたくない、と思うようになった。

親よ完璧であれ、という話じゃなくて、「ラッキールートを当たり前だと思っていて、そこから外れると『予想外』だと考えるのは子供にとってプレッシャーすぎでは?」という話である。

とはいえ一番の問題は、レールからはずれたときに復帰するための努力は、全部個人がしなきゃいけない、と思わされるような今の日本だと思う(といってても私も日本の一員なので、じゃあなにが理想なのか?どうしたら理想に近づくのか?は、もっと考えねばと思っている)。

ここ数年、「自己責任」という私の嫌いな流行り言葉があって、この言葉が病気や「障害」に当て嵌められてしまうことがある。「真面目に生きているかわいそうな人なら助けたいが、自己責任の人は助けたくない」という意見が世間にかなり多いことを、私はひしひしと感じてきた。
しかし、努力できない人も助けるのが成熟した社会ではないのか。


『エクス・リブリス』を薦めてくれた先輩と、移民問題について話していたことがある。

「移民を受け入れるということは、例えば中東から女の子が一人突然やってきて、今日からこの部屋に一緒に暮らすということだよ、それができる?、と夫に聞かれた」と先輩は言っていた。「赤司さん(※私)なら、できるかもしれないかなあ」とも。
それで私が「気が合う人ならできるかもしれませんね」と返したら、「いや、来る人には、気が合う人もそうじゃない人もいるんだよ。気が合おうが合うまいが、一緒に生きていくのが受け入れるということで。だから私はできるかわからない・・・と思ってしまった」と先輩。

今後、自分の個人的な人間関係は、かなり「差別主義的にいこう」と決めている。つまり、「ここからの人生は、めちゃめちゃ好きな人としか、長い時間を過ごさないぞ」「傷ついた、といっても言葉の発し方や接し方を変えてくれない、私にとっていじわるな人には、私の時間を明け渡さないぞ」と決めている。

だけど社会システムは、そうはいかない。
誰かが恣意的にする線引きは、あまりにも危ういから、不安定だから。
それが「社会」じゃ、まずいのだ。
(個人なら、今後関わらない、という選択が可能だが、社会の外に出ていく、というのは、それと同じようにはできない)

荻上チキさんが、前にラジオで「国が豊かじゃなくなると、弱者と言われる人たちから切り捨てられる」というような話をされていたことも思い出した。

ていうかみんな、どの面からみるかでいつでも「弱者」になるよな。
自分の話なんだ。

私が、受け入れてもらう「移民」にならないって、どうして断言できるか。

私も、友人知人の赤ん坊に対して、「お母さん似ですね」「お父さん似ですね」「可愛いですね」と言ってきた。 
もちろん、噓ではないのだが、どうしてそう言ってきたのだろ、と考えるに、他に言うことが思い浮かばなかったからだ。赤ん坊本人はただ生きているだけで何をやっている人でもないから、「誰かに似ているか」「可愛いかどうか」しか話しようがない。そして、似ているかどうかというのは、適当だ。

ああ、私、適当だったのか。

自分が神だったら、死というものをなくして、ひたすら長生きできるようにし、個人で勉強を続けさせ、どんどん頭が良くなるようにする。新しい子どもが、また一からやり直しをして生きていくのは、無駄な努力が多く、人類の発展に繫がらない。 

(このあと、神がどうであれ地球のシステムは多様であることで発展できると考えてできてるのでは?という話になっていくから、ここで切るのはよろしくないなと思いつつ…)
イスラム教徒の人と付き合って知ったことは、イスラム教徒の人が考えている神様は、人間のために何かしているわけではない、ということだ(私の理解なので、間違っていたら申し訳ない)。当時の恋人の話(を私が理解したところ)によると、何か悪いことがあったときに、「これは神様が決めたことだから仕方ない」と思うことはあっても、「神様はこの試練を越えた先に、さらなる幸せを用意してくれている」みたいなことは考えないっぽい。人類の発展を神が望んでいるかは怪しいところだなと、個人的には思う。

そういうことをしている途中で、「保活というのは、『○○活』の中で、一番くだらないな」と私は思ってしまった。
〔中略〕 
「保育園を増やす活動」「保育士さんを働き易くする活動」だったら、有意義な気がするが、そうではなくて、「私は、こういう理由で大変なんです」と訴え、他の子を押しのけて自分の子が保育園に入れるようにする活動になりがちで、意義がない。保育園見学をしても、こちらは選べる立場ではない。吟味したところで、それが活きる可能性が少ない。


当事者じゃなかったらその問題について真剣に考えにくいし、でも当事者は自分のことをまずするために一生懸命だし(それは悪いことじゃなくて当たり前のことだと思う)、篤志家なんてそんなにいっぱいいるわけないんだから(いっぱいいるなら、そういう「完璧な人間」ありきに設定されている共産主義の国はもっと増えているはず)、やっぱりマクロの視点で考える立場の人がやるしかないじゃんな、という思いを改めてもった。

多くの人が、こういうまっすぐな人のことを大好きだ。他人の顔色を読まず、自分自身の考え方のみで人間関係を築く純粋な人に、みんなが憧れる。 
だったら、なぜ、みんな、常識やルールを身につけようとするのか。憧れの人物になることより、汚い人間になって生き抜くことの方が大事なのか。世間というのは、汚れないと生き難い場所なのか。

たぶん「大事かどうか」よりも「傷つかないかどうか」が物事を選ぶときに優先されるからじゃないだろうか。だから、「大事かどうか」で行動できる人はかっこいい、貴重だ、と思われるのでは。
そして、憧れの人物はみんながなれないから憧れの人物として機能するような気もする。

【追伸】
まとまった文章ではないのですが、私が本作でとても好きだったナオコーラさんの表現とか感じ方を、いくつかここに書いておきます。

・自分の側で燃え上がってくれる小さい人間とほんのひとときでも過ごせたら
・赤ん坊はどこかへ連れ去られた
(病院の人によって運ばれることをこう表現するところが好き)
・赤ん坊が病院側に属している存在に見え、私が授乳のために借りる感覚になった
・自分が周りに恩着せがましくならずにやれる範囲のことしか、やる気がない。
・家に連れて帰ってからは、さらに重くなり、ハムさは増した。
(むちっとした赤ちゃんの首とかが深くくびれているようす、ハムっぽい印象を「ハムさ」と表現する感じ、好き)
・短くても時間だ。長い時間だけが時間ではない。
・そうだ。寝る前は、自分だった

(というか好きな表現が多すぎるのでまったく書ききれない)

ナオコーラさんはこの本の中で子供の性別を公表していないので(本人も性別非公表ということになっている。隠すほどでもないが、公表するほどのことでもない、というスタンスらしい。そういう態度についても、本作の中で詳しく説明している)終始子供のことを「赤ん坊」という風に書いているのですが、その辺に距離があるような書き方が、私はまたすごく好きだなと思いました。




この記事が参加している募集

推薦図書

コンテンツ会議

いただいたサポートは、ますます漫画や本を読んだり、映画を観たりする資金にさせていただきますm(__)m よろしくお願いします!