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書き方の癖

久し振りのnoteになりました。前回の記事からしばらく時間が経ち、年度末と新年度の多忙な時期を駆け抜け、何度目かの「コロナでどこにも行けない連休」であるゴールデンウィークも過ぎて、ようやく新しい記事を書こうかなとnoteを開く気持ちになりました。

きっと田植えと新緑のこの季節だからこそ「ちょっと開いてみてもいいかな」と思えたような気がします。今日のサムネは、秋田での新しいオフィスからの今日の眺めです。冷房も暖房もいらない、季節の温度で心地よく過ごせるこの季節。もうすぐ蚊が飛び出したら網戸にしないといけないでしょうし、さらにもう少ししたら扇風機を回しているだけじゃ暑くていられなくなるでしょう。そういう意味で今は春と夏の合間の季節。二十四節気でいくと穀雨を過ぎて立夏の頃、週間予報で気温の上がる日があったら「暦の上ではもう夏です」ときっと気象予報士の斉田さんが言ってくれる、そんな時期。noteで筆を走らせるのにも良い季節になりました。

さて、何について書こうかなと考える前に、今日は自分の書き方の癖について書き出していました。きっかけはきっと昨晩に自分が過去に書いた記事のうちのいくつかを読み返したからだと思います。無意識なのか潜在意識なのか、自分の文章の癖は気になっていて、いつも「もう少しスムースに読めるわかりやすい文章が書けるといいのにな」と思っていました(います)。そうした文章が書けるようになるための近道としてはきっと自分の文章の癖を知って意識することだと思うので、今日はそんなことについて書いてみようと思います。

1.「〜だと思う」を多用してしまう。

私は文章を書くときにいつも誰がそれを言っているのかを意識するので、自分が言っていることについては「〜だと思う」とか「〜だと思うのです」という表現を多用してしまいます。結果、5行書いたとすると、うち4行の終わりが「〜だと思います」となっていたりして、とにかくまどろっこしい。

体言止めの使い方や言い切りの表現が上手な文章を見ると、書き手のセンスの良さを感じずにはいられません。そしてそういう文章は頭のなかで音読しているときに良いリズムが出ます。これは読んでいて気持ちがいい。小説やエッセイを書く方々が得意とする書き方だと思うのですが、研究者には苦手な人が多い書き方だと思います。なぜなら誰かが言っていることなのか、それとも客観的な事実なのかの判断がぼやけるからです。証拠や論理を積み上げていって主たるメッセージを示すという書き方をどうしてもしていまうので、そのときに誰がそう言っているのかは、書き手の自分も含めて重要な情報なのです。

研究者という職業柄染み付いている書き方なので、いつも編集のときに「〜と思う」という表現の減らし方で悩みます。

2.批判的な意見から入ってしまう。

2点目も研究者という職業柄かもしれませんが、テーマの批判的な検討から文章をはじめてしまいます。決して否定から入っているわけではなくて批判なのですが、これは読み手にとってはいつもラフマニノフをかけられているようで、10曲に1曲くらいはいいけど、でも多くの場合にはやっぱりショパンとかモーツアルトとか聴きたいわけです。特にスマホの画面で小話として読むなら、やっぱりポジティブなことが書かれている文章が続いたあとに、「そのもう一歩先を考えてみると〜」くらいの感じで批判的な意見が示されて、おわりに向かって議論が昇華していく感じが読みやすいです。

批判がない場合には中身がない文章になってしまうので、それはそれで読んでいて面白くないと思うのですが、批判的な意見が全体のどのあたりで出てくるのかっていつも大事だなと思います。

3.想定される反論に反論するためのリードを置いてしまう。

書いている文章が長くなる原因でもあるのですが、書いているテーマの前提になっていることや想定される他の解釈などについて先回りして書き出し、それを文章中に入れてしまう癖があります。これはテーマについて色々な視点から検討するという意味においては大事なプロセスだと思うのですが、実際に公開する文章のなかに入っている必要は必ずしもないなぁと思っています。

不思議なことに外部資金を取るための申請書を書くときにはこの癖は一切出ません。それは審査員に「こいつの研究にお金をつける意義があるか」という視点で読まれる文章なので、全体の論旨がブレるようなことはなるべく書かないほうがいいわけです。言ってみれば怯えているときに書く文章はスッキリします。

noteの記事を書くときにはそういうプレッシャーはないので、テーマについてあれもこれもと考えていることを書くというよりは、書くことで考えていると、読み手にとっては「でもそれってこういう側面もあるんじゃない?」って思う余白がない文章になってしまっているような気がしてます。結果として、想定される反論に反論するためのリードを文章のなかにたくさん置く、ということをしてしまいます。具体的には()を用いて想定される他の項目についても触れておく、ということをしてしまうのですが、公開する前には()での補足はすべて削除するようにしています。

4.句読点の位置がわからなくなる。

「この人の文章いいなぁ」と思うとき、なぜそう思うのかなということを考えてみると、用いられている言葉や表現が秀逸、ということは村上春樹くらいの作家さんくらいじゃないとない、ということに気が付きます。じゃあ、どうしてある人の文章はいいなぁと思って、ある人についてはそうじゃないかと考えてみると、それは句読点の位置だと気が付きました。

表現が簡潔で用いる言葉にもそれほどこだわりがなさそうな文章でも、句読点の位置が良いと読み手の頭のなかで流れる音がきれいで心地よいです。なにより、句読点の位置が良いと、読み返さなくても文章の意味が頭に入ってきます。この技術はすごく高等なものだなぁといつも思います。

私の場合は下書きが終わって読み返して見ると、自分が書いているときには言葉や表現の選択に労力を使ってしまっていて、句読点の位置については考えの切れ目になっていることが多いです。句読点の編集は実はとても難しくて、これは音で切らないといけないんでしょうが、自分はどうしても考えで切ってしまう癖があるようです。何度も打ち直してみるのですが、終いには句読点の位置がわからなくなり途方にくれてしまうのです。(苦笑)

5.横文字が多い

これは意識することで割と簡単に解決することができます。例えば「サステイナビリティ」など、テーマがカタカナ表記である場合には必然的に横文字の量が多くなってしまうのですが、「アカウンタブル」とか「エビデンス」とか「トリガー」とか、話し言葉にも外来語が多いので、書いていてもそちらが先に出てきてしまいます。

漢字にすればわかりやすくなるのかと言うとそういうことでもなく、「協働」とか「評価」とか「時代」などの言葉もそれぞれに、「コラボレーション」、「エバリュエーション」、「エラ」と外来語よりの表現です。そう考えると、なるべく和言葉で書いていくと、すっと頭のなかに入ってきます。

読んでいてすらすらと頭に入ってくる文章が書ける人は、世界を感覚に近い言葉で表現できる人なのだと思います。自分が読み手の場合にはそういう言葉の多くが和言葉なので、意識してそちらを選ぶようにしています。

6.長い

最後ですが、とにかく文章を長くしてしまう癖があります。これはスマホ時代には特によくないと思います。自分がnoteで公開した文章をスマホで見てみると、10スクロールは行かないと終わらない、、。これじゃあ全部読んでもらうことも難しいでしょうし、読み手の皆さんのスマホ腱鞘炎にすら貢献してしまうかもしれない、、。長いということはそれだけでやぼったくなる可能性がありますから、なるべく短い文章で同じ意味が届けられるようにと編集をしています。

と言いながら、おそらくこの「長い」文章を書いてしまう一番の原因は、前置きが長いことだと思っています。今回の記事も例にもれず、本題にはほとんど関係のないリードですし、NHK気象予報士の斉田さんが言う「暦の上ではもう夏です」を書きたいがゆえに書いてしまい、編集でも残してしまいました。つまり、長く書きたい性分なのだと思います。次回からはぐっとこらえて、要点のまとまったシュッとした記事が書けるように長さを意識したいと思います。

7.おわりに

なんだか反省文たいな記事になってしまいましたが、この記事自体は1時間ほど前に思いついて書き始めて、今このセクションを書いています。やっぱり自分で体験していることについて書き出すのは楽しいし、書いていて迷いがないですね。日々メール、申請書、そして論文と書く機会はとても多いですが、こうして一人称での経験を純粋に書いていくのはやっぱり楽しいです。

さ、仕事に戻ってまたカタカタカタ。

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