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てんとう虫女のバラッド

「先輩? 卒業証書とチョコレート、どっちがほしいですか?」
「バレンタインデーはもうずいぶん遠くなってしまったが」
「馬鹿な、わたしはあんとき旅行していたんですから、ノーカンです」
「でも、一週間後くらいには、帰ってきていたよなあ!」
「生意気なことを言っていたら、ネカフェで犯しますよ」
 犯すといったって、跨がられたのは胸の上だった。構造上、股間はパソコンの乗った板の下の暗闇に入っている。
「あの、胸が苦しい。俺、言ってなかったっけ喘息持ちで、あばら骨も人より弱いし、折れて内側向いて心臓刺さったりしたら事じゃん?」
「えー? じゃあもう死ねよ。はあもう、前後するの疲れた。すごい、汗かいたし」
「その汗が目に入って痛い」
「あら」眼球を舐めようとした。
「うおわあおっ」
「ぺっ、まったく、何もさせてくれないんですね。せめてまつげでも抜いていいですか? 押し花にします。もう少しで先輩の体毛、コンプリートできるんです。赤いアルバムに、閉じこめてあってね」
「ラーメンでも食べに行こうか」
 ぴたっと止まった。「おっと。これは一本取られましたね。で? どこにします? A? B? Cから飛んでZ?」
 ある店の名前を、E・Tみたいに指を上げて挙げた。
「うーん、まあゆるしましょう」
 明るい受付で、よくできた笑顔でクーポンを使っている後輩の横顔を、先輩は、ソファに沈んで、とても暗かった。自分の顔も輪郭も定かでない、受付の周りだけが明るくて、あとは、海の底の熱帯林にいるみたいだった。二本足の、オレンジ色の怪獣が、大きな熱帯魚を追いかけている……
 階段を下りると、足が街の地面について、それでもまだふわふわした感じがする、先輩の腕を取って歩く、後輩の歩き方は、
「お前、酔ってる?」
「はー? わたしがいつどこで、酒を飲みましたか!?!?」
「酒じゃなくても酔えるだろ」
「まあね、ヒヨコとかでもね」
「ヒヨコ食ったことあんの」
「ヒヨコ鍋とかね」
「お前とは絶対結婚できない」
「はっ、結婚なんて、時代遅れですよ時代遅れ! いまは詰めかけ女房、押しかけ女房の時代です! 男の子がおもちゃの車を動かして遊んでるような、一家団欒の部屋へ突如、長いコートを着た女がキャリーバッグを引いて、土足で入ってくる! おっ、おゔぇえええ」
 大袈裟な声を上げて、たしかに地面に何か、液体を吐いたけど、ごく少量だった。
 口を拭いながら涙目で睨み、しゃがれた声で、「背中くらいさすってくれてもよさそうなもんですけどね」
「食べる前でよかったな」
「計算の内だわアーホ。ハア。ハア」
「ほんと最近よく吐くな。そんなんで社会やっていけんの」
「余計なお世話ですよ」
「世話するべきところだろ」
「あんたに人の世話できるほどの余裕があるのか」
「ないけど、自分が余裕無くてもそれできる人が本物だと俺は人を見てて思うんだよな」
「あのねえ、そんなんに自分がなれると思わない方がいいですよ。クズ。先輩はクズなんですから」指でつつくように顔を指してくる。「だいたいね、これさっきからずっと言おうと思ってたんですけど、誰がひよこ、食うって言いました!?!? ひよこは見てるだけでも酔えるんですよ。かわいいから。ヒヨコは一番天国に近い鳥だからですよ。殺しますよ」
 夜の繁華街で、街灯の光は雨に濡れた窓ガラスを挟んでいるみたいにぼやけて見える。メガネをかけていないからだ。
 ラーメン屋の前には白い犬がいた。「トイプードル? なぜ」
「トイプードルだって一人になりたいときがあるんですよ。そんなこともわからないんですか。そんなんだから、小五で好きな子にふられるんですよ」
「なんでそんなこと知ってんの」
「遠藤さんに聞きました」大きな傘を畳んで、店内へ入った。
 店には、金魚の入った水槽が置いてあった。水が、着色されたとしか思えないとても明るい水色で、そんな鮮やかな色はその場所には他になかった。グラスの中でさえ、そんな洒落た色は用意してない店なのだ。だから、その水色の清涼感は人の目を引いて、少し遠くから見ていると、手の届かない、思い出のような理想のような、揺らめいているものを見ているようで、目を細めてしまうのだった。
 けれど、そんな人の目を楽しませるための水が、金魚に優しいとは思えず、次のように耳打ちした。「きっと、毎晩毎晩、金魚が店の裏の炭みたいな地面へ打ち棄てられて、動かなくなって、そこには金魚の死骸の山ができてるんですよ。毎日毎日、店を開く前の時間になったら、業者が外の白い道にやってきて、金魚を一匹、何枚かの硬貨と引き換えに、店長の掌に落とす。店長は金魚の尾びれをつまんで、ちゅるっという感じで、用意されたあの、死の呼び水のなかへ落とす……すべてはこの暗い店内で」
「呼び水って、そういう意味だっけ」調べた。「ポンプの水が出ない時、上から別の水を入れて、水がくみ出せるようにすること。その水。比喩的に、ある事を引き出すきっかけを作るのに使うもの。だってさ」
「…………」
 後輩の、無の横顔を見つめる。いきなりこっちを向く。「二人で暴きましょう、この陰謀を」
「そうだな」
「あーつまんねえ男だな」頭をかく。「そんなんだからふられるんですよ。初恋の女の子、すごいお金持ちだったそうじゃないですか。トイプードル庭で飼ってたんでしょ? パーテイーには呼んでもらえました?」
「うん。白いテーブルの下に隠れてるやつがいて、何してんのかと思ったら、通りかかる男子の股間をいきなりむんっと掴むのな。あれは何だったんだろうな。痛い以上に本当に気持ち悪い死ねばいいと思った。ああ、いまからあいつ殺したい」
「いいよいよ、その調子だ。さあもっと飲め飲め。そして吐け。吐くために飲むのだ酒というものは」背中をさすりながら言うのだった。この女はこのように、吐いている人を介抱するために背中をさすることはなかったが、飲んでいる人を調子に乗らせて吐かせるためには腕が疲れてもさすり続けることを惜しまなかった。
「ところで先輩、我々の母校の通学路にはレンガのトンネルがありましたね」
「ああ」
「それとコスモスの揺れる道」
「あったな」
「あれはとても良いものだったと思いませんか?」
「さあ」
「あの通学路のおかげでわたしの学生生活は救われたんですなあ。ああいうものを心に持っていれば、人間は生きていくことができますよ」
「仕事で死ぬほどしんどいときとかにそういうのを思い出して浸る余裕はないと思うけど」
「嫌なこと言わないでくださいよ。じゃあどこに救いがあるっていうんですか」
「だから、そんな状況に落ちこまないようにがんばっとけっていうんだろ」
「それってなんかつまんなーい」
「お前さ、酒飲んで逆に落ち着いてきてない?」
「まあ、薬のようなもんですからね」
「何歳から飲んでんだっけ」
「五歳」
「そりゃ、薬としての効果も切れるんじゃねえの」
「いいや、実際はあれですよ、酒自体じゃなくてね、飲みながらあぐらかいて人と馬鹿笑いするのが、一番良かったんですよ。その人っていうのは具体的にはうちの父ね。酒があったからめちゃくちゃな父でしたが、あったから仲良くやれましたね、わたしたちゃあ。酒でつながっちゃったぶん、母が取り残されてただただ可哀想でしたけど。一人じゃ酒なんか飲みませんよ。テレビゲームしてたほうがまし。ああいまね、うち、ベッドじゃなくて床に置くタイプのマットレスで、それに座ってゲームしてるんです。これがいいんですよ、そばにはビールの空き缶があって」
「飲んでんじゃん」
「インテリアですから、空けること自体が目的ですから」
「アル中で死ぬぞ。つか、薬と酒一緒に飲んでないよな」
「そんな無茶は学生でやめました」
「ほぼ今までやってんじゃねえか」
「まあ、もうやめますよね。はい。わたしも大人ですから! だいじょぶだいじょぶ!」背中をバンバン叩いた。先輩の灰色の猫背は、このように使うためにあると思う。そろそろ吐かないかな、吐いて吐いてと思う。

 灰色というのは、後輩の父親の色でもあった。髪の毛とか、毬栗頭で灰色だった。
 鍬で畑を耕していて、雲の薄くなったとこから弱い日が差したら、汗をぬぐって笑顔を見せた。赤い膨れた顔だった。
 車でレンタルビデオ屋へ連れてってくれた。黒光りするエイリアンなど、パッケージを見ているだけで楽しかった。そういうのをウインドウショッピングと呼ぶのだと、後で知ったけど、それもまた少し間違っていたと、さらに後で知った。ビデオ屋には同級生の男の子がいて、目が合うと赤いのれんの向こうを指さした。覗いてみると、アダルトコーナーのなかで男が男を引きずり倒して殴っていた。ぷぷ、と口のなかで音のない笑いがこぼれた。
 ドアが閉まって、発車した。夜を、乗せられた車のなかで走っていくのは、わくわくして好きだった。運転する係が父で、自分はビデオの入った青い袋を、大事に抱えている係だった。父に何があっても、これだけは守らないといけない。延滞料金は、恐ろしい。おばけよりずっと怖い。
借りたものは返せ、と、父には言い聞かされてきた。それさえちゃんとしていれば、たいていのことはなんとかなる。(父は、あまり返してこなかった人生で、返してこなかったせいで良くないことを被っていたので、その言葉には説得力があった)
「じゃあ、めんどくさいけ、最初から何も借りん」
「そりゃあ、無理や。お前、もうおれに死ぬほど借りがあるしな。まあ、おれのは忘れていいわ」
 袋のなかには、女の裸のパッケージのビデオも入っていることを知っている。店員は、貸し出すときに、父親の後ろに立っている娘を見て、それから父親を、明らかに軽蔑した目で見た。父親はにやにやしていた。
 暗いところを走っていたら、前方、ライトのなかに、白い服の人が、転がるボールを追っかけるように両手を伸ばして、飛びこんできた。
 車が止まって、父が降りた。人が、撥ねられてしまったのだとしたら、父は、救急車を呼んだのだろうか、それとも、山の中とかへ埋めてきたのだろうか。
後者のほうが、ずっと、起こったことのように思われる。起こらなかったとしても、起こるはずだったことのように、思われる。もし、その運命を変えたものがいるとしたら、自分なのだろう。父が、横たわる体から、ふと顔を上げて車を見ると、車内ライトのなかで、幼い娘の自分が、ストローでジュースを飲みながら、光る目でこっちを見つめていた。べつに、何を命じている目でもなかった。ただ、見ている子供の目。そういうものだからこそ、父は、本来取らない行動を、取ったかもしれない。
何が起こったにせよ、自分はずっと車のなかにいたから、関係なかった。
 薄暗い、居間の畳に寝転がって、父は、大きな白いものをしごいていた。テレビでは、裸の女が、あーあー言っている。娘は後ろの、縁側の木の廊下に立って、バニラアイスを食べながらそれを見ていた。
 お茶を飲むために、父が立ち上がると、股間のものの姿が見えた。白くて、それは、大きく膨らんだ蚕の幼虫に、さらに、ホワイトチョコレートをかけて、固めたみたいだった。
「なんや、興味あるんか?」父が下卑た笑みをして、娘は「うひひ」と笑った。
「気持ち悪いやつやなあお前」父はげんなりしてみせた。「誰に似たんやろ」
「おかあさん」
「そうか?」
「おばーちゃん」
「うーん」
「じいちゃん。とーちゃん。ぼち。神様!」
「神様とか知っとんか、お前」
「うへへえ」

「この、てんとう虫女」
「えっ?」
「てさ、」先輩の顔は赤く、目に涙が溜まっている、「呼ばれてたよな、お前」
「ああ。いまは誰も呼びませんがね」背筋を伸ばしたまま、水を飲んだ。
「テントウムシ、潰したり、食ったりしてたんだっけ?」
「先輩、いい大人が、小さい生命ときたら殺すことしか考えられないって、悲しすぎますよ」
「いや、お前の特性じゃんそれは」
「わーっ、ひどいなあ。虫ばっかりは潰したことないですよ」
「嘘だぜったい」
「わたしは小さいものへの慈しみに溢れてますからね」
「いやなんか、お前が溝のなかの、タガメ?的なの、虐殺してた記憶あるんだが。吹き矢みたいなやつで」
「別の子ですよー。もしくは、先輩の願望ね」
「願望ったって、簡単に叶えられるだろ、虫なんて、すぐ殺せた。いつでも」
「人だって殺せますよ。すぐ。わたしがここで包丁借りて、先輩に、握手でもするような感じで刺したら、それだけですよ? 叶えられない願望 とか、めったに無いですよ。人間なんでもできます。子供のときは特に、それが、すぐ手の届くとこにありましたよ。あっわたし死ぬのかな? って思った瞬間がたくさんあった。親はさ、まさか子供がそんな危ないことになってるとか、自分の見てないとこで、想像してないでしょうね? わたし、ここにいなくても全然おかしくなかったんですよ。全然おかしくないの、不思議だと思いません?」
 そう言われて、痛む頭に手を当てて考えてみると、自転車を漕いでいたりして、とても高いところから落ちそうになったような記憶が、何個もある気がした。
「んー……え? でもだから、なんでもできるから、虫くらい殺せたって、話だろ? だからべつに、そんなことわざわざ願望するまでもないよっていう」
「だからあ、わざわざ願望するに値するようなことがないって言ってんじゃないですか」
「ああそういうこと。……え? それでなんだっけ、何の話だっけ」
「もう先輩酔ってるから無理ですよ、ちゃちゃっと諦めましょう」
「いやお前、努力しろよ」
「わたしは始めっからどうでもいいですよー、てんとう虫女とか」

 そのあだ名の、由来も意味もわからない。てんとう虫に対して、たいして熱心だったわけでもない。葉っぱにとまっていたら、ちょっとは気になる、他の虫に比べたら、ちょっとはかわいい気もする虫、という程のものだった。あの頃自分を夢中にした、爆竹、それを放りこむためのおばあさんの家、いじめられっ子の男の子、その子を使って公園の遊具で遊んだ地獄の鬼ごっこという名のかわいいリンチ行為、などに比べたら、とても刺激が足りなかった。
 呼ばれて不快なあだ名でもなかった。本名フルネームより長いそのあだ名を、男子たちが略さず律儀に呼ぶのはふしぎだった。アホなのか、愛の証拠か、それとも権力者がそう呼ばせていたのか。
 ガキ大将、あるいは番長。その人は明らかにゲームか漫画雑誌の中から出てきた、青い学ラン姿で、肩や腕に男の子を乗せて、小運動場に立っていた。
「オレと勝負しろ」とその人は言った。
「ええ? 嫌です」
 特に行く宛もなく、そいつから逃げるために、歩きまわった。そいつはずっと、ついてきた。一定の間隔を保って、走ってきて無理矢理捕まえようとしたりはしなかった。
「当たり前だ。オレはあんたと、正々堂々サシで勝負することを望んでいるんだ」
「わたし、ふつうに女やし、勝てるわけないやん。何考えとん」
「わからんが、胸の奥から湧き上がり、突き破ろうとしている」
「あんた、それは、恋だと思うよ。でもわたしに恋とかせんでね。気持ち悪いけ」
 初めてそいつの動きが止まった。両手で体の横に拳をつくっている。
「気持ち悪い、気持ち悪い」呪文みたいに唱えながら、歩いていった。
 そいつはついてこなくなって、よかったと思って、「ただいまー」玄関で、靴と靴下を脱いでいたら、「おじゃまします」と後ろから声がした。驚いて振り向くとあいつだった。
「は!?」
「あらー」母親が出迎えた。娘は、必死でそいつを帰らせようとしたけど、なぜか母親がどうしても帰らせなかった。
 そして、電気を消した同じ部屋で二人は眠った。意味がわからなかった。布団を並べて、お互い逆を向いて、狭いのでほとんど背中合わせで寝ていたけど、娘の方は、いつ寝首をかかれるかと思って、眠れず背後の気配をうかがい続けていた。とても神経がもたなかったけど、母親のことはもう嫌いだったので、助けを求める気にもなれず、父親はそもそも最近嫌い気味で、一緒に寝るとか論外だった。眠いのに寝てはいけなくて、ずっと神経を尖らせているから、なんだかお腹がすいたみたいに痛くなってきた頭を押さえた。現在進行形で脳みそが、HPのゲージがすり減ってってる気がした。なぜ、こんな試練に見舞われているのか、わからなかった。明日は漫画みたいにげっそりした青い顔で、学校へ行かなければならないだろう、おそらくこいつと一緒に。もうそれは、どうあがいても避けられないことのような気がしていた。…………
「へんな話ー」
 その女子が教室で描いていた漫画を読んで、友達が言った。
「へんかね?」
「へんやん。こんな人が好きなん?」
「好き?」
「そうよ。」
「なんで?」
「だって、この女の子が自分やろ? 自分がこういう人と恋したいっちゅう話やろ?」
「恋??? べつに恋する話やないやん」
「は? 恋って書いとるやん」
「は?どこ?」
「ここ」ページをめくって、指さした。
「あ、ほんとやんなんで?」
「恋したいけやろ?」
「いやでもそんなん考えてなかったんやけど」
「考えんでもそうなってしまうんよ」
「えーそんなんあるー?」
「あるよ。大体そうよ」
「なんでそんなん知っとん、すごいね」
「考えたらわかるやろ」
「そうなん。うーんでも嫌やな。わたしほんとこれ恋とか思ってないよ?」
「それやったら、一緒に暮らさんでいいやん」
「そんなんこいつが勝手にくるんやけ仕方ないやん」
「好きになってほしいっちゅうことやろ? こんな人に」
「えー、そんなんもう何も描けんやん」
「描けばいいやん」
「描けんやん恥ずかしい」
「現実で恋したら描かんでよくなるかもね?」
「そうかね? 現実とかもっとないわ」
「あるよ」友達は手でその女子の顎を持ち上げて自分に向かせた。「あらせてあげるよ」

「お母さん、あたし、自分の顔嫌い」
 薄暗い脱衣所で、洗濯機から洗濯物を取り出している母親へ、友達は言った。
「なんでね? あんた、きれいな顔やないね。感謝しい。あたしなんか、平安時代の妖怪みたいな顔やろ?」
「お父さんもぬぼっとした妖怪みたいな顔やん。二人は一緒に御飯とか食べとったらお似合いなんよ。わたしは、きれいな人と結婚して、きれいな食卓風景にせないけんやん。ずっとよ。息苦しいわあ」
「考えすぎよあんた。いま何歳ね」
「十を幾つか越えたところ」
「早いっちゃ。この先お母さんに似てくるかもしれんのやけ待っとき」
「それはないと思うわ。遺伝子違うけね絶対。ありもせん希望を抱かせるのはやめてくれんかね。わたし、お母さんにもお父さんにも似てないやん。誰か他のきれいな人の子やないん」
「お父さんがきれいな人と浮気できると思うかね?」
「わからんよ。それかお母さんがきれいな男の人とってこともありうるやろ」
「お母さんも、あんたが生まれる前は若くてきれいやったんよ」
「嘘やん。アルバム高校んときから妖怪やったやん」
「あはは」
「笑い事やないし」
「笑い事よ。」
 夕飯も、とても速く食べて、ご飯は四分の一くらい残して、わざと食器の音を立てて、ごちそうさまと言って、行ってしまった。渋い顔でうつむき続けて、全然、親と目を合わそうとしなかった。
「おれなんかしたか?」
「しとらんよ」
「何やろ。反抗期?」
「恋やないかね」
「あー。もうそんな歳かあ。けっこう早ない?」
「普通やろ」
「あっというまやったな」
「まあねえ」食べ終わったアイスの棒を出し入れして、舐めている。

 みちこー」
「なん?」
「久々にせんか」

そうやね」
 この夫婦は畳の上でするのが好きなのだった。落ち着く。このとき、下に寝ているのは夫の方だった。そのことに特に意味はない。天井からは電灯が吊り下がっていて、二つ重なった天使の輪だ。田舎にある天使。蛾たちが、その輪にまとわりついている。かまってほしいのか、ちょっかいをかけて、でもいくら何をどうしても、蛾がその輪に与えられる影響など何一つなく、それで良かった。
 覆いかぶさってくる妻の顔は、逆光で、やはり見慣れた不細工だった。仮にいま、その顔がすっ飛んで、別の美人の顔に置き換わったとして、それは違うわな、と思った。この、田舎の夜、畳の張った和室、夫婦二人、これら全部で、部分であり、全体だった。もちろん、他にもいろいろなものが、そこには含まれていて、急な狭い木の階段を娘が不機嫌にのぼっていったことも、その内だった。

 二人は裸になってみた。渡り廊下はアルファベットのIの字をしていて、その肩に当たるような横棒のはみ出た部分が、人の通らない謎の空間となっていた。
脱いでみるとわかるけど、自分たちの着ている服というのは、畳んでしまったら物質的にとても小さく、色合いだって、子供だなと思った。
 セックス、というものについては、世の常で、男子よりはよく知っていた。
 靴と靴下は、履いていた。教室ではわりと簡単に裸足になれるけど、渡り廊下では少し勇気がいった。だからこそ、最後に残してから、脱いだ。ざらざらした緑の地面の感触が、教室の床のつるつるに比べればいくぶん、刺激的だった。
 すずめが鳴きながら通過した。
「 ちゃんは、白いできれいやね」
「ありがとう。そっちも、かわいいよ」
「そうかね?」自分の体を見下ろした。「なんか、お好み焼きみたいやない?」
「は?、」笑った。「なんで?
 ソースかけて、食べたい。好き」
「わたしのこと前から好きやったん?」
「好きやなかったら、友達せんくない?」
「人付き合いってあると思うけど」
「ふーん、 ちゃんもそういうのあるんやね。ないかと思っとった」
「えー? あるよー。あるある」
「でもあんまそんな感じないね」
「べつにしたいわけやないしね。めんどくさいことにならんように、最低限やっとんよ」
「かしこいね」
「うーん?」と、「うー」にアクセントを置いて言った。「 ちゃんの方がかしこいやん。なんかちゃんと、自分に良くしてもらえるようにしとるよね」
「それが嫌なんやけどね。しちゃうんよ」
「そうなん。でも、いいことやん。将来やくたつよ」
「うん。
あのね、あたしのこと好きとかあたしは訊かんよ」
「んーそう? ありがとう」
「いえいえ」会釈をした。
 それから二人で、うふふと笑った。


 先輩と後輩が、中学生の頃のことである。
 二人は、部活か委員会が同じだったのか、暗い、縦長の狭い、物置のような部屋で、ふたりきりだった。
 扉の向こうの廊下の窓では、秋の葉が落ちていたけど、それを二人は知らなかった。
 後輩は、床に尻をついて、先輩は立って、見上げて、見下ろされて、見下ろして、見上げられていた。
 ……………………
「これがバラッドに聞こえませんか?」
「笛じゃん」
「苦しい。ああ苦しい。先輩に捧げたバラッドですよ」ピーヒョロロ。カシュッ、ピー。ピー。紅い漆塗りの笛だった。また、ゲロを吐きながら吹いていた。誰も、他に、変態以外は吹きたがらない笛だ。
「その変態に、なってくれって言ってるんですよ」先輩の喉笛へ、下から笛を突きつけた。ゲロで光っている。
 でもこの笛は、てんとう虫にそっくりの模様をしていた。

「あの笛のせいで、てんとう虫女って呼ばれてたんじゃねえの」
「あの笛 とは」
「あのさ……」説明をした。
「ああー! ありましたねそんなこと! あったあった! やったやった! よく覚えてましたね先輩。わたしのこと好きなんですか?」
「あんなん誰でも覚えるわ。強烈すぎて」
「そんなんばっかりじゃないですか? わたしの思い出。まあそうなるように仕向けましたからね」
「ああそう」
「うーん、でもあれって……あー、通学路で、吹きながら歩いてた気も、しないでもないなあ……」
「ほら、これで決まりじゃん」
「いや、待ってくださいよ。なんかやですね。もうちょっと探りましょう。せっかくの神秘が!」
「どうでもよくね。どうでもいいって自分で言ってたよな」
「いや、先輩との話の種とすることで、神秘になるんですよこれは。じぶんだけならたしかにどうでもいいですけど」
「俺も全然興味ないけど」
「わたしもですよ! でもこう二人で話の種にすることによってね? 二人とも興味ないもんが、二人で種とすることによってですよ!、」
「んんまあ言いたいことは、」
「でしょう!? でねえ、あの笛、たしかに大切にしてたんですよね? 拭いたりとか。でも、何だったのか。形見? 旅行のお土産? んー、おばあちゃんの形見だった線が濃厚かな」
「あんときまだご存命じゃなかったっけ?」
「てかまだご存命だと思いますけどね」
「思うって何」
「いまこの瞬間にぽっくり逝ってる可能性もありますよね。歳だし」
「ああそういう。まあ九割方生きてんだな?」
「まあそうですね」
「じゃあ良かった」
「良かったですか?」
「うん。あのおばあちゃん、せんべいとかよくくれたし」
「せんべい、虫ついてませんでした?」
「いや一枚一枚袋に入ってんのに、ついてないだろ」
「それがついてるから不思議なんですよね。アブラムシみたいのが」
「何その無駄な魔法」
「えー? わたしんときだけつけてたのかなー。いじめられてた?」
「おいおい。そんなことはないよ」
「えっなんでかばってるんですか」
「かばうというか」
「おばあちゃんの味方ですか。ババコンですか」
「中立。というか、どっちの味方でもない。諍いになってほしくないだけ」
「ほーん、じゃあ両方の敵ってことで。敵ー!」
 鳥か、何らかの小動物の群れが集まってきそうだった。けど、ラーメン屋なので、そういうものはおらず、なんだあいつ、という目で見てくるものも、少なかった。深夜だから、みんな、似たようなもので、大体赤い顔や、とろんとした目で、タバコの煙も漂い放題だった。基本的に、肩身の狭い煙も、こんな時間、こんな場所なら、いくらでも生き生きと生まれて充満することができて、仮にそれに怒る人がいて、争いが始まっても、その争いを上で彩っているのが煙であることは、見物人たちにはよくよくわかっていることで、うなずいていた。

 べつに、バラッドは悲しい歌ではない。
 酒を飲んでほろろーとしているときに、頭を左右に揺らしながら、目を閉じて気持よく口ずさんだって、いいのだ。
 家の畳の上に、足を開いて伸ばして座り、重ねた掌に缶ビールを置いて、壁にもたれて歌っていたら、そう思うようになっていた。
 学校で、みんながイヤホンで聴いているバラードは、悲しい恋の歌だった。
 聴かせてもらって、というより聴かされて、ふーんと思って、なんとなく覚えて、家でもさっきのように口ずさんでみて、悲しくはなかった。
 大体、発見したのだけど、笛で吹いてしまうとどんな曲でもまぬけになった。それはもちろん、自分がまぬけな音を出しているせいであり、上手な人なら、悲しく吹ける。音楽の授業では、そのことがわかった。顔のきれいな、小柄で、育ちのいい男の子なんかはそうだった。ほおー、すごいなあとは思ったけど、自分も悲しく吹けるようになりたいとは、特に思わなかった。音楽室は、その日は外がくもりで、けっこう暗いのに、電気がついていなくて、影と水色で、立って笛を吹いている男の子の姿も、陰影になっていた。
 学校のリコーダーと、自分の持っている紅い笛とで、また違っていた。紅い笛は細長くて、低い音が出なかった。
 この笛でも上手く吹けるのかなあと思い、例の男の子に、笛を差し出してみた。男の子は、愛の告白をされたかのような反応をしていた。
 吹いてもらったら、リコーダーのときとは違うけど、やっぱり上手だった。高い音しか出ないなかで、工夫してがんばっていた。例えば、細かく素早く演奏するなら、こっちの笛の方が得意らしくて、楽譜では一つの音譜でしか書かれていないのに、吹くときにはその一つの音譜のなかで細かく音を変えて踊らせたりしていた。それは、盆踊りとかではなく、バレエとかああいう、小粋なステップと言えた。そんなようなことまでは、聴いているそのときには気づかなかった。
 男の子は、くわえたところをティッシュで拭いてから返した。ああ、自分もそうしてから渡すべきだったと女子は思った。エチケットやな。と思った。この頃はまだ、笛を吹きながらゲロを吐くようなこともなかったので、男の子は助かった。でも、この男の子なら、ゲロのついた笛を自分の体内に受け入れることも辞さなかったかもしれない。
紅い笛は、てんとう虫にも似てたけど、マムシにも似ていた。
 割とあちこちに、マムシ注意の看板が立っていた。山。池。団地のなかの草むら。
「あれマムシかね?」
「蛇やろ。アオダイショウ。うちのツバメの雛食った」
「えー! 死ね!」
「でもおれ、蛇好きなんよねー。この前帰っとったら道に轢き殺されたのが落ちとったけ、拾って家に持って帰って庭に埋めた」
「うわあー。おいしかった?」
「食っとらんわ」
「手で持って帰ったん?」
「そうよ」
「毒うつるんやないん」
「ちょっと臭かったけど手洗ったけ大丈夫」
「ふうん。おいしかった?」
 蛇食い、蛇食い、と学校で呼ばれるようになった。家では呼ばれなかった。
「何なんお前」上級生男子が下級生女子の教室へやってきてその胸倉をつかんだ。(なかなか暴力的だ。)「おれが嫌いなんか」
「んー、嫌い?」斜め上を見て考えた。「いや、好きかなあ」
 既に大注目していた周りが、待ってましたとばかりに囃し立てた。男子は真っ赤になって逃げていった。
「かわいそうに」と女子が言った。

 学校のプールの飛びこみ台の上に、男子は立っていた。女子はビート板を引きずりながら、プールサイドを歩いていた。なんで二人だけいたのかわからない。女子が男子を見ると、また男子が女子を見ると、自分のことを呼ぶ相手の口が動くけどその中は墨汁みたいに真っ黒で、お互い何て呼びあっていたのかわからない。
 日中で、校舎には授業の気配がなくもない。その日が休日だったら、教室には電気がついていなくて、老人がひとり彫り物をしている。六十年前、この学校から持ち去った鍵を老人はまだ持っていた。やることが済んだら老人は、濃い緑の林のなかへ帰っていく。
 男子と女子は、それぞれひとりずついたので、お互いの権利を半分使わせてもらって、男女両方の更衣室に入ってみることができた。女子は男子更衣室で、背の高い棚の上へつま先立ちして手を伸ばした。そこには男子の水着の忘れ物があった。男子は女子更衣室で、女子と並んで壁際に膝を抱えて座った。そうしたらすべての輪郭がぼやけている明るい外が見えた。

 みどり先生は儚い死に方で亡くなった。
 大山先生は児童らを殺して閉じこめていた。
 先生たちの授業する姿を見て、そういう設定にした。(それが)事実(になる)かどうかはどうでもよくて、設定することがだいじだった。

「 くんが転校します」
 最後のお祝いに、 くんに火をつけてあげよう。
笑顔のみんなに胴上げをされる くんは、目から涙を跳ねさせていた。
おとなしい くんはこんな体験をしたことがないから、きっと嬉し涙だろう。口が輪ゴムみたいに緩んでいるのも、あれは笑っているんだろう。

 下校していたら大きなピエロがついてくる。だるまさんがころんだをさせようとしてくるけど、振り向いたらそのことによって目の前にいる。だから、怖いのを我慢して、振り向かないのが正解。走りだしたりしたら、前方でトラックに撥ねられる。ピエロは嬉しそうに手を振る。
 振り向かずに、人のいる安全な場所まで行けたらピエロは消えていて、はじめからいなかったような気がだんだんしてくる。そこは団地の公園で、いつからか霧が下りている。霧のなかで街灯が霞んでいる。なんで、灯がついているんだろう。いまは昼だったはずなのに。大きな影が霧のなかに現れる。さっきから必死に、ライターで火を点けようとしている。取り上げられて、見上げたらおしまいだ。真っ赤な口紅と鋭い歯。
 その町では、男の子の方が危ない目に遭っていた。
 なぜなら、あれがついているからだ。

 その町では、子供たちは消えたがっていた。

 草むらにピンクの直方体が落ちている。
「なんだ。ローターかと思った」
「ああ、コンドームか」
「はい」
「じゃあ需要ないな」
「ないことはないでしょうが」
「タバコ屋の自販機で買ったやつかな」
「絶滅危惧生命体ですよね~」
「まあ、自販機を生命体と言いたくなる気持ちはわかる」
「自販機仲間でもド底辺でしょうね。仲間に入れてもらえないかな?」
「でもさ、憎まれっ子世にはばかるっつって、人間の嫌いな生き物ほどよく生き延びるって話あるよな。嫌われ者の方が鍛えられてサバイバル強くなんのかな」
「それはね、神様が人間を嫌いなんです……」しゃがんだ後輩は、猫じゃらしで何かを弄んでいる。少なくとも猫ではない。そんなに小さな猫はいない。
「人間ごときが神様に興味を持ってもらうとか、おこがましいよな」両手にポケットを突っこんで、股間を張るようにしている。
「先輩、偉そうですね」
「まあ人類に対してはね」
「でもわたしは、神様には人間を嫌いでいてほしいです。そんな神様が好きですね。先輩とは相容れません。死ね」
「そういう、お前の潔いところは好きだ」
「……。ローターって、精子に似てません? ほーら」つまみ上げて、ぶらぶらさせた。「まあ、精子の実物見たことないですけど」
「そこら辺にあると思うけど?」
「わりと性乱れてますよねこの学校。けっこうかしこい進学校なのに」
黄色い太陽、白い猫、青姦している高校生。
これがこの辺りの三点セットで、草やアスファルトの上、溝や公衆便所の便器の中、車の足元、道路の真ん中、等々に、いろんなセックスの残骸が落ちている。拾い集めていけば色とりどりの、小学校のときのビー玉集めみたいに、太陽に透かしてきらきらさせる、宝物にならなくもない。集めたそれらを自分の部屋で、手帖に貼りつけ綴じている。
校庭には妖精が出る。と少なくとも後輩は言っていた。
「お前の薬って幻覚まで見えるんだっけ?」
「ちょっとー。わたしの見てる幻覚ならそれが真実ですよ。見えてないやつらが馬鹿なんです。見えてないっていう幻覚に騙されてんですなあ」
「妖精が透明のカーテンかなんかで身を隠してるってこと」
 たしかに、ちょっと外国の少女小説にでも出てきそうな、ファンシーな箱庭感のある庭で、あんまり進学校らしくはなかった。でも、ちょくちょく朽ちているところがあって、校舎を見上げると、黒い窓に白い掌をついていた女生徒が見られて立ち去り、後に残った窓には手のひら型の曇りと、斜め上に亀裂と縫い目、蜘蛛の巣まで張ってしまっている。
「いかん」先輩は頭に手をやって、顔に陰が落ちた。
「見えてきましたか?」後輩が下から覗きこむ。
「お前……俺に向かって、息吐くな。精神薬って空気感染すんのか……」
「なんでもしますよ。空気感染はね」
 先輩は瞼が重くなって、黒くなった。後輩が立って見下ろしているのが、ぜんぶ黒くなってしまう前に見えていた。後輩の他には、その向こうの曇り空しかなかった。雲は淡い、青色をして、太陽の黄色い光を漏らすまいとして透けながら、静かに一方向へ動いている。

「結局、ラーメン食ってないな」
「あれえ?」
 後輩はよだれを垂らして、ずり落ちそうになっている。
 電車のシートは、おとぎ話の暖炉の火みたいに赤かった。
「なんでですか」
「文句言いたそうな顔をするな。完全に酔っぱらいの顔だぞ」赤い。「酒ばっかり飲んでたからだろ」
「……先輩……ここを」先輩の乳首に指をのせた。「こう」指を回す。「やってもいいですか?」
「やめろ」
「やめろ、だって。ぷっぷー。
 ……先輩。シダックス、行きましたよねえ。高校んとき、だったかな? 中学か?
 あそこの、バイトの女の子、妊娠してたんですよ」
「え? 誰? どの子のことを言ってんの」
「先輩のことをいつも見ていた」
「そんな人、気付かなかった」
「先輩のことを見つめすぎて、妊娠してしまった子ですよ。あの子の前では、わたし、先輩に絡みついて守ってあげてたでしょう? あの黒い触手から」
「また、幻覚の話か。もういいよ」
「あれのせいで先輩、お腹壊したじゃないですか。もう少しで妊娠させられるところでしたね、何か、石綿の塊のような子を……
 それと同じ触手が、いま、前方から伸びてきていると言ったら、どうします?」
「は? ……」前に座っている女性は、携帯をいじっている。「ごめん、顔見ても全然思い出せんし、お前の妄想だろ?」
「また、わたしが守ってあげたらいいんですか? まったく、ダメな人だ……」
「あらぬ恩を着せようとするのはやめろ」
「わたしが死んで、最後に先輩は、気づくんですよ。自分がこれまでどれほど守られていたか……そこにすでに、わたしはいない。先輩は女の子のように泣き崩れ、へたりこむでしょう。明日の天気予報でーす」
「目が据わってる」
「ふへへ」
「うわ、気持ち悪」
 目が、ぎょろりとこっちを見た。病気のペコちゃん人形みたいな顔だ。
「はあ……人間を、食べてしまいたいという気持ちになったことはありますか」
「ないよ」
「嘘だな」
「なんで」
「先輩は、みどり先生を、食べたいと思ってたでしょう。
 ところが……あの人は……なんでしたっけ? 怪物に、ヒグマに食べられてしまった。人形のように、つかまれて、さわられて! さらわれて!
 男の子たちが、みんなみどり先生を食べたいと、昼の星に願っていて、先生は、熊に頼んだ。わたしを食べてと。そうしないと、人肉食を経験してしまったら自分の生徒たちは、人肉食に胃を巣食われてしまって、子供から、成長することができない」
「大した妄想で」
「ふふ。ありがとうございます。先輩と先生がセックスしているところも、何度も想像しました。ふてぶてしく寝転がっているだけの先輩に、先生がいろいろ世話を焼いてくれる。まるで、いたいけな少女のように。先輩は、寝そべれるチェアーを、教室に置いていましたね」
「それは、黒崎先輩のことだろ。お前が好きだった」
「黄色い蝶と、仲が良かった人ですか?」
「それは知らんけど」
「教室の窓から入ってきた黄色い蝶を、カメレオンみたいに捕食してましたよ」
「また、妄想か」
「でも、これは物理的に全然実現可能ですよ。蝶を二つに裂いて、ガツガツ犬のように食らう。きっと、麻薬のかわりが欲しかったんでしょうね。食べ終わるころには、よだれが垂れていたので、拭った。わたしはそれを見逃しませんでした」
「で、お前もその薬をやったと」
「たしかに、わたしは掌を、先輩に向かって差し出しました。そしたら、黒崎先輩は、わたしを見てから、白い唾を床に吐いたんです」
「拒絶されたのか」
「黒崎先輩は、先輩と違って、毎晩自分の薄暗い部屋に女の人を連れこんで、深い紫のソファの上に座って、女の人を抱っこして、自分の上に乗せて、腰を振っていましたから」
「はあ。それが、代金だったと」
「そう、蝶は、なぜかいつも黒崎先輩の手に舞いこんでくるんです。何か、おびき寄せる蜜でも塗ってんのかなと思いましたが、わからないので、奪うようにしました」
「奪う?」
「そう、幼い弟から、取り上げるように。そうすると、黒崎先輩は床に這いつくばって、泣くんです。泣いている上で、拳の中の蝶を握りつぶして、その粉となった体をまぶしていくと、床に降ったそれを、先輩は必死で舐めていました」
「それで、なんでお前はキレられなかったの」
「そりゃあ、わたしが黒崎先輩のトラウマのツボを押さえていたからです」
「ツボとは」
「ここからは有料です。わたしの口のなかのはちみつ飴を、口で取ってください」
「じゃあいい」
「嘘です。黒崎先輩のトラウマとは、小学生のころ、女子更衣室を覗いたとして、女子一同から冷たい目で見られたことでした」
「冤罪だったのか」
「冤罪もなにも、彼にはそのころチンコがありませんでした」
「は?」
「モノがないからといって、女の子だったわけではありません。ただ、まだ生えてきてないだけで、心は男の子だった。けどそれも、女の子みたいにか弱くて、いや女の子以上にか弱くて、優しい心の男の子だった。でも、女の子ではなかった。こういう人は、どこへ行ったらいいかわからないものです。彼の場合は、森の魔女のところへ行きました。もうほとんど自然と一体になっている、ボロボロの黄色いキャンピングカーに暮らしている、魔女。黒崎くんは、魔王の塔のようにそそり立つ、尖った真っ黒な孤峰を生やしてもらいました。それから、黒い学ランが似合うようにもなったのですが、胸の、まんまるな空色の宝石についた引っかき傷は、何をどうしても取れなかった。それを、付き合った白い女の子が、糸くずのように取ってくれた。しかし、この女の子は、白い猫が変身したものでした。変身が解けて去っていく猫の、黒く小さくすぼまったお尻の穴へ、入れたく、あるいは入れてもらいたく、黒崎先輩は手を伸ばしました。涙が流れました。それを拭って、次の日には、あの不遜な、愛を失った、傷ついた強がりなぼくちゃんになってしまったというわけなのですねえ……」
「お前、ほんと気持ち悪い」
「黒崎先輩とデートに行ったこと、ありますよ。城の周りの緑の池を、眺めました」
「それは濠っていうんだよ」
「死体の白い禿げ頭が浮いていて……微妙にぽつぽつと毛は生えているんですけど……」
「あの近くに、ホットドッグ屋なかった? 屋台みたいな」
「ああ、リバーサイド挟んだ、向こう側ですね?」
(リバーサイドとは、城の横にあったショッピングモールの名前である。
 経営者の名前は、江藤伴助、彼は三人の子供を作ったが、みなろくでなしだった。
 男が二人に、女が一人。子供らは、まだ小学校中学年くらいのときには既に、リバーサイドへやってきて、男は釘バットを振り回してCDをめちゃくちゃに叩き割り、べつの男はスパゲティ屋でわけもなく店員を土下座させて説教し、白い狐の面を左手に持った女は右手に引きずっている大きな桃紫色のくまのぬいぐるみを、はつらつと働いている映画館のポップコーン店員へ投げつけた。世が世なら、このぬいぐるみは爆発していただろう。
 投げつけられた店員は、床に正座して、女児の両足首をつかみ、時計の振り子のように涙を揺らしながら赦しを請うた。べつに悪いことはしてなかったけど、ゆるしてもらいたい心境だったのだ。彼は、赤い電車に乗ってここへ働きにやってくるが、その車内で自分の体を抱いて、彼の母親が亡くなったことを考えていた。
 女児は伏した店員の頭を撫でて、いずこかへ電話をかけた)
「はーい。もしもし。高沢です。あ? 店長? お久しぶりです~」
「おい、電車内」
「知ってますよ。酔っぱらいのすることだからいいでしょ」
「俺他人のふりするわ」先輩は席を立って向こうへ行った。
「あー。ちょっと店長~先輩が。はあ何? 非常識ですねえ。酔ってるんですか? わたしは酔ってますけど。だから先輩と。店長知らないですよ先輩のこと。だって言わないようにしてたもん。そうそう。恋人ですよ」
「おい」戻ってきた。
「あーはいわかりましたじゃあ連れてきますから。あーもううるさい。電話口で叫ばないでってあれほど教えたじゃないですか。今のバイトの子は言ってくれないんですか? あああそうですか。そりゃわたしの好みの子かもしれないな……」切った。
「え、いまの切るタイミングおかしくね?」
「いいんですよー店長ですから」
「何の?」
「あの、ホットドッグ屋の。いまからいきますよ。そーれ」後輩は体をひねり、背後にある自分にしか見えないボタンを押した。
「ここバスじゃないぞ」
 きらめく目で後輩は先輩を見上げた。うつむいた。
「……で、さらっと言ったけど、何。いまから行く? 俺も?」
「イエス」
「なぜ」
「きてほしいって、店長が。じきじきに顔見たいって」
「俺いらねえじゃん」
「こんな時間ですよ~? 危ないじゃないですか~」
「なら帰れ」
「えー」
「えーじゃねえ。お前明日、説明会は」
「まあ、幽体離脱して出るんで、大丈夫です」
「知らんぞもう」
「とりあえずあとひと駅、先輩座ったら?」左隣の空席をポンポンした。ポンポンされると、座るしかないという気になるのは不思議だった。後輩の右に座っている黒い格好のやつが、黒いアイフォンで写真を撮ろうとしていた。意味がわからなさすぎて、先輩は眉をしかめてレンズを見た。シャッターが鳴った。

「大体、俺、あの店長嫌いなんだよ」
「ほお。店長との思い出があるんですか?」
「いや別に。ただあの、ふくよかな体と、青緑っつのか、微妙な色をした緑のエプロンと、まん丸い顔に、無精髭でくしゃくしゃの髪、唇が突き出て、いつもにこにこしてるけど、まったく信用できない」
「まあ店長が信用ならないのは本当ですね。休憩時間はパイプ椅子に座ってお札を数えるのが趣味だったし、わたしには立ってそばでその様を眺めているよう命じてくるし、あくびやよそ見をしようものならダーツが飛んでくるし、子供がやってきてお金ちょうだいと言ったら立ち上がり怒鳴り散らし、そんときに突き上げた岩のような拳が天井を殴って店が揺れるし。わたしはそれを見て、ぱちぱち拍手をしました」
「あれこそ、人食ってそうじゃん」
「そうですよ。もともとわたしと店長は、人肉食同好者の集う掲示板でメアド交換から始まった仲ですから」
「へえ~、じゃホットドッグも人肉なんだ~」
「そうですよ、若い女の子限定ですよ」
「はあ。というかお前、運転慣れてるな」艶めく真っ黒の車だった。都会の滅びた塔みたいな駐車場の四階で、いつも後輩がやってくるのを待っていた。
「父親じこみですから~」
「お前のお父さん、荒そうなイメージだけど」
「それがねえ、運転だけはやたらと優雅なんですよ。そういう仕事してたのかな? ってくらい。あれがね、お母さんを勘違いさせたんだと思います。自分の体もこんなふうに優しく撫で回してくれるんだわーって」
「そんなもんかな?」
「いや、適当に言ってますけど」
 着いた。店は真っ暗だった。
「いないじゃん」
「店長、どっかから我々を狙ってるのかもしれませんねー」
 カウンターに、西洋のランプを模したものが置いてあった。実際それはランプで、黄色い灯りがともり、保育園の先生のように、小さい蛾を遊ばせていた。
「ん、これ、中……」先輩が顔を寄せた。「骨入ってない? 頭の」
「何言ってるんですか? これは妖精を閉じこめてある籠ですよ、どう見ても」

 何冊ものノートに、書き溜めた周りの人たちの設定は、パラレルワールドをつくっていた。
 廊下を歩いていて、先生が笑顔で手を振ってきたときも、ノートたちに支えられたパラレルワールドが、飛びこみ台で待っていましたとばかり、現実の世界へ流れこんできて、二重写しになった。このようなとき、まず、水のなかにいるみたいに、景色が水色になって、それから先生が、ノートに設定された通りの、カクカクした身振りをするにつれて、だんだん黒い絵の具が溶け込んでき、ほとんどすべて真っ黒になって、先生や廊下の輪郭のみがかろうじてわかるころ、台詞は昇る泡を吐きながらしゃべられた。曰く、
『3年5くみの斎藤くんは、おいしかったわ』
『2ねん1組の百長さんは、まだもう少しね』
『4年4組の桂織さんは、ぶどうみたいだった』
『6ねん8くみの香田さんとは、ともだちになりたかった』
『5年9組の東蔵茂吉くん、あれはいままでで最低の味。鼻糞でも食べた方がマシなレベル。四丁目の廃棄場へ捨ててきたから、勝手に取って食べたらいいわ。あなたの味覚には合うかもしれないし。合った時点で、絶交だけど』
…………ね?」
いつのまにか、間近に笑顔があって、頭をなでられていた。黒は消えて、水色の廊下に戻っている。視界いっぱいに押し寄せてくる、美人の地蔵のような笑顔から逃れて、目は横に動き、太陽に透かされた薄い雲の下を、黒い痩せた竜が飛んでいくのを見た。竜は疲れていて、景気づけに炎の息を吐こうとしても、出てくるのはカシュッ、という炭の煙みたいなものだった。下から石を投げられてお腹に当たると、割と本気で痛くて、簡単にふらついた。これには投げた方も驚いてしまった。
目を戻して、目の前の顔の、その下の胸元を見た。水色のブラウスに、濃い赤の二粒の木の実を模した飾りがあった。木の実は、艶めいていた。そのあたりに、自分の小さな指を引っかけて、どうにかしてみたいと思った。
廃棄場へ行ってみると、言われたとおり、隅っこの方に「茂吉くん」が置いてあった。ボロボロの、ツギハギだらけのぬいぐるみだ。けれど、そこに置かれているものは、本格的な廃棄物からは仲間外れにされているものだった。銀色の弁当箱、おもちゃの日本刀、カラフルなプラスチックのブルドーザー。本格的なものたちは、向こうの方で山となり、晴れ間の日差しを浴びながら、キリンの仲間のような黄色いショベルカーに崩され、運ばれていた。
「茂吉くん」の胸には、「茂吉」と書いた薄黄色のふせんが貼ってあった。左右を見回してから、しゃがみ、両手で茂吉くんを挟んだ。どうやって食べたらいいのか。ハサミがいる? 中身の黄色い綿なら取り出して、茶色く汚れているけど、食べられるかもしれない。
 でも、写真で見たことがある、本物の人間の体にも、黄色いスポンジみたいな脂肪が詰まっている。
 食べる前に、吐いた方がいいと思い、人差し指を喉の奥に引っかけた。吐瀉物をかけてから、食べるつもりだった。
 いろいろとむずかしかった。フォークとナイフを持ってきた。
 おままごとの、赤く塗られた木のトマトも持ってきた。
 まだ赤ん坊の妹も連れてきた。ピンクの服で、自分でハイハイできる。
 何も、起こらない。
 茂吉くんが立ち上がって、あいさつしてくれることはない。
 いや、そもそも、捨てられた死体を食べるということだから、立ち上がられても困る。
 立ち上がるような気がしてきたのは、妹がいるためだと思われた。
 だって、いざ茂吉くんを貪りはじめても、そっと後ろを見れば、無邪気な笑顔を太陽の黄色に照らされて輪郭の溶けた、柔らかい手で鳴らない拍手をする赤ん坊がいるのだ。
 食べようが、引き裂こうが、立ち上がろうが、妹は喜ぶことしかできない。
 それなら、喜びに対する正しい反応として、立ち上がらせてやりたいと願うのが、人情だった。
 ふう、と汗を拭った。運ぶのに体を使ったし、いま、頭も使ったので疲れた。見上げると、雲は途切れがちになっていた。
 もう、茂吉くんは放棄することにして、地面の岩を持ち上げると、てんとう虫がうじゃうじゃいて、うごめいていた。指をつっこんだら、てんとう虫は何匹がついてきてくれるだろう。それを口に入れてしゃぶったら甘そう。考えているうちに、妹が難なくそれを実行してしまいそうに見えた。ただし、妹には指一本をつっこむというようなこだわりはなく、手でまるごと、むっしゃりとわしづかみにして、笑いながら押しこむだろう。こぼれ落ちていくのも気にせずに。
 太陽が見ている。白くて、体温は低めだった。その頬に、体温計を差しこみたかった。

 熱を出して、薄い毛布一枚かけられて、ソファの上で寝ているのは気持ちが良かった。
 先輩にもその気持ちよさをぜひ味わってもらいたいと、つねづね思っていた。
「お前は学校行けよ」
「またまたそんな」後輩は笑顔でしゃがんで、寝ている先輩の、脂ぎった髪の毛と額をなでようとして、やめた。先輩の頭は、銀色のトラバサミだったからだ。
「小学校のプール行ってきますね?」
「は?」
「タガメが泳いでいるだろうから、長い虫取り網でもって、すくってきます。そしてタガメ鍋をつくってあげましょう」
「今日、何曜? この雰囲気は日曜……いや、平日の昼下がりか? 仕事、行かなきゃ」
「職場には電話しておきましたよ。婚約者と名乗りました。今度お祝いしてくれるそうです、よかったですね」
「………………」
「そんな目で見ないでくださいよ。興奮するじゃないですか」虎のように四つん這う後輩は、灰色や白の不規則なタイル模様の、灰かむりのようなワンピースを着ていて、とても大きく見えた。それに比べてソファの上に身を起こしている先輩は水色のパジャマを着て、まるっっきり子供だった。
「このパジャマ……」
「お母さんにいただいてきました。泣けますよねえ。息子が子供のころのパジャマをずっととっておくなんて」
「サイズぴったりなんだが」
「そりゃ先輩、途中から身長伸びてないじゃないですか。全然」
「途中……?
 ……はあ。お前、説明会は?」
「ええ? どうでもいいですよ、せっかく先輩がいるのに。人として申し訳ない」
「いや、いいから、行けって。志望度とか知らんけど、サボり癖ついたら、ずるずるそんまま何もしなくなり続けるぞ」
「はあ。わーかりました。着替えるんで、向こう向いててください」
 後輩が出て行くと、先輩は立ち上がった。そして、靴を履いて、外へ出たけど、家並みのなかの道で、日光に包まれるばかりで、ものを考えようとしても、ぼんやりしている。自分の家がどっちだかわからないし、ここがどこか、ここは地元だ、たぶんあっちへ行ったら実家だけど、携帯電話は、どこへ行っただろうと、とりあえず自分の体を探してみるけどなかった。
 向こうを見ると、緑の丘の上に、轟の森がある。子供たちはみんな、トトロの森と呼んでいた。
 森では、怖くもない害もないこども好きのお化けと、鬼ごっこをして遊ぶことができる。
お化けは飛んでいるから、木をぐるんと回りこんで、人間にはできない軌道で突然目の前へ現れて、おどかしたりする。スリリングで、楽しかった。
 自分の頭を触った。お化け? 当然のように考えていたけど、どうかしている、お化けなんて。
 手首に目を落とすと、生まれてこの方ないくらい白かった。頬に触れてみて、こけている気がする。こんな時間、立っているのは一人で、傍から見たら不審者か精神病者だろうなと思った。でも、この辺りにはそんな人がぽつぽつ、いまの自分みたいにパジャマ姿で、場合によっては裸足で歩いて、ときどき掌を太陽へ差し向け、光を授かろうとしていることがあった。なかにはパジャマが真っピンクの人もいた。
 そばを、つつっと、小さな茶色い犬が駆けて行った。小さいだけでなく、短すぎて、途中で体を切断されているのではないかと思うくらいだったけど、切断されているとは思えない元気な走りだったから、そんなことはなかった。いびつさを感じさせるその形状は、荷台を取り外されたトラックに似ていた。そんな犬がちらっとこっちを振り向いた。つぶらな黒い瞳。赤い首輪から伸びる綱が、第二の尻尾のように跳ねていた。
 なんとなく、犬の行った方へ歩き出してみる。犬の姿は見失って、その残像さえもう感じられないけど、鼻をすんすんと動かすと、どっちへ行ったらいいかわかった。
 そうして、実家へ辿り着いた。他の家々からは離れたところに、草原の上に、森に抱かれるようにして立っている灰色の家だ。縦長で、直線的で、距離を置いて見ると、ちょっとした要塞みたいで、入るのに勇気がいった。間には、風が流れていた。
 自然に、傍に犬がついていた。さっきの短い犬ではない。黄色がかった白い毛の、頼りになる相棒だ。その相棒と連携を取りながら、草に身を隠しつつ、堂々と玄関から侵入した。天井がとても高く、吹き抜けていた。靴は脱いだけど、犬の方は、犬である以上、脱ぐ靴もなく、そのまま段差を踏み越えることもできなかったから、待たせておいて(掌を上げて見せると、おすわりした犬は応えて一度、空吠えをした)、あとは一人で廊下を進んだ。
「あら、こうき、おかえり」
 母親なのだろう。真っ黒な部屋で、卓袱台から湯のみを持ち上げて、正座し、テレビを見ていたが、こっちへ顔を向けた。テレビの光に照らされたその顔は、壮絶に痩せこけて、皺だらけで、あちこちに窪みのような陰影をたたえていた。
「母さん、すごい、痩せたね」
「うん。あんたも、さほもおらんくなって、やる気が出らんくなってね」
「父さんは……そっか、単身赴任。大丈夫? 俺なんか作るよ」
「そうね」
 赤と白のギンガムチェックのエプロンをつけて、煮物と炒め物を作った。
「なんだ、普通に食べられるんやん」
「まあね」笑顔で、箸を行き来させる。
「父さんは父さんで、大丈夫かな」
「父さんは今、台風に見舞われとるね」
「そうなん?」
「そうよ。中学校のときの、お礼参り。部屋にうずくまって、窓の外の荒れ狂う景色を見とうよ。歯を食いしばって、涙流しながら」
「それ、大丈夫?」
「どう思う?」

「ただいま」夜になったら後輩は、紙袋を提げて玄関に立っていた。その後ろでドアが閉まった。
「おかえり」
「待っててくれたんですねえ。意外です」
「いや、普通に帰ろうとしたけど、帰れなかった」
「でしょうねえ」
「電気明るいな、この部屋」
「調節します?」

「プラネタリウムします?」
「えーいいよ」
「なんでですか」
「なんで怒ってんの」
「せっかく今日届いたばっかだからやりたいんですよ」
「好きにしたら。お前の家だし」
「もう二人の家ですよ。先輩の意思もいります」
「じゃあ、やろう」
「イエっす!」
 スイッチを押すと、映しだされた。
「うわあ……
 なんか亡霊の顔みたいに見えますね」
「ピントずれてんじゃねえ?」

 次に後輩の手が紙袋から、ピンクのリボンで巻かれた茶色いハート型の箱を取り出して、机に置いた。開けて、チョコレートを取り出し、白い皿の上に乗せ、ステーキみたいにナイフとフォークで切り分けて食べた。

「小さな女の子と年食った男を結婚させるとこがあるじゃないですか、世界には。逆に、小さな男の子と大人の女が結婚することがあっても、いいと思うんですよね」
「俺は小さな男の子ではない」
「まあ、実際やったらおそらく犯罪ですから、見立てということで。しかし、外見だけですよ、先輩が子供になれないのは。その他はいまからでも子供にできます。任せてください。だからわたしたちに子供はいらいないんです」
「子供っていうのは、過去に失われたものだ」
「過去なんてものは、忘れましょう。歩いていく先で、子供になっていくんです」
 先輩は、自分が人生において何がしたかったのかも、思い出せなくなってきていた。それがあるはずの場所は空いていて、そこにするっと、「将来の夢」という白昼夢みたいなものがやってきて収まった。
「どうだった、説明会?」
「面接決まりました」
「はあ?なんで」
「なんか、やたらガタイのいいモヒカンのオッサンに好かれて」
「なんかそれヤバイ事務所とかじゃねえの」
「ここです」白紙の上に描かれた地図を指さした。「来週ここで面接受けるんですよ。ちかくに池とかあるし一緒に行きません? 釣りでもしながら待っててくださいよ」

「先輩。あそこの家のご婦人を、ナンパしてきてくださいよ」
「なぜ」
「その方が面白いじゃないですか。宇宙が」
 山や丘のたくさんある田舎へ来ていた。曲がりながらのぼっている坂の途中にそって、その民家はあった。小雨が振っているようないないような天気で、物寂しそうな、うっすらと青白い空だった。その空に似た人間がどこかにいることを思った。民家は小さくて、びっしりと蔦に埋もれていた。すりガラスの玄関は真っ暗で、人の生きている気配がなかった。
 後輩に背中を押されて入っていくと、薄暗い部屋の木の床に、ひからびた青白い死体が、エプロン一枚で仰向けに寝ていた。エプロンは白く、赤い花が真ん中に刺繍されてあった。
 外へ出て、救急車を呼ぼうとしたけど電話がつながらなかった。道を歩いてきた老人に事情を話した。最初、老人とはまともに話ができなかった。長い時間をかけてようやく伝わると、他の人々、最初の老人と同じように表情のない、奇妙にゆったりとした人々がぞろぞろ集まってきて、死体を運び出して、その夜、焼いた。
「法律違反じゃねえ?」
「いいんですよ法律とか、人の燃える火はこんなに綺麗なんですねえ。普通は見せてもらえない。いい思い出ができました」並んで木箱に座っている二人は大きく立ち上る炎を眺めていた。置かせた先輩の手を後輩が上から覆って、つかまえて、にったりと笑っている顔の、ほとんど黒目だけになった瞳を炎が黄色く横一文字に裂いていた。
「先輩の夢は、宇宙飛行士でしたよね。みんなで将来の夢を、校内放送で発表させられて。先輩の声は誰よりも低くしゃがれてひび割れて、将来は三匹のやぎのがらがらどんになるんだと思いました。窓の外ではひやっとする風が若々しい緑の木の葉を乗せていきました。わたしは思わずスピーカーを見上げたんです。こんな声の人間が宇宙飛行士になれるわけねえやいと思いました。仮になれたとしても、服は白じゃなくて真っ黒で、宇宙に溶けこんでしまうでしょう」
 先輩は顔色が悪くなって、口を手で抑えている。夜だから、顔色が悪いのはあまりわからない。
 後輩の手が先輩の頬を両側から挟み、自分の方へ向けさせた。「はああ」と言った。
「お前の夢は」
「花屋さん、だったけど、あの日先輩の声を聞いてから、この人のはらわたを拳でぶち破ること、に変わりました」
「それは、悪かったな」
「本当ですよ。わたしがお薬の愛用者になったのも、全部先輩のせいですから」
「でも、夢は叶いそうなんじゃねえの」
「他人事のように」 
 真っ白なウェディングドレスも、炎のなかで燃えていた。というか、さっきからごうごうと炎を立てているのはそれだった。死体はとっくの昔になくなっていて、人々は、ジョウロで火炎へ水を注いでいたけど、効果はなかった。本気で火を消すつもりもないらしかった。炎のなかに透けて見える薄べったいワンピースのようなドレスから、頭上の星空へ、やがて人々は目を移した。
「はい? ああもしもし? なんですか。人がせっかく恋人と特別な時間を過ごしているのに。……ああそうですよ。それが何か。……違いますって。失礼な。あなたのコックピットなみの小さい脳みそで物事を決めつけないでくださる? だいたいわたしの弟は死んだんですよ。自動車に轢かれてね。もうぺしゃんこ。内臓とか血とか一ミリも出てなかったけど。体にはタイヤの跡が残ってた。わたしは目の前で合掌しましたよ。そうしろとしつけられていたからね。葬式でのわたしはたいしたものだったですよ。どこへやっても恥ずかしくない。自信を持てと祖母にも肩を叩かれていました。しかし、しかしだ。肝心の本番とも言える弟の葬式で、わたしがいつもどおり完璧な合掌をすると、あの子ちょっとおかしいんじゃないのという感じで囁かれるんですよ! こんなの聞いてない! わたしはふてくされて、部屋にこもってゲームを始めました。あの紫色のたなびきたる線香の煙、思い出すだに腹立たしい!」電話を切った。
「……上司?」
「モヒ課長です」
「ああ。ほんと、気に入られてるな」
「優秀だからね、仕方ないね」
「弟とかいないだろ?」
「いましたよ。先輩、わたしのすべてを知ってるとか勘違いしないでくださいね。してもいいけど。弟は隠していたんです。家族みんなで。良い意味で隠したかったんです。汚れた俗世に曝す気はなかった。それがどうだ、やはり出したら即座に轢かれやがって。ピエロの赤い風船なんかにのこのこつられて。わたしと一緒に散々おこなった外へ出るためのお庭での訓練、あれは何だったんだ、あの散々は。轢かれたら手を放して、空へ吸いこまれていく風船を見送るのもわたしの役目だった。何だあれは。地球の重力、しっかりしろ。そばでピエロに、クックと笑われていた。悔しかったけど、ピエロに直接楯突いたら殺されるから、他の人の助けを借りるしかしようがなかった」口から泡を飛ばしていた。
「酔ってる?」
「酔ってねえ!」
「お前はたぶん、言葉と感情で酔うんだよ」

 男子は枝でピエロを刺し殺した。女子は男子の背中から見ていた。ピエロは草の上に倒れて、笑顔のまま、口から真っ赤な血を流していた。地面と垂直になっているピエロの視線をのぼり棒として、その周りで踊るように蝶が回って登っていく。男子はずんずん近づいていってその蝶をわしづかみ、女子の方へ持って行った。女子はもう両手で受け皿を用意していた。その上で男子が手を開くと、蝶の破片が掌にあふれた。女子はそれを口へ持っていって、手に張りついてとれなかったら舐めとった。それでも完全にはとれなくて、掌や口の周りに、蝶の破片は付いたままだった。女子は嬉しそうににっこり笑った。男子の手を握って歩きだした。感触が気持ち悪いと男子は思った。けれど家の事情で男子は女子に逆らえなかった。
 男子を連れてきて、女子が指さしたのは一つの大きな岩だった。上に子供が十人くらいはのぼれそうな岩だ。
「今度これ神社に置かれるんやけどね。あげる」
「いらん」
「なぐるよ岩で」
「いらん」
「じゃあ何がいるん」
「ゲーム」
「ゲームはわたしのもんやし」
「じゃあやらせて」
「いいよ」準備万端だったというように女子は服を脱いだ。
「は?」
「やるんやろ」
「ゲームやりたい」
 裸をしまった。着ている服は黄色くて、白い花が咲いていた。「女に恥をかかせたな」
「あ?」
「お前は恥も知らんのか」
 男子は女子から恥というものを学んだ。ひとつ大人になり、夕暮れになった。
 なんだか町に全然人がいなくなっていた。いつからそうなったか覚えてない。

 中古車屋の庭で、中学生たちが車にもたれかかりだべっていた。制服は灰色で、鉛のように輝いている。輝かせているのは太陽のはずだけど、上に見えているそれは、制服をコーティングしている細かい針のような芝の輝きとは切り離されて見えた。宗教的な球体をした白い太陽は、球体だけど立体ではなく、画に描かれた平面上の球だった。横から見たらどうなるのかと回りこもうとした先輩の袖を後輩が引き留めた。振り向いて見ると後輩はまっすぐ中学生たちのいる前方を見据えて、むずかしい顔だった。
「……どうした? こういうとき止めるのは俺の方だろ。お前悪ノリ大好きじゃん」
「これは倫理ではなく恋としての行かないでですよ。横から見上げたら太陽の陰になっている斜め下のお腹のところに黒点がひとつあるでしょう。見上げたときにそれは存在する。先輩はその点に何か特別な性的魅力を覚えて、食卓でもたびたび口にするようになります。わたしの手作り料理ではなく。自分の視線が点となってあの太陽に落ちたのだとか言って。ほんとは老廃物でできたただの黒いシミなのに」
「それを言うと乳首とかもただの黒い突起だし、ただので言えちゃわないものなんてないよな。
 あと、お前はもう料理するの諦めただろ。最初のニ、三回くらい、作るだけですごい消耗して。それからは俺がやってんじゃん」
「ええいよろしい! 細かいことは!」虫がいるかのように宙を手で払った。「とにかく、凝視していてください。あの子ら、いまに宇宙人に化けますよ」
「人間に化けてるんじゃなく?」
 中学生たちは、どばっと溶けた黄色いバターになった。
「…………」
 風が吹き流れる。
「……あのさ、俺。たぶん最近お前と同じものが見えてると思うんだけど、幻覚見てるんだよな?」
「前に言ったじゃないですか。これが世界の真実の姿なんですよ。
 さあ次は小学校ですね」

 涼しい風が渡り廊下を断つように、垂直に前から吹いてきて、絵を描いている男子の頭にぶつかり、その前髪をかき分けながら自分も二つに分かれてそのまま後ろの、広く、何もない、茫漠とした町の上の白い、何の取っ掛かりもない空間へ、溶けていった。
 風のせいで、男子の大きな四角い額はむき出しになっていた。それなりに脂ぎっている。この男子はハゲているのだろうか? それともまだ、これから生えてくるのだろうか? 小学生用の育毛剤は見たことがない。
向こうの、渡り廊下の入り口、そこは四角くて黒い空間で、男子トイレがある。荒廃した薄水色の男子トイレには、茶色い丸椅子を置いて、その上にボクサーのように座っている男子がいる。
 それとは別に、いま、その渡り廊下の入り口から、女子が一人出てきた。薄紫と白のギンガムチェックのワンピースで、腰のところでキュッと締まっているから、人形みたいだ。上に白い毛糸のカーディガンを羽織っていて、こっちに手を振る。
 男子は無視をして、絵を描くのに戻った。いま手に握られているのは赤だった。描かれている絵は、色がとても薄くて、描いたと言うよりこすったみたいだった。先生からは、学校のなかの好きなところへ行って、そこから見える景色を描きなさいと言われている。男子のスケッチブックの上には、緑と青と黄色と赤の、クレヨンが上下に移動した色の塊だけがあった。どうしてそんなことになってしまったのかわからない。
 女子が隣にやってきて座って、自分のスケッチブックを見せた。鉛筆で、カエルの置物が描かれていた。これは白い薬局の前に置いてあるもので、小学生と同じくらいの体長があった。学校にはないはずなので、女子はルール違反をしているけど、とても上手なので褒められるだろうと思い、男子はその絵の上へ精確に唾を吐いた。
「あっ」と女子が言って、指で唾液を取って、口に含んだ。「鉛筆の味」
また前から、さっきよりいくぶん険しい風が吹いた。
 トイレにいる男子は、前方の、ドアが開け放たれてなお薄暗い個室に座っている何かを、にらみつけて対話していた。
 その何かはうつむいていて、人型の裸で、頭に一本も髪がなく、他のどこにもたぶん毛は生えていなかったけど、閉じた足と屈んだ腹のあいだのいちばん奥まって暗いところ、股間、だけには毛が生えているのか、ひときわ濃い陰なのか、見極めようとして男子は目つきが悪くなっていた。
 学校のなかであればどこで描いてもよかったから、いろんなところに生徒がいた。ある男子は、なんだかよくわからない四角い箱型の建物の裏に、小さいがらくた置き場を持っていた。日陰になっているそこへ、常人ならかき消されそうな日なたを歩いてきた先ほどの女子が入ってきて、「それ描かして」と指さした。地べたにあぐらをかいていた男子が振り向くと、他のゴミに絡まれて、斜めに倒れた格好で宙に浮いているカエルの置物があった。女子は千円札一枚を出して頼んだ。男子は仕方なく立ち上がりズボンの砂をはたいてカエルを引っぱり出して地面に立てた。男子はがらくたの小山を絵に描くつもりだったけど、カエルを引き抜いたことで山は崩れて運河になってしまい、女子がカエルを描いているあいだ自分は何もできなかったから、劣等生は確実だった。まあいいかと上の校舎の黒い窓を見上げて頭をかきながら思った。どうせ自分は中学も高校も、なんだか外れて古いレコードなどを聴いていて、大人になったらなったでスーツを着てへこへこ体を折り、頭を下げて謝っているだろう。
「体を折るのと頭下げるのっておんなじことやな」
「ん? ……んん~ん でも、頭だけ下げるのはできるでしょ? それに、体折っても、もの拾うだけとかだったら、あんまり頭下げてる感じしなくない?」
「うん、まあ……」
 この女子が喋るのを聞いていると、耳がくすぐったかった。転校生ではないけど、一家そのものが転校生みたいなものらしかった。母親はモデルみたいな美人で、授業参観のときは、他の母親とは別の生物みたいに浮いていた。体育の時間、この女子は一人だけ、パンツみたいな形の体操服を履いてきていた。変態なのかと囁かれていた。そのうち普通のになった。
 女子がいなくなると、改めてカエルと、がらくたの運河を見て、さてこれからどうやって描くための風景をセッティングしようかと、腰に手を当てて考えていたとき、今度は見知らぬ大人の男女がやってきて、「そこの少年」と言った。女の方が。
「放送室ってどっちだっけ?」
「え? あっちやけど」指さして、「職員室で訊いたら?」
「やわたしら侵入者だからね、先生はアウト」
「警備員に捕まらんかったん」
「秘密の抜け道知ってるから。ここの卒業生なんだぜ」
「ふーん」
「じゃあ行ってきますね先輩」
「はいはい」
 女が走り去ると男は男子を見て、「すまんね」と言った。
「……お兄さん、絵描いてくれる?」
「え?俺下手だよ」
「その方がいい。おれも下手だから」
「ふーん。まあいいけど」男はしゃがんで描きはじめた。カエルは立ったまま、その奥ではがらくたが雪崩れている。
 それら一連の姿を、後ろに立った男子が見ていた。自分のよく知った景色が崩れて、他人の目がそれを見て、他人の手が描いたらどうなるのか、興味はあった。
 しばらく平和な時間がまどろんでごろごろしていた。
突如そこらじゅうをぶち壊すような音が鳴りはじめた。音は少しこもっていて、学校の内側から起こっているということだった。中から聞いていたら死んでいただろう。先生ありがとう。初めそれは、何か音を使った兵器でテロが行われているのだろうと思っていたけど、しばらく聞いていて、ようやく人間のがらがら声で、しかも歌だとわかった。
「……さっきのお姉さん?」
「そうだよ」男の紺色の背中は眉ひとつ動かさず描き続けている。
「ひどい声やね」
「はは。あいつは何やってもああなんだよ」
「なんで止められんのやろ」
「バリケード作ってんだよ」
「バリケード?」
 男は説明した。
「あいつ中学んときもやってたからな。放送室占拠して強制ライブ。慣れたもんだよ」
「歌手になりたかったん?」
「いいや。なんか抑えきれない衝動があったんだろうな」
「なんそれ」
「俺も知らん」
歌なので一応リズムを持っている。それに合わせて校舎が内側からどむどむ膨れて、そのうちはち切れて赤い破片と粒になった子供たちが宙へ飛び出す。
「心臓は鼓動しすぎて自分で破裂することってあるん?」
「さあ。めっちゃ怖いときとか、告白するときとかは、そうなるかもな」
 歌はしばらく続いた。ふいにぴたりとやんだ。とても静寂になった。後輩は泣きながら教師たちに謝っていたけど、その声は男子と男には聞こえていなかった。
「よしできた。時間ぴったしだな。ほい」
「お、本当に下手やね。ありがと」
「ははは。期待に応えられてよかった」
 男は一度男子の頭にポンと手を置いてから、日なたのなかへ走り去った。やがて女が泣きながら、せんぱあああい、と叫びながら同じ方へ走っていった。教師たちも何人か後からやってきたけど、なぜかとても息が切れていて、男子の見ている前で整えていた。だから男子は、男と女の行った方を見送った。なんかわからんけど楽しそうやったなと思った。

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