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最近読んだ本7冊(「文明論之概略」など)

今回も、最近読んだ本についてまとめたいと思う。


政治的なものの概念(カール・シュミット著、権左武志訳:岩波文庫)

ナチス・ドイツの御用学者として活動していたという経歴を持つ、カール・シュミットによる本。
タイトルにある「政治的なものの概念」が指し示す通り、政治的なもの=すなわち敵と味方に分類できることと定義したのが本書であるが、本の内容はかなり難しかった。

韓国・朝鮮系中国人=朝鮮族(韓景旭著:中国書店)

この本を読み始めた時、まず「中国書店」という出版社の名前が目に入った。福岡市博多区にある出版社らしい。
書名をネットで検索してみると、紀伊国屋書店ウェブストアなどいくつかのサイトはヒットするが、レビューの類はほとんど目につかない。
かなりマイナーな本のようだ。

中国東北部に住む、「朝鮮族」と呼ばれる民族にフォーカスしたこの本は、以前から朝鮮半島方面に興味のある私にとって、非常に面白い一冊だった。
著書の韓景旭氏は中国東北部生まれで、おそらく朝鮮族の方だろう。
自身のフィールドワークをもとに、「中国人」であり、かつ「朝鮮」というルーツも併せ持っている朝鮮族の内面を深く掘り下げている。

特に印象に残ったのは、本の中で出てくる朝鮮族の方だけでなく、著者の韓景旭氏も含めて、自分のルーツであるところの韓国に対して、それほど良いイメージを持っていないことである。

いや、初めからイメージが悪かったわけではない。
韓国の人々と交流するようになり、自分たちが抱いていた「幻想」のようなものが崩れ去ったというべきだろうか。

私自身も、勝手に良いイメージを抱いていた北海道に移住したは良いが、道民の「リアル」を目の当たりにするにつれ、北海道に対して抱いていた幻想は、一気に失われた。
中国で生まれ育ち、経済的理由で韓国などに出稼ぎに行き、そこで初めて韓国の「リアル」に直面した彼らの気持ちが、ほんの少しだけだが分かるような気がした。

新装版 新訳 共産党宣言(カール・ハインリヒ・マルクス著、的場昭弘訳:作品社)

共産主義と言えば、とりあえず「共産党宣言」は外せないだろうということで、興味本位で読んでみることにした。
この本の特徴として、解説が非常に充実していることが挙げられる。
当時の世の中のことを全く知らない自分が、ただ「共産党宣言」だけを読んだとしても、おそらく内容はほとんど理解できないまま終わったことだろう。
当時の社会主義・共産主義をとりまく状況を細かく解説したばかりでなく、「資料編」と題して「共産党宣言」と同時期に著された関連資料も紹介されており、世界史に無学な私でも理解がしやすい内容となっていた。

文明論之概略(福沢諭吉著、松沢弘陽校注:岩波文庫)

学問のすゝめ」と並ぶ、福沢諭吉の代表的な著作。
文明とは何かというテーマに対して、福沢が自分の考えを論理的に構築していく内容となっているが、やはり明治時代の日本語であるため、現代人が読むのはやや大変だ。
世の中には、「学校教育に古文は必要ない」と言う人がいるが、もし私に古文の知識がなければ、この本を読むことはかなり難しかっただろう。

全編を通して特に印象に残ったのは、「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」と述べていたあたりだろうか。
これはアジアの国としての宿命なのかもしれないが、日本と言う国の状況は今でも当時とあまり変わらないのではないかと思う。

監視カメラと閉鎖する共同体:敵対性と排除の社会学(朝田佳尚著:慶應義塾大学出版会)

タイトルに惹かれて読んでみた本。
「監視カメラ」そして「共同体」というタイトルから想起されるのは、かの有名な社会学者の宮台真司氏がよく言っている「新住民化問題」だった。

つまり、街に「新住民」が流れ込んできたことで共同体が崩壊してしまったため、監視カメラが街を監視する手段として使われるようになったという感じである。
上記のような内容を想像していたが、実際はかなり違った。

監視社会論における先行研究と、著者による監視カメラを設置した商店会への調査を通じた分析によって、監視カメラが「閉じた」共同体を作っていると結論付けている。
正直に言って社会学に疎い自分には難しい内容であったのだが、実際は監視カメラが犯罪抑止にそこまで役立っていないのにもかかわらず、それが積極的に正当化される論理についての説明は、確かにその通りだと思った。

北朝鮮と観光(礒﨑敦仁著:毎日新聞出版)

著者の礒﨑敦仁先生は、北朝鮮研究者として知られ、度々メディアにも出演されている。
研究や仕事で何度も北朝鮮を訪れている著者による、北朝鮮観光に関する情報をまとめた本。

日本人の視点から北朝鮮を見ると、「旅行なんてとんでもない!」という感想が出てくることだろうが、実際は北朝鮮に旅行に行く日本人は僅かではあるが存在する。
ツアーを企画する旅行会社や、日本語の分かるガイドもおり、国交のない国とはいえ、日本人旅行者をしっかり受け入れていることは確かだ。

しかしながら、過去には日本人記者や旅行者が北朝鮮当局に拘束された事例があるほか、某大学の日本人学生が北朝鮮のホテルで泥酔し、物品を破壊するという騒動も起きている。

日朝関係が硬直している以上、日本から北朝鮮に旅行に行くリスクは少なくないが、魅力のある部分もあることを教えてくれている内容になっている。

本書の「おわりに」では、JTB(当時は日本交通公社)や近畿日本ツーリストが、かつて企画していた北朝鮮ツアーに関するパンフレットの掲載を許可してくれなかったことが吐露されている。
おそらく、自分たちの企業が北朝鮮旅行ツアーをやっていたというある種の「黒歴史」を隠したいという意図があったのだろうと思った。

国の死に方(片山杜秀著:新潮新書)

前回に引き続き、今回も片山杜秀先生の本を読んだ。
この本は「新潮45」に掲載された内容から構成されているため、比較的読みやすい内容にはなっている。
歴史の中で国は、何度か「死」を迎えており、その死が何によってもたらされたかを詳細に解説している。
具体的には、第一章で鎌倉、室町幕府の特徴である、「低きに流れる」権力の特徴を解説した後、第二章では敢えて組織構造を破壊することで責任の所在をぼやかそうとするナチス・ドイツのヒトラーのやり方を紹介する。

第三、四章では、権力構造を分散させ、特定の組織や人物に権力が偏重しないよう作られた明治政府の仕組みが、太平洋戦争における誰も責任を取らない体制(これが敗戦という国の死をもたらした)を作り上げたことを解説している。
第五章では、ロシア革命からソビエト崩壊までのロシアの歴史を振り返りつつ、当時のロシアにおける権力構造について概観している。
第六章では、欧州で社会主義が台頭していることをいち早く察知した日本人数学者が、日本で社会主義が力を持たないためには救貧装置としての保険が必要であることを訴えていたことを紹介している。

第七章では、関東大震災とそれに伴う朝鮮人虐殺(国による統治が機能しなくなったという意味での国の死)が、「地震による火災は保険の適用外」とした当時の火災保険制度によって引き起こされたという考察をしている。
第八章では、関東大震災の被災者を救済するために保険各社が国を巻き込んだ動きを展開したことや、太平洋戦争時における空襲保険について説明している。
第九章では、普通選挙制が導入された最初の選挙を取り上げ、有権者を金で買収する政治家、政治的教養のない大衆の問題が論じられる。
第十、十一章では、226事件と農村との関わりを、「農本主義」思想を取り上げながら論じ、植民地における農業を推進した結果、東北地方における農村民が大きな損失を被ったことを紹介している。

第十二章では、農民の恨みを買った政治家が次々と政治テロに遭ったこと、世界恐慌を契機としてグローバリズムからブロック経済に転換し、それが最終的には「大東亜共栄圏」構想と対米戦争につながったと論じている。

第十三章では、日本映画を代表する名作「ゴジラ」(1954)を取り上げ、ゴジラとは災害や原水爆など、あらゆる脅威を兼ね備えた存在であること、そして映画で国家中枢がほとんど描かれていないのは、政治が頼りになっていなかった上映当時の状況を示している、またゴジラの動きを封じるには「生贄」が必要であるが、戦後日本では生贄になる者を選ぶことはできず、自発的意思に任せるほかないことを論じている。

最後の第十四章では、太平洋戦争の敗戦を経た現在においても「国体」は維持されているのかを論じ、「国体」とは国民に犠牲を強いるための機能も有していたという結論を導く。

最後に、2011年に起きた福島第一原発事故は、「生贄」になろうとする人のいなかった映画「ゴジラ」の世界と通じるところがあるとの考えを述べつつ、無責任な政治と、国中を原発で覆い尽くした政界・財界が、国を死なせたがっているのではという示唆的な含みを残しつつ、幕を閉じる。

200ページ程度の短い本であるが、非常に内容の充実した面白い本だった。
ちなみに、「歴史」の講義で片山杜秀先生は、2016年の映画「シン・ゴジラ」が、福島第一原発事故を示唆していることを説明していた。
おそらく2016年以降の先生の著書の中には、シン・ゴジラに言及したものもあるのではないだろうか。

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