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北海道に関する本を読んだ感想を書く

最近、少し暇を持て余すことがあり、札幌市の図書館で本を借りて読むことが増えた。
今回は、その中から私が読んだ本を一冊ご紹介したいと思う。
その本は、北海道新聞社から出ている「北の無人駅から」と言う本だ。

タイトルだけを見ると、北海道の無人駅をただ紹介するような、鉄道ファン向けの本のように思われる。
しかし、実際は無人駅そのものよりも、駅が立地する地域や、そこで生きる人々にフォーカスされた本になっている。
著者の渡辺一史氏は数年以上にわたって現地で取材を続け、表面的な明るさだけでなく、地域が抱える課題や、人々の間に生じる軋轢といった話題にまで踏み込んでいる。
旅行ガイドブックなどでは描かれることのない面白さがそこにはあった。

また、この本の特徴として、脚注が非常に充実しているという点が挙げられる。
私が先月書いた「個人的北海道10大ニュース」でも、試験的に脚注もどきを書いていたのだが、この本と見比べるとその差は歴然で、私の脚注は大変中途半端でお粗末な内容になっていると感じた。

これは2012年に発刊された本であり、既に10年以上が経っているので、書かれている内容が現在の状況とは異なっている部分がある。
特に、本書で紹介されている複数の無人駅が、現在既に廃止されてしまっているのが一番大きな変化なのだが、これについては後述する。


第1章:小幌駅

北海道豊浦町に位置している、JR室蘭本線の小幌駅は、「日本一の秘境駅」として知られる。
かつては一部の駅マニアにしか知られていなかった当駅も、現在はYouTubeやブログなどの影響で、鉄道ファンであれば誰もが知る存在になった。

豊浦町も駅を活用した町おこしに取り組んでおり、「秘境駅」であるのにもかかわらず、現在は観光客がひっきりなしに訪れるスポットになった。
そんな小幌駅を取り上げた第1章では、かつて小幌の駅周辺に住んでいた人々にフォーカスが当てられている。

小幌駅に住んでいた人というと、インターネットでは「小幌仙人」という人が有名だが、この本では仙人については全く触れられておらず、
はるか昔、小幌駅の周辺に漁師の集落が形成されていた頃の話をしている。

特に、酒に酔った末に列車に轢かれ、両足を失ってしまった漁師の話に紙面が割かれている。
その漁師は、両足を失っているのにもかかわらず、自ら漁に出かけたり、列車に乗って街に出かけたりと、まるで伝説上の人物かのような逸話がいくつも存在する。

私は小幌駅についてはもちろん知っていて、駅の周辺環境についても理解していたが、まさかこの駅周辺に住んでいる人がいたとは知らなかった。

第2章:茅沼駅

道東の標茶町にある、釧網本線の茅沼(かやぬま)駅は、タンチョウが訪れる駅として知られる。
本章では、タンチョウに給餌をしているある男性の話から始まり、人間と野生動物との間にある大きな矛盾を説いている。

タンチョウに給餌をするようになった男性(田中さんという)は、地元出身ではなく道外からやってきた方だ。
地元の人々は、始めはタンチョウ保護に無関心だったのにもかかわらず、ひとたび人気に火が付くと、これを利用しようと人工的な給餌場を作ろうと提案する。
これに田中さんは猛反対し、最終的には阻止されたのだが、地元の自然や動物のことを一番知っているはずの地元住民が、目先のことだけに囚われている様を浮き彫りにしている。

一方で、表面的なことしか知らない観光客が、給餌をするようになったからタンチョウが堕落した、と間違った理解をして田中さんを攻撃するなど、観光客の無理解といった問題も描いている。

自然の在り方を、自然の中にある生物の一種でしかない人間が既定するべきなのか。人間というのは本当に都合の良い生き物だなと考えさせられる。

第3章:新十津川駅

新十津川町にある、札沼線の終着駅「新十津川駅」は、かつて「日本で一番終電が早い駅」として知られていた。

2020年5月に札沼線の末端区間が廃止となり、それと同時にこの駅も廃止となった。現在は駅舎も壊され、僅かな遺構だけが残る。

第3章では、新十津川駅や札沼線の話題は最初にさらっと紹介するだけで終わり、後は新十津川町における米作りや、新十津川のルーツである奈良県十津川村との関わりを描いている。

YouTubeに投稿されている、「新十津川町開町130周年記念映像」を見てもわかるように、新十津川町は米作りが盛んな地域だ。

奈良県十津川村から北海道にやってきた開拓使の子孫で、現在は新十津川町で農業を営んでいる男性や、地元のJA(農協)との取材を通じて、北海道における農業に関わる問題を取り上げている。

例えば、政府による農業政策が、完全な「農村票集めの材料」と化してしまっており、選挙に勝利するために都合よく利用されていること、
北海道の農家と、本州の農家との違い、JAが地元農家を支配していることと、農家がJAから独立して自分で事業を営む大変さなど。

私の地元も農業が盛んな地域で、都会出身の人と比べれば米作りと関わりが深いと思っていたが、そんな私でも知らないことだらけだった。

後半では、取材している農家の男性が、自分のルーツである奈良県十津川村に訪れ、十津川村に残る家族と交流をする場面もある。

新十津川町は、町名からも分かる通り、水害で被災した十津川村から半ば避難する形で、北海道に移り住んだ人々が開拓した町である。
現在では、十津川村にルーツがある町民は全体の1割程度に過ぎないが、十津川村と新十津川町との交流は今でも継続している。

自分のルーツを追い求めるというロマンのある旅。
私もいつか、似たようなことをやってみたいなと思わされた。

第4章:北浜駅

網走市に位置する、釧網本線の北浜駅は、オホーツク海が目の前に広がる駅として知られる。
私もその駅の存在を当然ながら知っていたが、正直言うと、国鉄末期にオホーツク海側のローカル線が大量に廃止された結果、残った釧網本線をいまさら有難がっているだけで、北浜駅も同じようなものだと考えていた。

つまり、ローカル線が充実していた国鉄時代には、北浜駅は単なる駅の1つでしかなく、旅行者や鉄道ファンの興味を惹くような駅ではないと思っていた。

しかし、本章によれば、北浜駅は国鉄時代から旅行者に人気の駅だったようだ。国鉄の赤字を少しでも減らすための増収策の一環として、近くで取れた貝殻を「通行証」として販売するようになり、それが話題を呼んで観光客が訪れるようになったらしい。
また、北浜駅は冬のシーズンになると、駅からオホーツク海に接岸する流氷が見られる駅でもあるのだが、本章では流氷が観光資源に発展した経緯についても取り上げている。

今でこそ、冬に流氷を目当てにオホーツクエリアに旅行することは普通のことになっているが、昔は北海道の冬は、全くのオフシーズンであったという。
地元住民からすれば、冬の北海道は百害あって一利なし、寒々しい景色をもたらす流氷は迷惑な存在だった。
それが観光資源になったのは、ここ30~40年くらいの話のようだ。
住民からは見向きもされない存在が、観光資源になった例は他にもあるという。例えば、富良野・美瑛の景色もその1つ。
地元の農家からすれば普通の景色でも、外の人からすれば、それは絶景であった。
このように、外の人から「発見」されず、未だ眠っている観光資源というものが全国各地にあることを示唆している。

また、「ユースホステル」という宿泊施設が、かつて北海道を旅した「カニ族」と呼ばれる若者たちにとって、如何に意味のある施設であったかについても、本章で紹介されている。

周遊券とユースホステルを上手く活用し、北海道中を旅してまわった当時の若者たち。
彼らはバブル期も経験し、現在も社会保障を難なく享受できている世代だ。

生まれた瞬間から不景気で、ローカル線や周遊券は廃止され、社会保障の行く末も見えないという私の世代からすると、かなり恵まれていた時代だなと感じる。

第5章:増毛駅

かつて留萌本線の終着駅であった増毛駅は、2016年に廃止された。
駅舎は現在でも残っている。私は昨年バスで当地を訪れたが、やはり可能であれば列車で行きたかった。

第5章では、増毛がニシン漁で栄えていた時代のことを取り上げている。
最盛期は道内外から労働者がやってきて、裁判所などの行政施設も増毛にあったという。
労働者を持て成すための遊郭もあったと言われ、現在の寂れようからは想像もつかない繁栄ぶりだったのだと思われる。

そんな増毛の人々から滲み出ているのは、隣町の留萌市への対抗意識だ。
増毛町は現在「留萌振興局」に含まれる。
振興局の名前から分かる通り、この周辺の地域を統率しているのは、増毛町ではなく、紛れもなく留萌市である。
人口も増毛町は3600人、留萌市は18000人で、5倍近くの差がある。

留萌市が増毛町よりも勝っているのは、もはや誰の目にも明らかなことだが、増毛町の人々は過去の栄光を意識してか、現在でも強い対抗意識を持っていることが描かれている。

これと同じようなことは、小樽や函館などでも見られる。
どちらも道内では歴史のある地域として知られるが、現在では衰退の一途を辿っている一方で、札幌への対抗意識が比較的強い地域でもある。

傍から見れば馬鹿らしく見えてしまうことだが、地元の人からすれば本気で考えていることなのだろうし、それだけ過去の栄光が持つパワーは大きいのだなと思う。

第6章:増毛町雄冬

増毛町と浜益村(現在は石狩市浜益区)の境界に、雄冬(おふゆ)という集落がある。この雄冬は、平成に入るまでまともな道路が通っておらず、船でしかアクセスできなかったという、まさに陸の孤島だった地域である。

そんな雄冬を取材した第6章は、以前北海道のとある図書館で読んだことがあった。
その時に印象に残っているのは、著者の方が雄冬の集落にある民宿に電話を入れた際の、余りにも愛想の悪い民宿側の対応であった。

だからこそ、この章をもう一度読むのは、いささか憂鬱だった。
読み進めてみると、やはり愛想の悪い民宿が登場した。
民宿の名前は書かれていないが、現在も営業しているかが気になった。
それから2件ほど電話をかけ、何とか泊めてくれる宿が見つかる。
民宿で数日間滞在し、雄冬での現地取材が行われたが、現地の人々に雄冬のことについて話を聞こうとしても、なかなか答えてくれる人がいない。

この本は人の表情や喋り方などが詳細に書かれていて、まるで自分が会話の中に加わっているような錯覚を覚えさせる。
私が北海道に住んでいるせいか、書かれている方言さえも脳内再生される。
そのため、本文中に出てくる愛想の悪い人の会話を読んでいると、次第に気分が悪くなってくる。
田舎特有のことではあるが、ここまで閉鎖的だと、取材も大変だろうなと思う。

そもそも、優しい民宿の方が取り合ってくれたからこそ取材ができたわけで、もしそんな宿が見つからなければ、雄冬がフォーカスされることもなかったのだろう。
と考えると、世の中には全く人々に知られていない閉鎖的な集落、いわば日本版「北センチネル島」のような場所もあるかもしれないなと思う。

また後半では、雄冬の人々が、余所から定住してきた人を「旅の人」と呼んで区別しているという排他性についても触れられている。
こちらにやってきて暫く経っても、「旅の人」は「旅の人」なのだという。

まるでインドのカースト制度や北朝鮮の「出身成分」のような徹底ぶりだ。
何らかの理由で余所から雄冬にやってきて、住んでいる人が本当に不憫でならない。

このような閉鎖的エピソードに富んだ雄冬の話を読んでいると、まるで「1984」の「二分間憎悪」のように、雄冬に行ったことも見たこともない自分が、雄冬に対して強いヘイトのような感情を抱いていることに気づく。
そんな自分や、それを引き起こさせる文章の力というものが、ある意味恐ろしく感じられた。

第7章:上白滝駅(上白滝信号所)

旧白滝村(現在は遠軽町)にあった上白滝駅(現在は信号所)を取り上げた第7章。
上白滝駅があった上白滝集落の栄枯盛衰に始まり、白滝村が遠軽町に吸収合併され、村が消滅するまでの様子を取材している。

特に、白滝村が遠軽町と合併する際の村内のいざこざが、まるで手に取るように詳しく描かれている。
村が合併賛成派と反対派に二分され、お互いがお互いの利権のために争う。
この章を読んで、正直「田舎って嫌だなあ」と思った。

インターネット上でよくみられる「田舎は陰湿」という言説は、単純な田舎叩き、田舎ヘイトでしかないと思っているが、
やはり集落全員が顔見知りという状況になってしまうと、それが裏目に出て都会ではないような激しい対立を引き起こしてしまうこともあるのだ。

そんな旧白滝村だが、私は1回も訪れたことがない。
白滝は現在も石北本線の特急列車や、高速バスでアクセスできる地域で、北海道の廃止された自治体の中では訪れやすい方だ。

しかし、中心部のJR白滝駅前を地図で調べてみても、飲食店はおろか、セイコーマートすらないような状況だったので、行くことはなかった。

北海道の「リアル」を学べる良書

今回ご紹介した「北の無人駅から」は、単なる鉄道趣味本ではなく、北海道のあちこちで生きる人々との取材から形作られた、北海道の「リアル」を伝える本だと思う。

著者の方も述べられている通り、北海道に書かれた本の多くは、北海道の自然や人を無条件に持ち上げるだけの内容が多い。
そんな印象操作やプロパガンダの類に騙されてしまう人は数知れないが、北海道の実態というものがそこまで甘くはないのは明らかだろう。

本書は無人駅を出発点として描くことで、魅力的な鉄道旅行という主題で読者を惹き付けつつ、徐々に北海道の持つ本当の姿を描き出している。

著者の方が取材に費やした期間は数年以上という。
北海道の持つ暗部やリアルをありありとした形で表現しようとした著者の情熱やモチベーションがそのまま伝わってくるような内容で、あっという間に読破することができた。

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