音楽を愛する人のための読書案内(4)――有栖川有栖『狩人の悪夢』


有栖川有栖『狩人の悪夢』(角川文庫)


柄谷行人は漱石の『彼岸過迄』を論じる際、主人公の敬太郎が探偵に憧れていることに注目する。そして『彼岸過迄』という作品自体の構造に、探偵的な面を指摘する。ひと言で表せばそれは「遡行」である。

同論の中で、柄谷はシャーロック・ホームズ・シリーズに代表される探偵小説が19世紀末に出現したことは重要だと述べる。なぜならそれはカール・マルクスによる経済学批判やジークムント・フロイトの精神分析と同時代のものだからである。そしてそれらはみな、現在から過去へと遡行する試みであると言うことができる。柄谷はこう言っている。

ホームズの推理は、決まってヴィクトリア朝のイギリスにおいて上品にすましかえった紳士たちの過去の犯罪(おもに海外植民地での)をあばきだすことに終わる。(中略)マルクスは自明視されたイギリスの資本制社会とその経済学を批判し、その歴史的「原罪」(資本の原始的蓄積)に遡り、さらに貨幣形態そのものの起源に遡行しようとしたし、フロイトは市民社会における意識の自明性を批判し、それをいわば隠蔽された「犯罪」(父殺し)にまで遡行しようとしたのである。(「作品解説『彼岸過迄』」)

重要なのは繰り返される「遡行」という言葉である。もちろんそれは「さかのぼる」行為を意味する。だがここでの含意は、記憶をたどり単に過去を思い出すということではない。そうではなくて現在を分析することで、過去を知ることを意味する。逆から言い換えれば、過去を現在から再構成されるものとして認識することである。

マルクスは未開社会の物々交換を観察したのではないし、フロイトは人体のどこかから無意識なるものを直接取り出したわけではない。言うまでもなくそのようなことは不可能である。彼らは現在目に見えているものを仔細に検討した。そしてそのことによって、現在を形作る原因としての過去へと辿り着いたのである。

さて、このような現在から過去へと遡る行為、すなわち探偵的行為は、演奏という行為を考える上で役に立つ。特に演奏者にとっては、このような態度は非常に参考になるように思われる。

クラシック音楽における演奏の目的は、しばしば作曲家の意図や感情の再現であるとされる。もちろん様々な美学的態度がありうるし、再考の余地は残る。だがいずれにせよ、そのようなドグマが実践にあっては根強くあることは否定し難いだろう。そのようなクラシック音楽の演奏に際して、その根拠として私たちに与えられるのは多くの場合楽譜のみである。作曲者が存命の場合、直接の指示もありうるが、そうであっても楽譜から演奏を立ち上げることには変わりない。

言うまでもないが、楽譜とは紙の上のインクに過ぎない(電子化された楽譜もあるが)。それは、あたりまえだが、作曲家本人の意志そのものではない。その記号の羅列から意味を読み込むためには、相当なリテラシーが必要とされる。そのために私たちは様々な資料にあたり、例えばその作品が作曲された時代特有の美学や演奏法などを調べる。

そのような調査の一環として、作曲家の伝記を調べるということもよく行われている。対象となる作品を生み出した時期の作曲家についてのあれこれを調べ、楽譜の読みに反映させようとする試みである。だが容易に想像がつくように、作曲家の伝記的事実を作品に読み込もうとしてもうまくいくことは少ない。それどころかそのような試みはかえって楽譜の読みを歪める恐れさえある。

音符は言語ではない。言語でさえ困難な意思の読み取りを、楽譜を通してそう簡単に行うことはできない。また、たとえ作曲家が楽曲についての解釈を述べていたとして、それが作曲した際の意志であることの保証はない。作曲家が自身の作品を事後的に解釈している可能性は、否定できない。加えてそのエピソードの提示が伝記作家によるものであった場合、伝記作家の記述の信憑性もまた評価する必要がある。それらを全てクリアしたとして、ではその意志なり感情なりを演奏で表すにはどうすればいいのか。

演奏における作品の解釈と伝記的事実(作曲家の意志・感情)とを対応させるためには、幾重もの困難が待ち構えている。もちろんその中には正当な根拠を持つものもあるだろう。しかし概して、正解にたどり着くことはそう多くないし、辿り着いた結論が正解との保証はない。そうであるならば、私たちにとって最善の方法は今目の前にあるもの、すなわち楽譜そのものを最大の拠り所として音楽を立ち上げることである。あくまで楽譜の表面にとどまること。そして同じ作曲家の作品や同時代や先行・後継作品を楽譜を読み込むこと。それらを総合して、そこから遡って作曲家像を見出すしかない。

これはまさに柄谷の述べていた遡行、すなわち探偵的行為にほかならない。探偵は殺人現場を徹底的に観察し、得られた事実から推理を重ね、犯行のあった過去へと遡る。表面から深層=真相へと向かう行為である。

とはいえ探偵は現場検証だけでなく、聞き込みによって犯人の動機を探るのではないかという疑問が浮かぶかもしれない。だが言うまでもなく、動機だけでは犯人特定には至らない。探偵にとって動機や犯人の心情は、せいぜい推理の根拠のひとつでしかない。

そのようにあくまで客観的事実や論理に基づいて推理を行う探偵像をもっとも先鋭的に打ち出したのが、80年代後半から90年代にかけてデビューした、いわゆる新本格と呼ばれる作風のミステリ作家たちである。綾辻行人、法月綸太郎、我孫子武丸など、主に関西出身の作家たちがその代表として挙げられる。

ここで紹介する有栖川有栖もまた、新本格ムーヴメントを担った重要な作家のひとりである。彼の筆が生んだ名探偵、犯罪社会学者火村英生もまた、事実と論理にのみに信を置いて推理を繰り広げる。火村英生を名探偵とした作品(ファンの間では「作家アリスシリーズ」と呼ばれる)は単行本にして30冊ほどになる。その中で今回『狩人の悪夢』を選んだのは、『46番目の密室』で登場して以降、数々の難事件を解決してきた火村のスタンスを端的に表す台詞があるからだ。

「動機については無視して考えました。これは私のいつものやり方です」

宮部みゆきも書評で引用しているこの台詞は、新本格の理念の一端を言い表している。島田潔(綾辻)や法月綸太郎(法月)といった、他の新本格の作家による名探偵たちが口にしても決しておかしくはない。そして事実の積み上げは、単に犯人の特定に至るだけではない。最終的にそれは、結果としての動機の解明にも繋がっている。名探偵に追い詰められた犯人は、自らその罪を語り始める。

おそらく演奏においても、一見逆説的あるいは回り道に見えるかもしれないが、まずは楽譜という証拠にとどまることが、作曲家へと遡行するための最も有効な回路であろう。そしてその先に立ち現れた作曲家像が、自ずからその作品についての知を与えてくれるだろう。ならば私たち演奏家は、新本格に描かれる探偵をひとつのモデルとすることができる。火村に倣ってこう言おう。

「作曲家の心情については無視して考えました。これは私のいつものやり方です」

……と、ここで紹介を終わっても良いのだが、実はもうひとつ見逃せないポイントがある。「作家アリスシリーズ」という名称にもあるように、火村が活躍する一連の作品では作家アリス=有栖川有栖という、著者と同名・同職業のキャラクターが視点人物となっている。同シリーズはアリスと火村の、いわゆるバディものとして描かれている。

警察の特別な許可のもと、火村とともに現場を観察するアリスはしばしば自前の推理を披露する。とはいえそのほとんどは、火村や刑事たち、時には容疑者でさえ呆れるほどのトンチンカンなものである。だが火村はアリスの意見を笑いつつも、無視することはない。というのもそれは彼にとって、有用な側面があるからだ。一旦はあらゆる可能性を想定してみること、そしてそのひとつひとつがなぜ間違っているかを指摘してくことは、翻って真犯人へと一歩近づくことになるのである。否定を積み重ねた末、それでも最後まで否定されえないものが、真相として立ち現れるのである。

そうであるならば、私たち演奏家は自らのうちに火村とアリス、その両者をともに抱える必要がある。動機(=作曲家の感情)などというあやふやなものではなく、徹底して事実(=楽譜)に基づいて思考すること。あらゆる可能性を試みてみること。そしてそれこそが、真実に到るための道だということ。第一級のエンタテインメント小説が、とびきりの読書の楽しみを別として、私たちに教えてくれるのはそのような知恵である。

※柄谷の引用は『増補 漱石論集成』(平凡社ライブラリー)より。同論集は現在『新版 漱石論集成』(岩波現代文庫)として刊行されいている(下記リンク参照)。



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