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ニュースキャスターは嬉しそうに

小学生が学校でオーバードーズした事がニュースになっているのを見て、女児と報じた意味と興味本位かと伝えた意図について考えた。

私はいつも思うのだけれど、一酸化炭素中毒の時も、手作りの銃や爆弾のテロのときも、報道機関が詳細に作り方を解説している意味がわからない。

起きた事故の背景はまだしも、凶器の製造方法を伝える意義は何なのか。自殺の流れを伝えて何になるというのだろう。模倣犯や後追いが増える事がメディアの成果にでもなるのか?率直に言って狂っている。

今回の報道で薬局やドラッグストアで薬を購入するのに、またバカげた規制やチェックが増える事が目に見える。点数稼ぎをしたい政治家と官僚が微笑むのが目に浮かぶようだ。ろくでもない。


報道に意義はあると思う。遠い空の向こうで鳴り響いている銃弾の音や、虐げられる人たちの嘆きや悲しみは報じられなければわからないことの方が多い。

けれど、片方のプロパガンダのような伝え方や、あきらかに意図を操作する手法が多く感じてしまう。政治に対してもそれは同じで、アンフェアな伝え方と、人を誘導しようという意図を感じてしまう。

わかりやすく、刺激的な言葉に人は弱い。私だって例外ではない。俗な人間だから。人間なんてそんなにキレイなもんじゃなく、キラキラしたものも、おそろしいものにも惹かれてしまうだろう。光に集まる虫みたいなもんだ。

だからこそ、情報を伝えるメディアは細心の注意を払わなければならないのに、情報操作やスポンサーへの配慮は気にしても、自分達が伝える情報がどんな意味を持つのかにまで責任を取ろうという姿勢は見えない。

小学生のオーバードーズを伝えることで、それを知らなかった若年世代がそれを知り、苦痛に耐えながら日々をギリギリで過ごしていた人が手段としてそれを行ったとしても、報道側は誰も責任を取らないんだろう。

90年代にカルトの情報を面白おかしく扱い、ネット普及時にリストカットを扱ったジャーナリストたちも、流布された手段から生まれた悲劇に誰も責任を取りはしない。失われた命には誰も責任なんて負えないのに。

先のジャニーズに対しての報道もそうだけれど、周囲では周知であったことが口に出せない空気と、その後での魔女狩りのような変更した情報の、その両方が私は気持ち悪い。

非常に面倒な考えかもしれないが、報道というのはそれくらいに慎重であるべきだと考えている。松本サリン事件の時の河野さんを犯人のように伝え続けたメディアのありかたから、それは続いている。

センセーショナルな話題ほど、速報性よりも本質が何なのか。背景はということ、何を伏せて何を報じるかに慎重であるべきたが、それで大きな被害や損害が出ないとメディアはわからんのだろうな。

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