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染めないで、染まらないで

価値観を変えるのは簡単ではなく、生きて見聞きしてきた情報や知識を味がしなくなっても噛むような保守的な暮らしをしていればなおさら。個性だなんだと言いながらも、ベースとなるのは与えられたり、受け取った情報であり、いわゆる【常識】や【普通】という言葉が持つ呪いは案外と協力である。

SNSを見ていると、LGBTQ関連で現在の価値観に対してNOを突きつける人が一定数いる。それ自体は個々人の活動で構わないのだが、自分がどうしても違和感を持つのは、現在の価値基準を持つ人たちを悪い人たちのように悪様に語る人が少なくないことなのだ。

ネットで見かけるリベラルな人が標榜する、全ての差別に反対しますという言葉に通ずる危うさを感じている。なぜなら、それはその人が差別的だと思えば他の人の考え方にレッテルを貼ってしまうからだ。

思考や思想なんて相対的なもので、真理なんてものは簡単に見つかる物ではないし、蜃気楼のようなものだと私は思うし、正しさを根拠に他者を殴りつけるような言説は好きになれない。それは優生思想や洗脳のそれと極めて近しいと感じるから。

ただ、極論でも大きな声で叫ばなければ周囲の耳目は引けないことは多いし、暴論だとしても意志を伝えるための行動を起こすのは冷笑主義よりはずっとマシであるとも思う。

おじさん・おばさん構文に対しての別世代からの違和感は差別的ではあるが、世代間闘争なんて、それこそギリシャ時代の壁画に【最近の若いものは】みたいな言葉が書いてあったそうだから珍しくはない。

問題はメディアが面白がって、その対立を煽るような報道をすること。これは年齢や性別、あるいは社会問題に対しても同じで、煽るだけ煽って衝突が起きても責任は取らないという姿勢にげんなりする。

結局のところ、誰かの提示した情報には何らかの意図が混入している。それを批判しているわけではなく、表現や発言とはそういうものだということだ。どれだけ作為を省いたつもりでも、言の葉に込められる想いからは逃れられない。AIを多用した文章であれ。

私は価値観をアップデートすることだけが最良とは思えないので、革命家が残された人たちを侮蔑する姿を醜く感じる。反面で、今悲しい思いをしている人がそうならないでいい環境が整えばいいとも思っている。中途半端だろうし、コウモリに見えるかもわからんが正直な気持ちだ。

普段は適度に無関心で、でも困っている人がいたら思想や嗜好がどうあれ助け合える。そういう環境がある国が本当の意味で豊かで平和な国なんじゃないかと思う。どちらが正しいとか、そればかり言い合うから争いがなくならない。本質をどう考えるのかと、他者に対してそれを押し付けずに語るにはどうすればいいのかをまずは考えたらいいと思う。

言うのは簡単だけど、自分もそれをできているとは思わない。そうかもしれない、でもこうだよな。そんな裏返しの表面を何度も何度も迷いながら歩いていくしかないのだおそらくは。

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