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てり雛からてるてる坊主へ【てるてる坊主考note#35】


はじめに

 「近世の田舎では風雨の害をはらうために人形を送る例もあった。照々坊主てるてるぼうずの風習もまたこれである」。民俗学者の柳田国男(1875-1962)は大正期の論考「毛坊主考」(大正3~4年=1914-15)のなかでそう述べています[柳田1990:452頁]。
 昨今のてるてる坊主の風習は、「近世の田舎」でよく見られた雨風祭りの名残だというのです。「風雨の害を攘う」雨風祭りに加えて、虫送り・疫病神送り・雨乞いといった人形送りの行事を、柳田はひとくくりに「金鼓こんくの行事」と名づけています(★詳しくは「人形送りのなかのてるてる坊主【てるてる坊主考note#34】」参照)。

 「いわゆる金鼓の行事が念仏供養とは全然独立して、おそらくはそれよりもずっと古くから、わがくにに存在したらしい」。そんな見通しを柳田は示しています[柳田1990:449頁]。災厄をもたらす悪霊を人形に託して、鉦や太鼓で囃しながら村境へと送り出す、という発想を基盤とした「金鼓の行事」は、仏教以前からの古い風習であるというのです。「金鼓の行事」はしばしば念仏を伴っているが、それは後世に付会されたものであると柳田は指摘しています。

 そして、柳田は近世(江戸時代)の文献資料から、虫送り・疫病神送り・雨乞い・雨風祭りといった「金鼓の行事」の事例を拾い集めて列挙しています。そのなかから本稿において検討対象としたいのは、実際に人形が登場する事例6点(★表1参照)。

 6点いずれも18世紀前半から19世紀初めにかけての事例です。疫病神送りが最も多く4点(表1の❷~❺)。そのほかには虫送りと雨風祭りの事例が1点ずつ(❶と❻)。雨乞いについては具体例がひとつも挙げられていません。
 先述のように柳田は、「金鼓の行事」が仏教以前からの風習である点を強調しています。しかしながら、柳田が挙げた「金鼓の行事」の事例に目を凝らしてみると、すでに近世には仏教的な装いが散見されるようです。具体的には、山岳修行をつんだ修験者や山伏の面影を探ってみましょう。切り口とするのは、人形送りの行事の担い手、および、作られる人形の姿かたちです。

1、行事を主宰する修験者

 第一に、人形送りの行事の担い手をめぐって。注目したいのは、文化11年(1814)の別所(現在の秋田県大館市)の事例(❶)。当地では6月18日に虫追祭がおこなわれました。
 大きな藁人形を作り、大日堂で「別当の修験扇田寺」が祈念をします。そのあと村人全員が笛や太鼓で囃しながら、藁人形を村の端まで送り出します。別所は羽後の東端に位置するため、人形を送り出す村境は当時の国境くにざかいでもあり、その向こうはもう陸中(現在の岩手・秋田両県の一部ずつ)だといいます。
 この村人総出の虫送りにおいて、大日堂でおこなう祈念の主宰者として登場しているのが「別当の修験扇田寺」。扇田寺の詳細は不明ですが、別所のほど近くには扇田という地名(同じく大館市内)があり、何らかの関わりがありそうです。
 扇田寺は「別当の修験」であると記されています。別当とは神社を守護する寺のこと。すなわち、扇田寺は神社を守護すべく建てられた修験寺院のようです。羽後ということで羽黒修験の影響が強そうです。あるいは、扇田寺の建つ別所あたりには十二所という、熊野修験との関わりを推測させる地名も見られます。当地における修験の実態は不詳ですが、別所の虫送り行事において扇田寺という「別当の修験」が大事な役割を担っていたことを、ここでは確認しておきましょう。
 あるいは、修験者ではなく神職が関与している事例も見られます。天明6年(1786)の深浦(現在の青森県西津軽郡深浦町)の疫病神送り(❹)です。4月8日に鹿島人形という形代をたくさん作って小舟にのせ、笛や太鼓で囃しながら海へと流しました。その際、大勢のはふりが人形に付き従ったといいます。祝とは神職のひとつ。ただし、神主や禰宜ねぎより位は下がります。
 ここで触れた2つの人形送りにおいては、行事に関与しているのは、寺社の組織内で中核を占める僧侶や神主・禰宜ではありません。「別当の修験」(❶)や祝(❹)といった、寺社組織のあくまでも周縁あるいは下層に位置する人たちが顔を覗かせています。

2、山伏の姿をした異形の人形

 第二に、人形送りで作られる人形の姿かたちをめぐって。そこにも山伏(修験者)の影が散見されます。まず注目したいのは文政2年(1819)の福山(広島県)の疫病神送り(❺)。「山伏などの異形」すなわち怪しい姿の藁人形を作るといいます。それをむしろで作った舟にのせ、鉦や太鼓で囃して松明を焚きながら送り、海や川に棄て去ります。

 前掲した表1の6例のほかに、柳田は奥羽地方(現在の東北地方)における次のような事例も紹介しています。典拠とした文献名が記されていないので、おそらく柳田自ら見聞した事例なのでしょう。ここにも山伏のような姿をした人形が登場します[柳田1990:456頁]。

奥羽地方で戸口または村はずれに立たしむる草人形は多くは二体で、弓刀を持たせたりシトギを首に懸けさせたり、山伏とも武士とも見える様態で、その名も草仁王くさにおうまたは鹿島かしま人形・牛頭ごず天王などと呼んでいる。

 2体の草人形を作って家の戸口や村はずれに立てるといいます。人形には弓や刀を持たせ、シトギと呼ぶ丸餅を首に懸けます。弓や刀といった武具を持つのは武士のいでたち。いっぽう、丸餅はおそらく数珠つなぎにして最多角いらたか念珠のようにすることで、それを首に懸けた人形を山伏に見立てたのでしょう。
 こうした奥羽地方の事例についても、柳田はやはり疫病神送りのひとつと位置づけています。ただ、武士や山伏の姿に形づくった人形には、外から来る悪霊を追い払う防御者としての性格を見出すことも可能でしょうか。武士に見立てた人形には、災厄をもたらす悪霊を武力で追い払うことが期待されているのでしょう。同じく、山伏に見立てた人形に期待されているのは、験力のような呪力といえるでしょうか。
 この草人形の呼び名も気になります。「草仁王」「鹿島人形」「牛頭天王」などと呼ばれるそうです。このうち「草仁王」という名には、寺の山門の両脇に立って仏敵を防ぐ仁王のイメージが重なります。また、「牛頭天王」は一般的には八坂神社(京都市)の祭神として、疫病除けにご利益があることで知られています。そのため、「草仁王」や「牛頭天王」という呼び名には、家や村を外敵から守る役割が期待されているのを感じます。

3、〈犠牲の人形〉か〈防御の人形〉か

 こうしてみると、疫病を避けるべく作られる同じような山伏姿の人形であっても、タイプが2とおりに分かれるようです。ひとつは、前掲した福山(広島県)の事例(❺)のような、災厄をもたらす悪霊を託されて祀り棄てられるタイプ。いわば〈犠牲の人形〉です。もうひとつは、奥羽地方の「草仁王」「牛頭天王」のような、外から来る悪霊を呪力で追い払うタイプ。いわば〈防御の人形〉です。
 こうした〈犠牲の人形〉と〈防御の人形〉の位置づけをめぐって、とても参考になるのが、民俗学者・神野善治(1949-)の「人形道祖神」論。神野は大著『人形道祖神』において、東北地方から関東地方にかけて広く分布する、村はずれに立つ大人形を分析しています。
 「人形道祖神」の特徴として神野が挙げているのは次のような点。「①疫病などの災厄がムラに入るのを防ぐ目的で祀り、②村人が力を結集して作り、③村境の路傍や道の辻などに立てる境の神であり、④一年中据え置かれる、⑤大きな人形である」[神野1996:266頁]。
 このような「人形道祖神」の特徴は取りも直さず、本稿で述べてきた〈防御の人形〉の特徴と重なります。そして神野は、「人形道祖神」のもとのかたちは形代だったのではないかと指摘しています[神野1996:342頁]。

人形道祖神は、いわば形代の親方●●のようなものであり、人びとから託された災厄の塊となったものなのである。しかし、災厄も濃厚に凝縮されることによって強大な威力となり、人形はもろもろの悪霊・悪病などを統合する御霊のような神格を得、さらには境に常設されることによって性格を転換し、外の世界から侵入してくる災厄を撃退する守護神としての機能を発揮するようになったのであろう。

 当初、虫送りや疫病神送りのため臨時に作られてきた「神送りの人形」。それは「村人を代表する形代」や「疫病神(悪霊)の依代」として、村境に追放されたり放置されたり、あるいは、川に流されたり焼き払われたりしました。そうした、災厄追放を目的に作られた人形のうち、村境に放置されていたものが、やがて「防御を意図して恒常的に祀られる」ようになったことで、「疫病神(悪霊)の猛威を避ける守護神」へと転換を果たしました。それが「人形道祖神」だと神野はいうのです(★表2参照)。

 「村人を代表する形代」や「疫病神(悪霊)の依代」という性格をもった「神送りの人形」から、「疫病神(悪霊)の猛威を避ける守護神」という性格をもった「人形道祖神」への転換。こうした神野の考察になぞらえるならば、本稿で取り上げてきた人形送りの人形をめぐっても、〈犠牲の人形〉→〈防御の人形〉という転換を推測することができそうです。

4、修験者がもつ呪力への期待

 柳田が列挙している「金鼓の行事」。そのなかで、本稿で注目したのは人形が登場する事例でした。そこには修験者(山伏)との関わりを窺わせる事例が散見されました。行事を主宰するのが「別当の修験」であったり、あるいは、人形が山伏の姿に作られたりといった具合です。「金鼓の行事」をめぐる柳田の考察や、本稿で注目した事例をふまえて、次のような見通しを立てることができるでしょうか。
 古く仏教以前から続けられてきたと想定される、虫送り・疫病神送り・雨乞い・雨風祭りといった「金鼓の行事」。そこに後世、仏教者とりわけ山岳修行をつんだ修験者(山伏)が関与するようになりました。見かたを変えれば、「金鼓の行事」を当初から主宰してきた人たちが、時流に合わせて仏教や修験道を巧みに取り入れたともいえそうです。
 むろん、「金鼓の行事」を主宰する修験者に対して人びとが期待したのは、彼らが有する験力です。その結果、人形そのもののかたちにも影響が及び、修験者(山伏)の姿をした人形が現れました(★表3参照)。

 先述のように、山伏姿の人形には2つのタイプが見られます。災厄をもたらす悪霊を託されて祀り棄てられる〈犠牲の人形〉、および、外から来る悪霊を呪力で追い払う〈防御の人形〉です。おそらく、〈犠牲の人形〉が本来のかたちであり、やがて修験者(山伏)の姿が帯びる呪力への期待から、新たに〈防御の人形〉としての役割を期待されるようになったのでしょう。〈犠牲の人形〉→〈防御の人形〉という転換です。
 そうしたなかで、祈願の方法にも変化が見られます。災厄を託された〈犠牲の人形〉は、村境へと送り出され、海や川に流されていました。いっぽう、〈防御の人形〉は流されることなく、村境や家の戸口に立てられます。いわば、内と外の境界と意識される場所において、〈防御の人形〉は機能を発揮しているのです。〈犠牲の人形〉→〈防御の人形〉という転換に伴って、祈願方法は〈外の世界へ祀り棄てる〉→〈境界に設置する〉と変化しています。

5、てるてる坊主以前?のてり雛

 冒頭で触れたように、柳田国男はてるてる坊主を「金鼓の行事」の一例である雨風祭りの名残と位置づけています。では、そんなてるてる坊主をめぐっても、〈犠牲の人形〉あるいは〈防御の人形〉としての役割、さらには、〈犠牲の人形〉→〈防御の人形〉という転換の跡をたどることは可能でしょうか。
 昨今のてるてる坊主を思い描いてみると、多くは軒下や窓辺などに吊るされています。そこは屋内と屋外の境目であり、やはり内と外の境界と意識される場所。そうした境界に設置されるのは、先述したとおり〈防御の人形〉の特徴といえます。
 それでは、〈防御の人形〉以前のてるてる坊主のありようを探ることは可能でしょうか。言い換えれば、災厄をもたらす悪霊を託されて海や川へと流される、〈犠牲の人形〉としてのてるてる坊主です。実は、近世(江戸時代)から近代(明治・大正・昭和前期)にかけてのてるてる坊主には、〈犠牲の人形〉の面影をそこかしこに窺うことができます(★図1参照)。

 かつて、てるてる坊主は「てり雛」とも呼ばれていた時代がありました。そうした呼び名が、江戸時代から明治期を中心として文献資料のなかに散見されます。「てり雛」という呼び名は、語尾に「坊主」や「法師」が用いられるようになる以前からの、古い用法である可能性があります。
 雛というと、昨今ではすぐに思い浮かぶのが豪華絢爛な雛飾り。しかしながら、雛とは本来、災厄をもたらす穢れを託して川に流す形代でした。そして興味深いことに、てるてる坊主もかつては、願いがかなったら川に流すという作法を伴っていたことが、数々の文献資料から確認できます。ときには、願いがかなったあとではなく、願いを込める時点で、前もって川に流すという事例も見られます。
 近世の絵画には、そうした形代として水に流されるのにふさわしい姿をしたてるてる坊主が、しばしば描かれています。その姿は、昨今でも大祓などの際に用いられる、からだを撫でて穢れを託すヒトガタを彷彿させます(★図2参照)。

 このような、「てり雛」という呼び名、川に流すという願掛けの作法、平面状の姿かたちといった諸要素から、てるてる坊主もかつては〈犠牲の人形〉だったことが推測されます。もとより、呼び名・願掛けの作法・姿かたちといった諸要素は、現在に至るまでに大きな変化を遂げています。そうした変化は同時併行ではなく、要素ごとに時間差をつけながらゆっくりと進んだようです(★詳しくは「雛としてのてるてる坊主【てるてるmemo#6】」、および、「「てるてる坊主=形代」説・再考【てるてる坊主考note#27】」参照)。

おわりに

 民俗学者の宮田登(1936-2000)は「てるてる坊主と日和見」と題した小論のなかで、次の2点を問題提起しています。それは、「女の子が関与したわりには、てるてる坊主は、味も素っ気もない丸坊主の法師姿で通している」点、および、「坊主とか法師の異称をとっている」点。昨今のてるてる坊主をめぐる、姿かたちや呼び名への着目です。そのうえで宮田は次のように述べています[宮田1980:42頁]。

人形は形代かたしろとして払われるものだが、ちょうど六月と十二月の大祓の撫物のように掃き捨てられる運命にある。てるてる坊主も形代にふさわしい姿をとっている……(中略)……天気や日和の呪いに、法師を形代にするという発想は、このハレの儀礼を主宰した宗教的な存在を予測させるのではなかろうか。

 本稿で先にも触れた、大祓で用いられるヒトガタのように、てるてる坊主も本来は晴天祈願の形代として祀り棄てられるものだったというのです。そして、てるてる坊主が法師の姿をしているのは、「ハレの儀礼を主宰した宗教的な存在」が関与したためではないか、そう宮田は指摘しています。

 本稿でたどってきた、「金鼓の行事」における〈犠牲の人形〉→〈防御の人形〉という転換。そのきっかけとしては仏教とりわけ修験の関与が想定されました。それでは、〈犠牲の人形〉としての「てり雛」から〈防御の人形〉としてのてるてる坊主への転換においても、そうした仏教的なものが関与した跡を窺うことはできるでしょうか。
 たとえば、姿かたちに目を向けてみると、てるてる坊主は先述した〈防御の人形〉に見られたような修験者(山伏)の姿ではありません。しかしながら、てるてる坊主の丸い坊主頭には、仏教の僧侶のイメージが重なります。
 あるいは、呼び名に耳を傾けてみましょう。先述した「てり雛」は例外的で、語尾には「坊主」もしくは「法師」がもっぱら用いられてきました。「てるてる人形●●」とか「てるてる神さま●●●」などと呼ばれたことはありません。「坊主」や「法師」といった語には、やはり仏教の僧侶のイメージが色濃く漂います(★詳しくは「法師とは/坊主とは【てるてる坊主の呼び名をめぐって#12】」参照)。

 〈犠牲の人形〉としての「てり雛」から、〈防御の人形〉としてのてるてる坊主へという見取り図。その背景に垣間見られる仏教的なものの面影に、今後も目を凝らしてみたいと思います。

参考文献
【全体に関わるもの】(著者名五十音順)
・神野善治『人形道祖神——境界神の原像』、白水社、1996年
・宮田登「てるてる坊主と日和見」(『民博通信』11号、国立民族学博物館、1980年)
・柳田国男『柳田国男全集』11(ちくま文庫)、筑摩書房、1990年(該当箇所の初出は「毛坊主考」〈『郷土研究』、1914-15年〉)

【図2に関わるもの】(丸数字は図に対応。二重括弧内は原典にあたることができなかったための参照元)
①、菅江真澄『蝦夷喧辞弁』上、1789年 ≪菅江真澄〔著〕内田ハチ〔編〕『菅江真澄民俗図絵』上巻、岩崎美術社、1989年≫
②③、尾上梅幸〔作〕歌川国貞〔画〕『皇国文字娘席書』、丸屋甚八、1826年
④、万亭応賀〔作〕静斉英一〔画〕『幼稚遊昔雛形』下巻、吉田屋文三郎、1844年 ≪尾原昭夫『日本わらべ歌全集』27 近世童謡童遊集、柳原書店、1991年≫
⑤、岡本昆石『古今百風 吾妻余波』1編、森戸錫太郎、1879年

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