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【歴史概要100】ペルシア戦争・アテネ民主政

①オリエント統一を進めるアケメネス朝ペルシアは
BC6世紀後半になると小アジアのリディア王国を滅ぼした。

②西海岸イオニア地方のギリシア人ポリスへの圧迫をした。BC499年にミレトスが中心になってイオニア周辺の諸ポリスが反乱をしたが鎮圧された。

③BC492年にペルシアのダリウス1世は遠征軍を贈ったが嵐の為失敗しBC490年に第2回の遠征軍が送られた。アッティカ地方の東海岸に上陸したペルシア軍2万はマラトンでアテネの重装歩兵約9000と戦った。

④司令官のミルティアデスは数では劣勢であったが
奇襲戦法でペルシア軍を打ち破った。

⑤BC480年にダリウス1世の後任であるクセルクセス1世が第3回遠征を行った。陸軍の大軍を派遣した。

陸軍はバルカン半島東岸を南下しテルモピレーの隘路でスパルタ王レオニダスの防衛線を突破した。

⑥味方についたポリスに間道を教えられたペルシア軍が背後からスパルタを攻撃しスパルタ軍は全滅した。ペルシア軍はそのままアテネに向かった。

⑦マラトンの戦いはペルシア戦争を終結させたかにみえたがアテネ軍人テミストクレスはまだ戦闘は続くと考えていた。「木によって戦え」というデルフォイの神託をめぐり2つの解釈が出た。

⑨「アクロポリスに柵を作れ」か「軍艦を建造し海上で戦え」である。結果として強引に軍艦を建造した。

BC480年で行われたサラミスの海戦でギリシア艦隊は勝利しペルシア戦争の大勢は決まった。

⑩翌年や翌翌年も戦闘は続いたが事態は大きく変化しなかった。

ペルシア帝国は強大な勢力を維持していたのでギリシアの諸ポリスはアテネを盟主としてデロス同盟を結成してペルシアの再攻に備えた。

⑪BC449年にカリアスの和約が結ばれた。ペルシア艦隊はエーゲ海に入らない事、小アジアのギリシア人植民地に自治を認める事、ギリシアはキプロスやエジプトに干渉しない事が確認された。これでペルシア戦争は終結した。

⑫ペルシア戦争によりアテネの政治体制は前進した。無産平民にも平等な政治権利が保障された。サラミスの海戦で無産平民が軍艦の漕ぎ手として活躍した事によるものだった。

⑬BC443年のペリクレスの時代になると最高官職であるアルコン職は抽選で選ばれるようになった。民会の権限も強化され貴族の牙城であったアレオパゴス会議権限も縮小をした。公従事には手当てが支払われるようになった。

⑭古代アテネの民主政は現代の民主主義とは異なっている。市民権はポリスを守る戦士のみが行使できるものである。成人男子で武器を自分で用意できる有産者に限られていた。有産市民以外は前述したサラミスの海戦により公職解放されるようになった。

⑮婦人参政権と奴隷制度の問題は残った。

哲学者のアリストテレスも奴隷制度を認めており奴隷解放まで長い時間が必要となった。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 上』 関 真興 日本経済新聞出版社

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