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【歴史概要93】オルレアン解放・百年戦争終結

①1415年にヘンリー5世はフランスに軍を進めた。初めの戦闘のあと補給のため大陸の拠点カレーに移動したときアルマニャック派を中心としたフランス軍が襲撃してきた。

②カレーの南50Kmの地であるアザンクールで行われた戦いでは7000人のイングランド兵が重装騎兵を中心にした2万のフランス軍を破った。戦争末期には大砲も戦場で使われた。

③1417年に態勢を整えたヘンリー5世は再度フランスを攻めて領土を広げた。ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立抗争は激化しておりブルゴーニュ派のサポートを得たヘンリー5世は北フランスを制圧した。

④1419年には王太子のシャルル(後の7世)はパリを制圧していたブルゴーニュ派と手を組んでイングランドと対決しようとした。

そしてシャルルの支持者がブルゴーニュ公のジャンを暗殺する事件が起きた。

⑤1420年に次のブルゴーニュ公となったフィリップはイングランドとトロワの和約を結び王太子のシャルルをフランス王位継承者から廃した。シャルルの姉カトリーヌと結婚していたヘンリー5世にフランス王位の継承権を認めた。

⑥1422年にヘンリー5世が亡くなり、2ヶ月後にはシャルル6世も亡くなった。王位はヘンリー5世とカトリーヌの子どもであるヘンリー6世が継承する事となる。王太子だったシャルルはアルマニャック派のサポートでシャルル7世として即位した。

⑦1428年にイングランドはブルゴーニュ派と連携してアルマニャック派の拠点であるオルレアンを包囲する事となった。1年半にわたって包囲された。ここでジャンヌ・ダルクが登場する。

⑧ジャンヌ・ダルクは1412年に当時のドイツ領であるロレーヌ地方のドンレミ村で生まれた。13歳の時(1425年)にイングランド軍がオルレアンを包囲する3年前に「オルレアンの包囲を解放してフランスを救え」という神の声を聞いたと云われている。

⑨1428年にシノン城でシャルルと会見して聖職者たちにも認められるようになる。ロワール川の湾曲部の戦略的拠点であると同時に経済的拠点であったオルレアンはフランスの南方や西方に進出する軍事拠点でもあった。

⑩1428年にイングランドはオルレアンを包囲した。フランス側の守備隊は抵抗し攻防は1年半に及んだ。

⑪ここでジャンヌ・ダルクがイングランド軍を打倒しオルレアンを解放した。戦況は徐々にフランス側に有利となりシャルル7世が即位する事となった。

⑫この頃国王の側近たちは武力でフランス解放を得ようとする急進派の意見に反対するようになった。

「パリ奪還によってフランスが解放される」とする立場のジャンヌ・ダルクは疎まれるようになった。

⑬1430年にコンピエーヌの戦いでジャンヌ・ダルクはブルゴーニュ軍の捕虜となった。ブルゴーニュ公はイングランド軍にジャンヌ・ダルクを売り渡した。1431年にルーアンで行われた宗教裁判で魔女と認定され火刑に処せられた。

⑭シャルル7世は1450年にジャンヌ・ダルクの裁判を調査させローマ教皇は裁判のやり直しを決定した。戦争終結後の1455年に復権裁判を行い1456年に処刑裁判が破棄された。

⑮1431年にブルゴーニュ公とシャルル7世の間で休戦条約が締結された。イングランドとブルゴーニュ家の同盟関係の切り崩しが始まった。1435年には実現された。

これがアラスの和議である。

⑯ブルゴーニュ公はシャルル7世を正式なフランス国王と認めた。ブルゴーニュ家との関係は改善され1436年のパリ解放から次々とイングランド領を奪還した。

イングランド国内では戦争反対の動きが加速し、フランスでは国王を中心とした集権国家が期待されるようになっていた。

⑰1453年にフランス軍はボルドーから50km離れたカスティヨンの戦いで勝利した。ギュイエンヌの奪還に成功した。カレーは1559年までイングランド領として残ったが百年戦争は終結した。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 上』 関 真興 日本経済新聞出版社

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